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京都の旅と歴史
京都の旅    京都市東山区

妙法院
みょうほういん
京都府京都市東山区妙法院前側町447
Tel 075-561-0467


 妙法院は天台宗に属する寺院で、天台三門跡(三千院の梶井門跡、青連院門跡)のひとつに数えあげられている名刹です。近世には方広寺(大仏)や新日吉社、蓮華王院(三十三間堂)を管理下に置き、蓮華王院は現在も妙法院所管の仏堂となっています。
 妙法院という名称は、平安後期、比叡山西塔本覚院の快修がこの別号で呼称されたことに始まります。後白河上皇の護持僧昌雲(しょううん)が祈祷の験により、新日吉(いまひえ)御所の地を与えられ創建したという説と、最澄が創建したという説とがあります。
 暦応3年(1340)佐々木道誉によって攻撃され灰燼に帰しました。道誉の嫡男秀綱が妙法院のモミジを折ったことから僧侶と争いになり、道誉・秀綱親子が300騎を率いてことごとく焼き払ったそうです。その後、復興した後に応仁の乱に巻き込まれ荒廃しました。豊臣秀吉が方広寺の大仏殿を建立したとき大仏の経堂として再興しました。
 秀吉は亡父母や先祖の菩提を弔うため、当時の日本仏教の八宗(天台、真言、律、禅、浄土、日蓮、時、一向)の僧を集めた千僧供養を大仏経堂で行いました。この経堂は妙法院に所属し、千僧供養に出仕する千人もの僧の食事を準備した台所が、現在の妙法院庫裏だといわれています。
 寺領も1600石となり江戸時代には新日吉神社、蓮華王院、方広寺なども管理し繁栄しました。天明の大火の際には光格天皇の皇后がここに避難したそうです。明治に入り、神仏分離令が出され、寺地は20分の1まで削られてしまったそうです。
 庫裏は桃山期の豪快な建築で国宝に指定されています。大書院は東福門院の旧殿を移築したものといわれ、玄関とともに国の重要文化財に指定されています。幕末に七卿落ちが行われた宸殿、小堀遠州が作庭したといわれる庭園もあります。所蔵するポルトガル国印度副王信書は国宝に指定されています。


妙法院庫裏(国宝)
 妙法院の庫裏は豊臣秀吉が亡父母や先祖の菩提を弔うため千僧供養を行った際の台所として建てられたと伝えられています。内部は土間、板間、座敷の3つの部分に分かれ、土間・板間部分は天井板を張らず、貫・梁などの構造材をそのまま見せた豪快な造りとなっています。
妙法院庫裏
 間口21.8m、奥行23.7m、単層、本瓦葺きで、庫裏にはめずらしく入母屋造りの、妻入です。高さは60尺といわれ大きな建物です。慶長年間(1573-1614)の間に建てられたと考えられています。桃山時代建築の庫裏は昭和32年(1957)に国宝に指定されました。
妙法院庫裏

妙法院玄関(国重文)
 妙法院の玄関は、大書院とともに元和5年(1619)、2代将軍徳川秀忠の娘である中宮東福門院和子(後水尾天皇中宮)が、入内の際に建築された女御御所の建物を移築したものと伝えられています。
妙法院玄関
 玄関は間口7間、奥行4間、単層、入母屋造り、こけら葺きで、大正3年(1914)に国の重要文化財に指定されています。3室20面の襖絵は狩野派による「松之図」で飾られ、これも国の重要文化財に指定されています。
妙法院玄関

妙法院宸殿
 妙法院の伽藍の中心を担うのは、境内中央に建つ宸殿です。宸殿とは門跡寺院特有の建物で、法要などに使われます。殿内仏間には、中世よりの天皇・皇后の位牌が安置されています。宸殿はまた幕末に三条実美ら7卿が長州藩士と西下し長州に逃れる「8・18の政変(七卿の都落ち)」の舞台となりました。
妙法院宸殿

妙法院唐門
 妙法院の唐門は境内の南西隅、東大路に面して建てられています。江戸時代中期のもので、桜町天皇から下賜されたといわれる勅使門です。切妻造り、桧皮葺き、平入りの四脚門です。
妙法院唐門

妙法院普賢堂
 妙法院の普賢堂は寛政期(1790頃)の建立と考えられています。堂の中央には国の重要文化財に指定されている本尊普賢菩薩像が安置され、後壇には元三大師、五大明王像が祀られています。
妙法院普賢堂

七卿碑
 妙法院は、幕末には、三条実美ら尊皇攘夷派の公卿7人が京都から追放された「七卿落ち」の舞台となったことから七卿碑(しちきょうひ)が建てられています。文久3年(1863)公武合体派と対立する勤王急進派の三条実美卿一行が妙法院に集結、合議の末、市内戦を回避し、西国に向け出京した記念碑です。
七卿碑



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