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京都の旅と歴史
京都の旅    福知山市

福知山城
ふくちやまじょう
京都府福知山市内記5
Tel 0773-23-9564


 福知山は、丹波、丹後、但馬をおさえる交通の要衝の地です。福知山城の築城は戦国時代、塩見頼勝が築いたといわれています。掻上城と称しましたが、頼勝の子である横山頼氏の時に横山城と呼ばれました。天正7年(1579)織田信長の命を受けた明智光秀は横山城を落城させ、城主横山大膳信房は自害しました。
 光秀は丹波平定後に福智山と改称し、自ら指揮して福知山城を築城しました。城主には光秀の甥で女婿にあたる明智秀満を置きました。天正10年(1582)の本能寺の変で織田信長を討ち取りましたが、山崎合戦で敗れ、坂本に退却中、落武者狩りの土民に襲われ死亡しました。
 秀満は坂本城に火を放って自刃しました。天正14年(1586)、福知山城には羽柴秀勝配下の杉原家次が城代として2万石で入封しました。家次は豊臣秀吉の正室・寧々(高台院)の母・朝日殿の兄になる人です。家次が病没後、土豪から出世した小野木重勝が3万石の城主になりました。
 慶長5年(1600)の関が原の戦いで、小野木重勝は西軍につき、宮津城攻略に参加しました。その後東軍の攻勢にあい細川幽斎らが率いる大軍に福知山城は包囲され、重勝は開城の後、自刃させられました。その後、苛酷な有馬検地で有名な有馬豊氏が20年支配しました。
 元和7年(1621)、亀山からきた岡部長盛が5万石で入封しました。寛永元年(1624)、稲葉紀通が城主となりましたが発狂し家臣などを殺害したため除封、松平忠房の後に常陸土浦から来た朽木植昌が寛文9年(1661)、3万2千石で入封し、明治まで13代200年間統治しました。
 城は明治5年(1872)廃城令で取り壊され、石垣と銅門番所だけしか残りませんでした。昭和61年(1986)、市民の瓦1枚運動などの熱意によって3層4階の天守閣が復元され、小天守、続櫓なども再建されています。天守閣は郷土資料館で城に関する資料や福知山地方の歴史文化財を紹介しています。



銅門番所
 この銅門番所は福知山城の銅門の脇(市役所東付近)にあった番所です。大正時代のはじめに天守台(小天守台)に移され、昭和59年(1984)に現在の場所に移築されています。
銅門番所

福知山城天守閣復元鯱瓦
 福知山市と旧大江町との合併を記念して福知山城の天守閣の鯱(しゃち)瓦を原寸復元したものです。高さ150cm、基部たて80cm、横45cmもあります。平成18年(2006)に30日かけ91名の鬼師が協力し完成させたそうです。
天守閣復元鯱瓦

福知山城転用石
 福知山城の石垣には宝篋印塔(ほうきょういんとう)、五輪塔を始め、石仏、石臼、灯籠など寺院などで使われていた石造物などが大量に使用されています。これを「転用石」と呼んでいます。延文4年(1539)銘の五輪塔地輪は転用石では最古の銘です。再建時の発掘調査で500余りが確認されているそうです。
福知山城転用石

豊磐井
 本丸に残る井戸は、「豊磐井」(とよのいわい)と呼ばれています。福知山城主・朽木植昌の父である植綱の神号「豊磐植綱彦命」にちなんだものです。城郭用湛水井戸としては日本一の地表下50m、海面下7mにまで達しているそうです。
豊磐井

佐藤太清記念美術館
 福知山城公園の一角に佐藤太清記念美術館があります。城の外観をした櫓風建物は、平成2年(1990)4月に開館しました。福知山市出身で文化勲章を受章した現代日本画家・佐藤太清画伯の見ごたえのある花鳥画を中心に、日本画を展示しています。
佐藤太清記念美術館



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