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京都の旅と歴史
京都の旅    京田辺市

酬恩庵(一休寺)
しゅうおんあん(いっきゅうじ)
京都府京田辺市薪里ノ内102
Tel 0774-62-0193


 霊瑞山酬恩庵は臨済宗大徳寺派のお寺です。鎌倉時代中期の文永4年(1267)に大応(だいおう)国師が創建した妙勝寺が前身です。元弘年間(1331-34)に兵火で焼失し廃絶していたのを、康正元年(1455)、一休宗純禅師が大応国師の遺風を慕って堂宇を再興し寺名を酬恩庵と改めました。
 酬恩とは師の恩に報いるという意味があります。酬恩庵はとんちの一休さんで知られる一休禅師が復興させたことから一休寺とも称されています。一休禅師は、大徳寺47世となってからも自らの死所をこの地に定め、文明13年(1481)にここで亡くなりました。
 一休禅師の墓所は、宗純王廟と呼ばれ、廟の前の庭は室町時代の禅院式枯山水の様式で造られています。小松天皇の落胤であったので、宮内庁がこの墓所を管理しています。方丈仏間に安置されている木造一休和尚坐像や絹本著色一休和尚像は国の重要文化財に指定されています。
 一休禅師が亡くなった後、織田信長により寺領を没収され衰退しましたが、豊臣秀吉、徳川家康により安堵されました。加賀3代目藩主前田利常の寄進を受け復興しました。酬恩庵庭園は国の名勝に、本堂、方丈及び玄関、庫裏、東司、浴室、鐘楼は国の重要文化財に指定されています。


酬恩庵本堂(国重文)
 酬恩庵の本堂は、室町幕府6代将軍足利義教により永正3年(1506)に建てられました。本堂は仏殿ともいわれ内部には本尊釈迦如来坐像、文殊普賢菩薩像が安置されています。 京都、奈良の禅宗(唐様式)建築の中で最古に属する建物で、明治44年(1911)に国の重要文化財に指定されています。
酬恩庵本堂
 本堂は間口3間、奥行3間、単層、入母屋造り、檜皮(ひわだ)葺きです。正面中央は桟唐戸(さんからと)、左右に花頭窓(かとうまど)があり、軒は二重、垂木は扇のように放射状に並んでいます。円形の柱の両端には粽(ちまき)が付けられ、柱頂に台輪(だいわ)、柱下に礎盤(そばん)が付けられています。
酬恩庵本堂

酬恩庵唐門(国重文)
 酬恩庵の唐門は方丈へ通じる玄関になっています。酬恩庵方丈及び玄関として昭和46年(1971)に国の重要文化財に指定されています。慶安3年(1650)に加賀3代目藩主前田利常の寄進により、方丈が再建された時に一緒に新築された門です。欄間には獅子と鳳の彫刻が施されています。
酬恩庵唐門

酬恩庵方丈(国重文)
 酬恩庵の方丈は江戸初期の慶安3年(1650)に加賀3代目藩主前田利常の寄進により再建されました。方丈は住職の接客や仏事を行うところです。間口18m、奥行11.5m、単層、入母屋造り、檜皮(ひわだ)葺きで、背面に昭堂が付いています。
酬恩庵方丈
 方丈の仏間には国の重要文化財に指定されている木造一休和尚坐像が安置されています。一休の高弟墨済が一休禅師の頭髪と髭を植えて造ったものといわれています。方丈は酬恩庵方丈及び玄関として昭和46年(1971)に国の重要文化財に指定されています。
酬恩庵方丈

酬恩庵浴室(国重文)
 酬恩庵の浴室は慶安3年(1650)に加賀3代目藩主前田利常の寄進により、改築された建物です。間口5間、奥行3間、単層、切妻造り、妻入、本瓦葺きで、昭和46年(1971)に国の重要文化財に指定されています。サウナのような蒸風呂のようにして使用されたようです。
酬恩庵浴室

酬恩庵庫裏(国重文)
 酬恩庵の庫裏は間口16m、奥行16m、単層(一部2階)、切妻造り、妻入です。南面と北面に庇が付き、屋根はこけら葺き、西面にも庇が付き屋根はこけら葺き、桟瓦葺き、東面には渡廊下があり檜皮(ひわだ)葺きです。昭和46年(1971)に国の重要文化財に指定されています。
酬恩庵庫裏
 お寺の台所にあたる庫裏は慶安3年(1650)に加賀3代目藩主前田利常の寄進により、再建されたもので、 江戸初期の建築様式をそのまま残しています。庫裏の前には樹齢約400年という「しだれ松」が植えられています。
酬恩庵庫裏

酬恩庵東司(国重文)
 酬恩庵の東司(とおす)はトイレのことで、庫裏の手前にあります。間口2間、奥行2間、単層、切妻造り、桟瓦葺きの建物で、慶安3年(1650)に加賀3代目藩主前田利常の寄進により、再建されたものです。昭和46年(1971)に国の重要文化財に指定されています。
酬恩庵東司

酬恩庵鐘楼(国重文)
 酬恩庵の鐘楼は高台にあります。間口3間、奥行2間、入母屋造り、本瓦葺きで袴腰が付いています。鐘銘には元和9年(1623)に造られたと記されています。昭和46年(1971)に国の重要文化財に指定されています。
酬恩庵鐘楼

酬恩庵宗純王廟
 酬恩庵の宗純王廟は一休禅師の墓所です。廟の前の庭は室町時代の禅院式枯山水の様式で造られています。 禅師は文明13年(1481)に87歳で亡くなりましたが、生前中の文明7年(1475)にこの場所に寿塔を立てて慈楊塔と名付けていました。
酬恩庵宗純王廟
 一休禅師は後小松天皇の息子であるので、墓所は宮内庁が御陵墓として管理しています。門の扉には菊花の紋が施されていて、中に入ることはできません。菊のすかしぼりから、禅院式枯山水の庭園や廟をかいま見ることができます。
酬恩庵宗純王廟

酬恩庵虎丘庵
 虎丘庵は茶室造り、檜皮(ひわだ)葺き、2畳の水屋と、6畳、3畳の小部屋だけのとても簡素な建物です。京都の東山の麓に建てられていましたが、一休禅師が74歳の時、応仁の乱を避けるためここに移築したそうです。 扁額「虎丘」の字は禅師の手で書かれています。 京都府の有形文化財に指定されています。
酬恩庵虎丘庵

酬恩庵総門
 酬恩庵の総門は表門のことです。総門前には金春禅竹の屋敷があったそうです。金春禅竹は総門のまえで一休禅師を偲んで能を演じたそうです。「薪能金春の芝跡」という碑が建てられています。総門は京都府の有形文化財に指定されています。
酬恩庵総門

酬恩庵庭園(国名勝)
 酬恩庵の庭園は虎丘庭園と方丈庭園からなりたっています。虎丘庭園は禅院枯山水で、東部は七五三配石による特殊なもので 、茶道の祖といわれる村田珠光が作庭したといわれています。
酬恩庵庵庭園
 方丈庭園は、江戸初期の造庭で文人、松花堂昭乗、佐川田喜六、石川丈山の合作の作庭といわれています。南庭、北庭、東庭の三面からなり、江戸時代初期の代表的な庭として、昭和26年(1951)に国の名勝に指定されています。
酬恩庵庵庭園

酬恩庵宝物殿
 酬恩庵の宝物殿は貴重な寺宝などを火災などから守るために、平成元年(1989)に建てられました。本格的な土蔵建築で、酬恩庵で晩年を過ごした一休禅師の遺品や、天皇がお使いになっていた持ち物などを収蔵、展示しています。
酬恩庵宝物殿

酬恩庵開山堂
 酬恩庵の開山堂は大正時代に改築された新しい建物ですが、様式は昔の形式で建てられています。ここには妙勝寺を創建した大応国師(南浦紹明)の木像が安置されています。
酬恩庵開山堂

酬恩庵三本杉
 酬恩庵の三本杉は一休禅師、蓮如上人、蜷川新衛門の3人が1本ずつ植えたともいわれています。昭和36年(1961)の第2室戸台風で被害を受け、倒れてしまいました。今の杉は3本とも昭和40年(1965)に植え直したものです。
酬恩庵三本杉



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