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兵庫の旅と歴史
兵庫の旅    丹波市

高源寺
こうげんじ
兵庫県丹波市青垣町桧倉514
Tel 0795-87-5081


 瑞巌山高源寺は兵庫県丹波市(旧氷上郡青垣町)にある臨済宗妙心寺派のお寺です。本尊は釈迦如来で、もみじの寺として知られています。山梨県にある栖雲寺(せいうんじ)が東天目と呼ばれるに対して、高源寺は西天目(にしてんもく)と呼ばれ、丹波屈指の名刹として知られています。
 高源寺は正中2年(1325)遠渓祖雄(えんけいそゆう)禅師によって開山されました。祖雄は青垣町の遠坂にあった山垣城(やまがいじょう)の城主足立遠政(あだちとおまさ)の孫の光基(みつもと)の三男です。
 祖雄は、幼少の頃より出家し、徳治元年(1306)元(中国)に渡り、杭州にある天目山で普応国師(中峰明本)のもとで約10年修行をして悟りを開きました。そして、正和4年(1315)に日本に帰国しました。
 霊夢で得た天目山に似た岩屋山を選び、佐治郷小倉に堂宇を創建します。都から離れたこの地を根本道場にしたようです。その時、元から持ち帰った天目楓(てんもくかえで)の種を植えたようです。
 嘉暦元年(1326)、後醍醐天皇より高源寺の寺号を賜り、永正14年(1517)には後柏原天皇の勅願寺となり、住職は末代紫衣の宣旨を受けました。これにより、高源寺が単に禅の一派としてでなく、京都五山と並ぶ格式のあるお寺になりました。
 寺運は隆盛し、末寺3千を超える丹波の名刹となり、大本山として大きな影響力を持ちました。しかし天正3年(1575)から天正7年(1579)の間に、織田信長の命を受けた明智光秀の丹波攻めの兵火で寺のすべてが灰燼に帰しました。
 天正3年(1575)、丹波平定の命を受けた明智光秀は、黒井城を攻め、八上城主の波多野秀治の裏切りで退却、天正5年(1577)に再び丹波を攻めました。まず亀山城を落とし拠点とし、難敵となった八上城を包囲しました。神吉城攻めや、荒木村重の有岡城攻めにも兵を出しながら、天正7年(1579)、八上城、黒井城を落とし、丹波を平定しました。
 荒廃した高源寺を、享保年間(1716-1735)に天岩明啓(てんがんめいけい)禅師が高源寺を再興しました。さらに寛政11年(1799)、柏原藩、織田家の庇護を受けて、弘巌玄猊(こうがんげんげい)禅師が再建し、現在に至っています。
 寺宝の絹本着色普応国師像(画)は祖雄が帰国に際し、師の普応国師から授けられたもので、国の重要文化財に指定されています。また、袈裟、雪岩租欽墨蹟、高峰原妙墨蹟、中峰明本墨蹟が丹波市指定文化財に指定されています。
 約1万平方mの広い境内には、方丈、仏殿、山門、客殿、多宝塔、宝蔵などが建ち並んでいます。境内全域が丹波市の名勝に指定されています。
 秋には数百本の小ぶりな天目楓と千本以上ある紅葉が鮮やかに取り囲みます。紅葉の美しさから丹波紅葉三山に数えられ、関西花の寺25霊場4番にも選定されています。


高源寺惣門
 高源寺惣門は、弘巌玄猊禅師が柏原藩、織田氏の援助を得て建立したものです。正面の額には、弘巌玄猊禅師揮毫の「丹丘勝処(たんきゅうしょうしょ)」の扁額があります。
高源寺惣門

高源寺山門
 高源寺の山門は別名紫鳳楼(しほうろう)と呼ばれ弘巌玄猊禅師によって建てられました。2階には、釈迦と十六羅漢を祀っています。天井には、弘巌玄猊禅師筆による天女や経典の画が描かれています。
高源寺山門

高源寺仏殿
 高源寺の仏殿は本堂にあたります。法王殿(ほうおうでん)とも呼ばれ、本尊の釈迦如来坐像を祀っています。この像は、天台宗の僧・恵心僧都の作と伝えられ、平安末期から鎌倉時代の作とされています。この建物は、中興の天岩明啓禅師によって建立されています。
高源寺仏殿

高源寺多宝塔
 高源寺の多宝塔は一般的には三重塔と呼ばれ、弘巌玄猊禅師によって建てられています。中は輪蔵(りんぞう)という造りになっていて、釈尊一代に説かれた5千48巻の経文が納められています。正面には三国伝来の印度毘須鳩摩の作と伝えられる「開運毘沙門天(びしゃもんてん)」を祀っています。
高源寺多宝塔

高源寺方丈
 高源寺の方丈は、弘巌玄猊禅師の建立で庫裡も兼ねています。開山遠谿祖雄禅師・開山禅師の師である中峰国師・中興天岩明啓禅師像が安置され、歴代の住職の位牌も安置されています。
高源寺方丈

高源寺鐘楼
 高源寺の鐘楼は、お寺の行事の折に撞かれます。現在の鐘は戦争に提供して後、昭和22年(1947)に鋳造されたものです。
高源寺鐘楼

三笑橋
 三笑橋は虎谿泉と呼ばれる渓谷に架けられています。中国にある虎谿で、開山の遠谿祖雄禅師らの三法師が、虎の鳴く声を聞いて大笑いしたという故事から名づけられています。
三笑橋

心字の池
 心字の池は高源寺庭園の中心をなしています。永正14年(1517)、後柏原天皇の勅願があり、勅使が智傳禅師に名園を絶賛したと伝えられています。天正年間(1573-1592)に赤井、足立氏の合戦で庭園も荒廃したそうです。天岩明啓禅師が柏原藩、織田信休に嘆願し、弘巌禅師の時に完成したそうです。
心字の池

幽霊水鏡の橋
 心字の池に幽霊水鏡の橋が架けられています。幽霊定子が父の植西定張に伴われ、高源寺の桐州明潮禅師の許しで入定しようとしたとき、自分の姿をこの橋の上から心字の池に映して眺めていたといわれています。以来、この橋は幽霊の心事を偲ぶ橋とされています。
幽霊水鏡の橋


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