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京都の旅と歴史
京都の旅    京都市東山区

清水寺
きよみずでら
京都府京都市東山区清水1−294
Tel 075-551-1234


 音羽山清水寺は南都6宗の1つ法相宗の中の北法相(きたほっそう)宗の総本山です。広隆寺、鞍馬寺とともに、平安京遷都以前からの歴史をもつ古刹です。また石山寺(滋賀県大津市)、長谷寺(奈良県桜井市)などと並び、日本でも有数の観音霊場で、西国33所観音霊場第16番札所でもあります。
 奈良時代の末、宝亀9年(778)大和の子島寺の延鎮上人が音羽の滝の行叡居士(ぎょうえいこじ)に逢い、霊木を授けられ観音像を彫造して、滝上の草庵に祀ったのが始まりといわれています。宝亀11年(780)、鹿を追って音羽山に入った坂上田村麻呂が、修行中の延鎮上人に出会いました。
 田村麻呂は妻の病気を治すため、薬になる鹿の生き血を求めたのですが、殺生の罪を説かれ、滝の清水と上人の観音信仰に導かれて自邸を本堂として寄進しました。後に征夷大将軍となり、東国の蝦夷平定をなし、延暦17年(798)、延鎮上人とともに本堂を建立、十一面千手観音を安置しました。
 延暦24年(805)には太政官符により田村麻呂は寺地を賜り、弘仁元年(810)には嵯峨天皇から「北観音寺」の寺号を賜り、国家鎮護の道場になっています。承和14年(847)には三重塔が建立されています。地震や火災で焼失しましたが、嘉保元年(1094)に復興し、一切経堂も建立されます。
 清水寺の伽藍は康平6年(1063)の火災以来、寛永6年(1629)の火災まで、記録に残るだけで9回の焼失再建を繰り返しています。現在の建物の多くは、寛永8年(1631)から寛永10年(1633)の間に、徳川家光の寄進によって再建されたものです。
 平安時代以来長らく興福寺の支配下にあったことから、興福寺と延暦寺の「南都北嶺」の争いに巻き込まれ、永万元年(1165)には延暦寺の僧兵の乱入によって堂宇が焼亡しました。文明元年(1469)には応仁の乱の兵火で焼失し、再建のために時宗僧の勧進聖・願阿弥が迎えられています。
 豊臣秀吉は清水寺に130石の寺領を安堵し、徳川幕府になってもこの寺領が継承されました。幕末には清水寺の住職で歌人の月照と弟信海が幕末勤王僧として活躍しました。月照は西郷隆盛とともに薩摩に逃れ、入水自殺したことは有名です。
 清水寺の本堂、清水寺境内地は国宝に指定され、仁王門、田村堂、馬駐、西門、三重塔、鐘楼、経堂、朝倉堂、鎮守堂(春日社)、本坊北総門、轟門、釈迦堂、阿弥陀堂、奥の院、子安塔が重要文化財に指定されています。また「古都京都の文化財」として世界遺産にも登録されています。


清水寺仁王門(国重文)
 清水寺の仁王門は境内入口に建つ朱塗りの門です。入母屋造り、檜皮葺きの、三間一戸の楼門で、室町時代後期(1467-1572)の建物です。正面左右には鎌倉時代末期の金剛力士(仁王)像を安置しています。馬駐、鐘楼とともに寛永6年(1629)の大火を免れています。昭和41年(1966)に国の重要文化財に指定されています。
清水寺仁王門

清水寺馬駐(国重文)
 清水寺馬駐(うまとどめ)は参詣者が馬をつないだ場所で、仁王門前の北側にあります。間口5間、奥行2間、単層、切妻造り、本瓦葺きの簡素な建物で、室町時代後期(1467-1572)に建てられています。仁王門、鐘楼とともに寛永6年(1629)の大火を免れています。昭和27年(1952)に国の重要文化財に指定されています。
清水寺馬駐

清水寺鐘楼(国重文)
 清水寺の鐘楼は間口1間、奥行2間、単層、切妻造り、本瓦葺きの建物で、慶長12(1607)に六本柱、四方転びの技法を用いて再建されています。仁王門、馬駐とともに寛永6年(1629)の大火を免れ、明治41年(1908)に国の重要文化財に指定されています。梵鐘も室町時代の文明10年(1478)に造られたもので国の重要文化財です。
清水寺鐘楼

清水寺随求堂
 清水寺の随求堂(ずいぐどう)は 仁王門の奥にあります。もとは塔頭・慈心院の本堂で、慈心院を中興した僧・盛松により、享保20年(1735)に建てられました。本尊の秘仏・大随求菩薩像は八臂の坐像で、享保18年(1733)に造られています。随求堂では地下の暗闇を歩く「胎内めぐり」が行われています。
清水寺随求堂

清水寺三重塔(国重文)
 清水寺の三重塔は西門の先にあります。高さ30.1m、本瓦葺きの三間三重塔婆で、寛永9年(1632)に再建された塔です。内部は曼荼羅の密教世界があり、中央には大日如来が安置されています。昭和41年(1966)に国の重要文化財に指定されています。昭和62年(1987)に解体修理され、総丹塗りと共に桃山様式を示す各重横木の極彩色文様を復元しています。
清水寺三重塔

清水寺西門(国重文)
 清水寺の西門(さいもん)は 仁王門の奥の右側の小高い所にあります。寛永8年(1631)の建立で、切妻造り、檜皮葺きの三間一戸の八脚門です。正面には1間の向拝があり、背面には軒唐破風(のきからはふ)を付けています。門というより拝殿のような建物です。明治41年(1908)に国の重要文化財に指定されています。
清水寺西門

清水寺経堂(国重文)
 清水寺の経堂は三重塔の隣にあります。間口5間、奥行4間、単層、入母屋造り、本瓦葺きで背面には庇が付けられています。寛永再興時(1624-1643)に再建された建物で、内部には釈迦三尊像を安置し、一切経を納めています。昭和41年(1966)に国の重要文化財に指定されています。平成12年(2000)に解体修理が完成し、鮮やかな朱塗りの堂宇になっています。
清水寺経堂

清水寺田村堂(開山堂)(国重文)
 清水寺の田村堂は開山堂とも呼ばれます。寛永再興時(1624-1643)に再建された建物で、経堂の隣に建てられています。間口3間、奥行3間、単層、入母屋造り、本瓦葺きで、内部には坂上田村麻呂夫妻像、行叡居士と延鎮上人の像を祀っています。昭和41年(1966)に国の重要文化財に指定されています。
清水寺田村堂

清水寺本坊北総門(国重文)
 清水寺の本坊北総門は切妻造り、本瓦葺きの一間潜付の薬医門です。もとは塔頭の成就院の正門だった建物です。寛永再興時(1624-1643)に再建された建物で、田村堂の北にあります。昭和41年(1966)に国の重要文化財に指定されています。
清水寺本坊北総門

清水寺轟門(中門)(国重文)
 清水寺の轟門(とどろきもん)は中門とも呼ばれます。切妻造り、本瓦葺きの、三間一戸の八脚門です。正面軒下中央に月舟禅師(1618-1696)の名筆「普門閣」の扁額を掲げています。寛永再興時(1624-1643)に再建された建物で、朝倉堂の横にあります。昭和41年(1966)に国の重要文化財に指定されています。
清水寺轟門(中門)

清水寺朝倉堂(国重文)
 昭和41年(1966)に国の重要文化財に指定された清水寺の朝倉堂は間口5間、奥行3間、単層、入母屋造り、本瓦葺きの建物です。清水観音に帰依した越前守護・朝倉貞景が寄進したことから朝倉堂と呼ばれますが、現在の建物は寛永再興時(1624-1643)に再建されたものです。秘仏の千手観音、毘沙門天、地蔵菩薩の三尊のほか、西国33所の観音像を安置しています。
清水寺朝倉堂


清水寺本堂(国宝)
 国宝に指定されている清水寺の本堂は寛永10年(1633)に三代将軍徳川家光によって再建された建物です。間口9間(約36m)、奥行7間(約30m)高さ18mの堂々たる檜皮葺きの仏殿で、優美な起り反り曲線を見せる寄棟造りで、正面(南面)左右に入母屋造りの翼廊が突き出しています。
清水寺本堂
 建物の前半部分は懸造り(かけづくり)で、山の斜面にせり出すようにして建てられています。大きな139本のケヤキの柱が「舞台」と呼ばれるせり出し部分を支えています。堂内は巨大な丸柱の列によって外陣(礼堂)と内陣と内々陣に分けられています。外陣内奥の正面欄間に本尊と両脇侍の懸仏(御正体)を掲げ、最奥の内々陣に本尊を祀っています。 
清水寺本堂
 本尊は十一面千手観音で33年に1度、開帳されます。本尊の厨子前には、お前立ちが安置され、左右の厨子には将軍地蔵、勝敵毘沙門天、厨子の両側には二十八部衆と風神・雷神が祀られています。清水寺の本堂は明治30年(1897)に国の重要文化財に指定され、昭和27年(1952)に国宝に指定されています。
清水寺本堂

清水寺奥の院(国重文)
 清水寺の奥の院は「奥の千手堂」とも呼ばれます。間口5間、奥行5間、単層、寄棟造り、檜皮葺きで、寛永10年(1633)に再建された建物です。本堂より小規模ながら、崖にせり出した懸造りの建物です。本堂と同様に千手観音、毘沙門天、地蔵菩薩、二十八部衆、風神・雷神の諸仏を安置しています。昭和41年(1966)に奥院として国の重要文化財に指定されています。
清水寺奥の院

清水寺釈迦堂(国重文)
 清水寺の釈迦堂は寛永8年(1631)に再建された建物で、本堂の先の山腹にあります。間口3間、奥行3間、単層、寄棟造り、檜皮葺きで、背面に1間通り庇が付けられています。昭和41年(1966)に国の重要文化財に指定されました。昭和47年(1972)の集中豪雨で土砂が崩れて倒壊し、3年後に旧材で復元されています。
清水寺釈迦堂

清水寺百体地蔵堂
 清水寺の百体地蔵堂(ひゃくたいじぞうどう)は、釈迦堂と阿弥陀堂との間の奥に建てられています。子どもを亡くした親たちが、子どもそっくりの地蔵を探し求めて、信仰を厚くしています。
清水寺百体地蔵堂

清水寺阿弥陀堂(国重文)
 昭和41年(1966)に国の重要文化財に指定された清水寺の阿弥陀堂は釈迦堂の右隣りにあります。間口3間、奥行3間、入母屋造り、桟瓦葺きで、背面に1間通り庇が付けられています。寛永再興時(1624-1643)に再建された建物です。内陣正面には後柏原天皇筆の「日本最初常行念仏道場」の額が架けられています。文治4年(1188)、法然上人がここで念仏修行したそうです。
清水寺阿弥陀堂

清水寺音羽の滝
 清水寺の音羽の滝は奥の院の建つ崖の下にあります。清水寺の寺号の由来である霊水で、3本の筧(かけい)から水が流れ落ちています。こんこんと流れる出る清水は古来「黄金水」「延命水」とよばれ、「清め」の水として尊ばれました。行叡居士・延鎮上人の滝行を伝統して水垢離(みずごり)の行場となっていました。
清水寺音羽の滝

清水寺子安塔(国重文)
 清水寺の子安塔(こやすとう)は高さ15m、檜皮葺きの三間三重塔婆です。高野山の木食応其が建立し、寛永再興時(1624-1643)に再建された建物です。子安観音を祀り、安産の信仰を集めてきました。産寧坂はこの子安の塔から名付けられています。仁王門の左手前に建てられていた塔頭・泰産寺の三重塔でしたが、明治44年(1911)に現在地に移築されています。昭和41年(1966)に国の重要文化財に指定されています。
清水寺子安塔

アテルイとモレの慰霊碑
 音羽の滝を下った所に「アテルイとモレの慰霊碑」があります。碑面には「北天の雄 阿弖流爲 母禮之碑」と刻まれています。蝦夷(えみし)の首長と副将で、最後は坂上田村麻呂の軍に帰順しましたが、助命嘆願が許されず処刑されました。平安建都1200年を期して平成6年(1994)に建立されたものです。
アテルイとモレの慰霊碑

清水寺中興堂
 清水寺の中興堂は馬駐を東に上った所にあります。清水寺を中興した大西良慶和上の霊屋です。良慶和上は大正3年(1914)に奈良・興福寺住職と兼職で清水寺に住持、約70年にわたって清水寺住職を勤めました。明治の上地令や廃仏毀釈によって衰退した清水寺を復興しました。中興堂は平成9年(1997)に完成しました。
清水寺中興堂

清水寺鎮守堂春日社(国重文)
 清水寺鎮守堂の春日社は中興堂の近くにあります。奈良の春日大明神を勧請して祀った鎮守堂です。檜皮葺きの一間社春日造りの小さな社殿で、寛永再興時(1624-1643)に再建された建物です。典型的な春日造りの神社建築で、細かな彫刻が桃山時代の様式美を表しています。昭和41年(1966)に国の重要文化財に指定されています。
清水寺鎮守堂春日社


地主神社
 地主神社は清水寺本堂の北の一段高い所にあります。江戸時代までは清水寺の鎮守社で、古くは地主権現と称しました。平安時代には嵯峨天皇、円融天皇、白河天皇が行幸しました。天正9年(1581)豊臣秀吉が花見の宴を開催し、寛永10年(1633)徳川家光が現在の社殿を再建しています。明治に入り神仏分離令により清水寺から独立し、近代社格制度のもとで郷社になっています。
地主神社

地主神社総門(国重文)
 地主神社の総門は桟瓦葺きの、棟門です。門の向こう側は清水寺の本堂の裏とつながる階段があります。寛永8年(1631)に三代将軍徳川家光によって再建された建物です。昭和41年(1966)に国の重要文化財に指定されています。
地主神社総門

地主神社拝殿(国重文)
 地主神社の拝殿は間口3間、奥行3間、単層、入母屋造り、妻入、檜皮葺きの建物で、背面には軒唐破風が付けられています。天井には見事な八方睨みの龍が描かれていますが売店も兼ねているので厳粛感はありません。寛永8年(1631)に徳川家光によって再建された建物で、昭和41年(1966)に国の重要文化財に指定されています。
地主神社拝殿

地主神社本殿(国重文)
 地主神社の本殿は間口5間、奥行3間、単層、入母屋造り、檜皮葺きで、正面に1間の向拝を付けています。大国主命を主祭神として、父母神の素戔嗚命・奇稲田姫命、奇稲田姫命の父母神の足摩乳命・手摩乳命を正殿に祀っています。
地主神社本殿
 また相殿にほ、大田大神(芸能と長寿の神)、乙羽竜神(旅行・交通安全の神)、思兼大神(知恵と才能の神)を祀っています。本殿は拝殿、総門と同じく、寛永8年(1631)に三代将軍徳川家光によって再建された建物です。昭和41年(1966)に国の重要文化財に指定されています。
地主神社本殿



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