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兵庫の旅と歴史
兵庫の旅    豊岡市出石町

宗鏡寺
すきょうじ
兵庫県豊岡市出石町東篠33
Tel 0796-52-2333


 出石の町の東方にある入佐山のふもとに臨済宗大徳寺派の宗鏡寺があります。山名氏の菩提寺として明徳3年(1392)山名氏清によって創立されました。寺名は氏清の法号、宗鏡寺殿から名付けられたといわれています。
 山名氏滅亡後、寺は荒廃してしまいます。元和2年(1616)沢庵和尚が来住し、出石城主小出吉英に再興をすすめ、援助を得て再興しました。吉英は小出吉政の嫡男です。吉政とその父小出秀政は関ヶ原の合戦で西軍についてしまいました。
 しかし二男の小出秀家は東軍方につき活躍しました。その功を持って、秀政、吉政も許され、但馬出石の6万石の旧領を安堵された経緯がありました。秀政の死後、小出吉英が和泉岸和田を継ぎ、出石領は吉英の弟、小出吉親が別家として継ぐことになりました。
 その後、岸和田藩宗家の小出吉英が、但馬出石に移され、吉親は、丹波園部へ移り、園部藩を作りました。但馬出石の宗家はその後、無嗣断絶してしまいますが、園部藩の小出家は幕末まで続いたそうです。小出家無嗣断絶後、藤井系松平氏の松平忠周(ただちか)が入りました。
 忠周は将軍綱吉の側用人に抜擢され従四位に任ぜられたほどの人物でした。宝永3年(1706)正月28日、松平忠周は信濃上田5万8千石の上田藩へ転封を命ぜられました。忠周は享保2年(1717)には京都所司代、同9年(1724)には老中に任ぜられた有用な人物でした。
 出石へは上田藩の仙石政明が入りました。松平氏と仙石氏は、その領地を交換したわけです。松平氏は明治まで続きましたが仙石氏は幕末近くに仙石騒動を起こしてしまいました。
 藩財政の逼迫で筆頭家老の仙石左京は改革産業振興策を、もう一人の家老仙石造酒は、質素倹約の保守政策をと対立しました。6代藩主仙石政美(まさみつ)は左京の政策を支持し左京は強引な改革を推進したのです。
 政美が嗣子なくして没すると 仙石久利が跡継ぎに決しました。反左京派は左京の行動が穏当を欠くとして糾弾、左京は失脚、仙石造酒が政権につきました。しかし派内で自滅し、再び左京が政権に返り咲きます。 
 反左京派はおさまらず、左京が自分の子を藩主にさせるため、藩主久利の暗殺を計画しているなどと誹謗中傷を繰り返したため幕府の耳に入ってしまいます。仙石左京は獄門、出石藩も3万石にさせられてしまったのです。

 宗鏡寺に出石藩の第6代藩主の小出英安(こいでふさやす)の墓があります。第5代藩主の小出吉重の長男で、延宝元年(1673)に父の隠居により家督を継ぎました。新田開発、藩札の発行などに手腕を見せましたが、家臣などに対する粛清は度を越えていたようです。
小出英安の墓
 仙石政辰(せんごくまさとき)の墓もあります。上田藩から仙石政明が転封後、補佐役を務めた仙石政勝は政辰の祖父にあたり、第2代藩主の政房の生母の父でもあったため、政辰は享保17年(1732)政房の婿養子となりました。享保20年(1735)養父が亡くなり、出石藩第3代藩主となりました。
仙石政辰の墓

 仙石久道(せんごくひさみち)は、出石藩の第5代藩主です。第4代藩主の仙石久行の長男として生まれ、天明5年(1785)家督を継ぎました。文化11年(1814)に家督を長男の政美に譲りましたが、文政7年(1824)政美が早世したため、四男の久利を第7代藩主に擁立し、仙石騒動を招いた遠因をつくったともいわれています。
仙石久道の墓

 宗鏡寺には仙石久道の妻の墓もあります。左には娘の日澄大姉の墓もあります。大姉は、嫁ぐ事なく、明治の激変の中、貧しき中に亡くなられたそうです。
仙石久道妻の墓

 宗鏡寺には沢庵和尚の墓もあります。宮本武蔵の師ともいわれている沢庵は江戸時代初期の禅僧で、書画、俳句、茶道に精通した人物といわれています。たくあん漬けの考案者ともいわれています。
沢庵の墓
 裏山から流れる清水を利用した地泉庭園は、沢庵作の庭園で、池の形状は横に長く鶴の形をしており、中央には亀島を築いてあります。県の文化財にも指定されています。
沢庵の墓


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