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京都の旅と歴史
京都の旅    京都市東山

知恩院
ちおんいん
京都府京都市東山区林下町400
Tel 075-531-2111


 知恩院は華頂山(かちょうざん)の山裾に広がる浄土宗の総本山で、祇園の北側にあります。大晦日の除夜の鐘の放映でお馴染みのお寺で、地元では「ちおいんさん」と呼ばれています。正式には華頂山大谷寺知恩教院といいます。
 知恩院は法然が布教を始めたところです。法然は美作国(岡山県)の生まれで9才の時、父の漆間時国(うるまのときくに)が政敵に殺害され、引き取られた寺の勧めで比叡山へ入り、比叡山の中でも特に深山なる地の黒谷で厳しい修行と学問に励みました。
 法然房源空(げんくう)と称し「智恵第一の法然房」と讃えられました。唐時代の浄土宗の僧侶である善導(ぜんどう)が記した念仏の教え「観経疏」を読み、「専修念仏」の思想に開眼しました。念仏さえ唱えれば極楽に往生できると考え、浄土宗の開宗を決意して43才で下山します。
 東山の住房に身を置いて人々に教えを説きました。これが日本の浄土宗の始まりです。文治2年(1186)、天台僧顕真(けんしん)に大原に招かれそこで行った大原談義で一躍有名になりました。また、九条兼実(かねざね)の求めで「選択本願念仏集」を撰述しました。
 法然の教えで後鳥羽上皇の女官、松虫と鈴虫が出家したため上皇が怒り、法然は讃岐国(香川県)へ流されてしまいます。4年後の建暦元年(1211)に許されて京都に戻り、大谷の禅房、今の知恩院境内の勢至堂のあたりに居を構えましたが、翌年、法然は没しました。享年80歳でした。
 弟子たちはその東側に廟を造りましたが、嘉禄3年(1227)、延暦寺の衆徒によって破壊されてしまいました。文暦元年(1234)、法然の弟子の勢観房源智上人が伽藍を再興し、四条天皇から「華頂山知恩教院大谷寺」の寺号を下賜され、念仏の根本道場の基礎を築きました。
 その後、永享3年(1431)の火災や応仁の乱 (1467-77) などで焼失し、一時、近江の伊香立 (いかだち)に難を避け、乱のあとに再興しました。大永3年(1523)、百万遍知恩寺と本山争いが起こり、天正3年(1575)、正親町(おおぎまち)天皇の綸旨(りんじ)で知恩院が本山と決定しました。
 織田信長、豊臣秀吉の援助を受けて寺観が整えられました。浄土宗に帰依していた徳川家康は、慶長3年(1608)より知恩院の寺域を大幅に拡張し、伽藍の造営を行いました。慶長13年(1608)には寺領700石を寄進しています。
 慶長12年(1607)、家康は知恩院に宮門跡を置くことを奏請し、後陽成天皇の第8皇子直輔親王を選び、家康の猶子としました。そして、元和元年(1615)、浄土宗に35ヶ条の法度を下しました。これにより天台宗、真言宗の力のあった門跡の勢力を弱める狙いがあったようです。
 元和5年(1619)には、直輔親王は尊照を戒師として得度し、良純法親王となり、知恩院を門跡寺院とさせています。これ以後、代々の知恩院の門跡は天皇や親王の子がなり、将軍の猶子となり、親王宣下を受けるのが例となりました。
 2代将軍秀忠は堂宇の造営を引き継ぎ完成させました。しかし、寛永10年(1633)の火災で三門、経蔵、勢至堂以外の諸堂は焼失してしまいました。その後、3代将軍家光が再建を進め、寛永18年(1641)までに復興され、現在に至っています。
 知恩院の境内は極めて広大な範囲に及んでいます。法然上人の御廟が鎮座する上段、主要建造物の集まる中段、子院が建ち並ぶ下段の3つに分かれます。上段は法然の住房跡に建てられた勢至堂や御廟拝殿、法然上人御廟など徳川以前の境内だった所です。
 本堂(御影堂)、三門は国宝に指定され、勢至堂、大方丈、小方丈、集會堂、、大庫裏(雪香殿)、小庫裏、唐門、大鐘楼、経蔵などが国の重要文化財に指定されています。特に日本一の大きさを誇る大鐘楼では大晦日に荘厳な除夜の鐘を京の街に響かせています。
 他にも霊塔、宝仏殿、納骨堂、阿弥陀堂、黒門、四脚門、武家門、雪春殿、月光殿、崇泰院、濡髪大明神、寺務所などがある他、名水紫雲水と賀茂大明神が降臨したという影向石(ようごうせき)、五輪塔、六面石幢、千姫の墓、七百五十万霊塔などがあります。


知恩院三門(国宝)
 知恩院の三門は、南禅寺三門、東本願寺大師堂門とともに日本三大門の一つとされています。仏道修行の悟りを示す「空門」「無相門」「無作門」の3つの門を表して三門と呼ばれています。三門は境内の下段から中段に上る石段のたもとに堂々とそびえています。
知恩院三門
 三門は元和7年(1621)に徳川2代将軍秀忠によって建てられました。高さ24m、間口5間50m、入母屋造り、本瓦葺きの、5間3戸2階二重門で日本で最も大きい三門(山門)です。間口3間、奥行2間、単層、切妻造り、本瓦葺きの山廊を両側に付けています。
知恩院三門
 三門は禅宗様を基調とし、2階内部は極彩色を施し、釈迦如来像と十六羅漢像を安置しています。垂木(たるき)は下層が平行垂木ですが、上層は放射状に配された扇垂木になっています。組物(軒の出を支える構造材)は密に配された詰組(つめぐみ)、柱は上下を細くした粽柱(ちまきばしら)で、柱と礎石の間に礎盤を入れています。
知恩院三門

知恩院本堂(御影堂)(国宝)
 知恩院の本堂は宗祖法然の像を安置することから御影堂(みえいどう)ともいわれ、境内の中段に南面して建てられています。知恩院で最大の堂宇であることから、大殿(だいでん)とも呼ばれ、寛永16年(1639)徳川3代将軍家光によって再建された建物です。
知恩院本堂(御影堂)
 間口11間44.8m、奥行9間34.5m単層、入母屋造り、本瓦葺きの大きな建物です。正面には5間の向拝が付き、背面には3間の向拝があります。 手前3間分を畳敷きの外陣とし、その奥の正面5間、奥行5間を内陣としています。内陣の奥には四天柱(4本の柱)を立てて内々陣とし、宮殿(くうでん)形厨子を置き、宗祖法然の木像を安置しています。
知恩院本堂(御影堂)
 知恩院の本堂は外観は保守的な和様を基調としつつ、内部には禅宗様(唐様)の要素を取り入れています。近世の本格的かつ大規模な仏教建築の代表例であり、日本文化に多大な影響を与えてきた浄土宗の本山寺院の建築としての文化史的意義も高いことから、平成14年(2002)に三門とともに国宝に指定されています。
知恩院本堂(御影堂)

知恩院集會堂(国重文)
 知恩院の集會堂(しゅえどう)は、法要を営む際、僧侶が本堂に昇る前に集合するための建物です。内部は中央に仏間、東側に上段の間、その北側に小部屋を備え、他は約300畳敷きの大きな一室です。寛永12年(1635)に再建されたことが鬼瓦銘より判明しています。
知恩院集會堂
 集會堂は間口42.9m、奥行23.7m、単層、入母屋造、本瓦葺きの建物で、寛永12年(1635)に建てられています。平成9年(1997)に附指定の玄関とともに国の重要文化財に指定されています。
知恩院集會堂

知恩院阿弥陀堂
 知恩院の阿弥陀堂は明治時代に再建された建物で、御影堂の西側に建てられています。阿弥陀堂は知恩院第2世勢観房源智上人によって勢至堂の前に建立され、宝永7年(1710)に現在の場所に移築されました。荒廃が進んだため、1878年に取り壊され、明治43年(1910)に再建されました。
知恩院阿弥陀堂
 間口5間、奥行4間、単層、入母屋造り、本瓦葺きで、裳階を付けた仏堂です。本尊は阿弥陀如来座像で高さ2.7mもある大きなものです。堂正面には「大谷寺」という勅額が掲げられています。これは、後奈良天皇の宸筆であり、知恩院の寺号をあらわしています。
知恩院阿弥陀堂

知恩院宝佛殿
 知恩院の宝佛殿は本堂の南側に北面して建っています。平成4年(1992)に建てられた納骨場です。堂内には阿弥陀如来像・四天王が安置されており、地下に御遺骨が奉安されています。知恩院には池に架かる石橋を渡った先にある納骨堂もあります。
知恩院宝佛殿

知恩院経蔵(国重文)
 知恩院の経蔵は本堂の東にあり、元和7年(1621)に2代将軍徳川秀忠によって建てられています。間口3間、奥行3間の宝形造り、単層、本瓦葺きで裳階が付けられています。内部中央に廻転できる八角形の輪蔵があり一切経5600余巻が漆塗りの箱に納められています。輪蔵を一回転させれば、大蔵経を読誦するのと同じ功徳を積むことができるといわれています。
知恩院経蔵
 経蔵の建築様式は、唐様と和様を取り入れており、型にはまらない造形美を見せています。内部は、外側の静かなたたずまいとは対照的に鮮やかな色彩で彩られています。天井や柱、壁面は狩野派の絵画で埋め尽くされています。知恩院の経蔵は明治33年(1900)に国の重要文化財に指定されています。 
知恩院経蔵

知恩院大鐘楼(国重文)
 知恩院の大鐘楼は宝仏殿裏の石段を上ったところに建てられています。延宝6年(1678)の建立で、梵鐘は寛永13年(1636)の鋳造です。大鐘楼は間口3間、奥行3間、単層、入母屋造り、本瓦葺きの建物で、中央に大きな梵鐘を吊り下げています。知恩院第38世玄誉万無上人のときに造営されました。
知恩院大鐘楼
 高さ3.3m、直径2.8m、重さ約70トンの梵鐘は日本有数の大鐘で、京都方広寺、奈良東大寺と並ぶ大鐘として知られ、国の重要文化財に指定されています。この鐘楼で除夜の鐘を突く模様は年末のテレビ番組でよく見かけますが、この大鐘が鳴らされるのは法然上人の御忌大会(4月)と大晦日の除夜の鐘だけです。大鐘楼も平成9年(1997)に国の重要文化財に指定されています。 
知恩院大鐘楼

知恩院納骨堂
 知恩院の納骨堂は経蔵と宝佛殿の間にある小さな池に架かる石橋を渡り、階段を登った先にあります。昭和5年(1930)に建てられていて、堂内には阿弥陀三尊像、二十五菩薩が安置され、地下に御遺骨が奉安されています。平成4年(1992)には同じ納骨場として宝佛殿も建てられました。
知恩院納骨堂

知恩院勢至堂(国重文)
 知恩院の上段にある勢至堂は本地堂とも呼ばれ、境内で最も古い室町時代の享禄3年(1530)に建てられています。法然が念仏の教えを自ら広めた大谷の禅房の故地で、知恩院発祥の地です。勢至堂は徳川時代以前は本堂(御影堂)であった建物です。間口7間21m、奥行7間20m、単層、入母屋造り、本瓦葺きです。
知恩院勢至堂
 内陣厨子内に安置する本尊勢至菩薩坐像は鎌倉時代の作で、国の重要文化財に指定されています。勢至菩薩を本尊とする堂はほとんどなく、浄土宗では法然を勢至菩薩の生まれ変わりとしており(法然の幼名は「勢至丸」でした)、法然の本地仏として造立されたものと思われます。
知恩院勢至堂

知恩院法然上人御廟
 知恩院にある法然上人御廟は法然の遺骨を奉安する廟堂で、京都府の有形文化財に指定されています。法然上人の死後、門弟たちの手によって廟堂が建てられ、慶長18年(1613)、常陸国土浦藩主・松平伊豆守信一の寄進で改築されています。
知恩院御廟
 御廟は方三間の宝形造り、本瓦葺きで、周囲には唐門のある玉垣がめぐらされています。また参拝者のために、檜皮(ひわだ)葺きの拝殿が宝永7年(1710)に建てられています。この建物も京都府の有形文化財に指定されています。拝殿では、毎月、法然上人の命日である25日に別時念仏会が行われています。
知恩院御廟

しだれ桜「美幸」
 知恩院の境内の友禅苑にはしだれ桜の名木「美幸」があります。知恩院内で最も華やかな桜だといわれています。方丈庭園内の桜は少な目ですが、三門周辺や土塀付近に桜が植えられています。
しだれ桜「美幸」



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