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京都の旅と歴史
京都の旅    京都市上京区

北野天満宮
きたのてんまんぐう
京都市上京区御前通今出川上ル馬喰町
Tel 075-461-0005


 北野天満宮は京都御所の四方の鬼門である北西にあります。学問の神様で知られる菅原道真を祀った神社で、全国の天神様、天満宮の総本社です。北野の天神さんとして知られ、福岡の太宰府天満宮とともに天神信仰の中心です。
 平安時代、中流貴族の出身であった菅原道真は、宇多天皇に重用され右大臣にまで上り詰めました。中央集権的な道真の政治方針に藤原氏などが反発し、左大臣・藤原時平の讒言により大宰府に左遷されてしまいました。道真は失意のまま2年後の延喜3年(903)にこの世を去りました。
 その後、都に異変が起きました。藤原時平が39歳という若さで病死、醍醐天皇の皇子である保明親王、その息子である慶頼王も病死しました。さらに平安京内裏の清涼殿に雷が落ち、数多くの公卿や官人が死傷しました。
 道真の祟りだとする噂が広まり、御霊信仰と結びついて恐れられました。そこで、没後20年目に朝廷は道真の左遷を撤回して官位を復し、正二位を贈ることにしました。神託で道真を祀る祠を建てていた多治比文子らが、託宣により現在地の北野の地に分霊する事になりました。
 天暦元年(947)に社殿の造営がなされ、その後、藤原師輔が屋敷の建物を寄贈し、壮大な社殿に作り直されました。永延元年(987)、一条天皇の令により初めて勅祭が執り行われ「北野天満宮天神」の神号を得たのでした。
  正暦4年(993)には正一位・右大臣・太政大臣が追贈され、二十二社の一社に名を連ねました。寛弘元年(1004)に一條天皇の行幸を受け、代々皇室の崇敬を受けるようになります。天正15年(1587)、境内において豊臣秀吉による北野大茶湯が開かれました。
 社殿は昔から、朝廷、将軍家によって造営修繕がなされました。国宝の指定を受けている拝殿・本殿・石の間・楽の間は慶長12年(1607)、豊臣秀頼が造営したもので、この時作られた中門、東門も国指定重要文化財です。数多くの宝物のうち北野天神縁起絵巻承久本も国宝になっています。
 江戸時代には天神様として親しまれ、寺子屋の精神的中心として菅原道真の分霊が祀られました。以来学問の神様としての信仰は現在に至るまで受け継がれています。現在は特に学業成就や武芸上達に御利益があるといわれ、命日の2月25日には縁日として露天が出て賑わいます。

北野天満宮楼門
 北野天満宮の楼門は境内の南の入口、三の鳥居の北側に堂々と建っています。両側には貴族の護衛に従事した官人の随神(ずいしん)の像が置かれています。(左大臣と右大臣という説もあります)
 毎年6月25日に楼門には直径5mの巨大な茅の輪が置かれ、くぐる人は無病息災が約束されるそうです。
北野天満宮楼門
 楼門の正面には菅原道真を褒め称える言葉「文道大祖 風月本主」(ぶんどうのたいそ ふうげつのほんしゅ)と書かれた大きな額が掲げられています。平安時代中期の学者・大江匡衡が菅原道真に捧げた願文で、道真を褒め称える言葉です。大正時代に日本画家・富田渓仙など39人の有志が奉納した額だそうです。
北野天満宮楼門

北野天満宮絵馬所
 北野天満宮の絵馬所は京都にある絵馬堂の中で最も古いものといわれ、京都市の有形文化財に指定されています。元禄13年(1700)に大規模な修復がなされた建物で、算額などの絵馬が多数奉納されています。貞享3年(1686)に今西小右衛門重之、飯田武助正成が奉納した算額と、明治12年(1878)に新名重内など11名が奉納した算額は国の重要文化財に指定されています。
北野天満宮絵馬所

北野天満宮末社・白太夫社
 北野天満宮の末社である白太夫社(しらだゆうしゃ)が絵馬所から中門の間の右側にあります。渡会春彦(わたらいはるひこ)を祀る社で、子授け・安産の神といわれます。渡会春彦は菅原道真の守役であったと伝えられる人で、若年期から白髪であったために白太夫の名がつけられたそうです。
末社・白太夫社

北野天満宮末社・火之御子社
 北野天満宮の末社である火之御子社(ひのみこしゃ)は白太夫社の北隣りにあります。火雷神(からいしん・ほのいかずちのかみ)を祭神とする火之御子社は天満宮創建以前の古社です。延喜4年に「雷公を北野に祀る」と記され、雷除け、五穀豊穣に霊験があるそうです。大晦日に古式にのっとって鑽火を作り、新年を迎える火之御子社鑽火祭が行われます。
末社・火之御子社

北野天満宮末社・福部社
 北野天満宮の末社である福部社(ふくべしゃ)は白太夫社の相向き合いに鎮座しています。 祭神の十川能福(そがわのうふく)は、菅原道真に仕えた舎人(とねり)で、名前から開運、招福の神として崇敬されるようになったそうです。毎年節分に茂山千五郎社中により追儺狂言「福の神」が奉納されます。十川能福が主人公だそうです。
末社・福部社

北野天満宮末社・老松社
 北野天満宮にある末社の老松(おいまつ)社は火之御子社の相向き合いにあります。植林・林業の神とされる島田忠臣(しまだただおき)を祀っています。忠臣は菅原道真が配流先の大宰府で自らの無実を天拝山に登って神に訴えた時に供をした人で、彼が松の種を蒔いたら多数の松が一夜にしてこの地に生じたという伝説を残しています。
末社・老松社

北野天満宮中門(三光門)(国重文)
 北野天満宮の中央部入口に中門があります。彫刻の中に日月星があることから三光門と呼ばれています。北野天満宮の七不思議の中に星欠けの三光門というものがあり、実際には星の彫刻はありません。これは平安京造営当初の大内裏が千本丸太町にあり、旧大極殿が天満宮の南方位に位置し、帝が北野天満宮を遥拝する時、この三光門の真上に北極星が瞬いていたので星は刻まれていないのだそうです。
北野天満宮中門
 中門は本殿などの社殿と同じく、慶長12年(1607)に豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行として造営したものです。入母屋造り、檜皮(ひわだ)葺きで、前後に千鳥破風、軒唐破風が付けられた四脚門です。「天満宮」と掲げられた額は、後西天皇が書いたもので、鮮やかな彩色と、見事な彫刻が数多く施されています。明治31年(1898)に国の重要文化財に指定され、左右の袖塀も附指定されています。
北野天満宮中門

渡邊綱の燈籠
 渡邊綱(わたなべのつな)の燈籠が中門を入ってすぐ右にあります。渡邊綱は平安時代中期の武将・源頼光の四天王の一人です。一条戻り橋で美女から恐ろしい鬼になった怪物を北野天満宮近くで討ち、天満宮の神恩に感謝し、この石燈籠を寄進したというものです。
渡邊綱の燈籠

北野天満宮廻廊(国重文)
 北野天満宮の廻廊が中門から左右にあります。右側が東廻廊、左側が西廻廊で慶長12年(1607)に豊臣秀頼により建てられています。間口折曲り延長16間、奥行1間、単層、切妻造り、檜皮(ひわだ)葺きで、潜門があります。それぞれ明治31年(1898)に国の重要文化財に指定されています。
北野天満宮廻廊

北野天満宮拝殿(国宝)
 北野天満宮の拝殿は中門を入った正面に南面して建つ社殿で、菅原道真を主祭神として祀り、相殿には中将殿と吉祥女を祀っています。拝殿は間口7間、奥行3間、単層、入母屋造り、檜皮(ひわだ)葺きです。正面に千鳥破風があり、7間の向拝には軒唐破風が付いています。また拝殿の東西には楽の間が付けられています。
北野天満宮拝殿
 本殿とは軒の低い石の間で結ばれ、1棟の建物として昭和34年(1959)に国宝に指定されています。屋根の構造が複雑なことから八棟(はちむね)造りといわれます。豊臣秀吉の豊国廟を建築する際、この建築様式が採用され、その後、久能山東照宮、日光東照宮などで継承され、家康の神名である東照大権現から、権現造りと呼ばれるようになりました。
北野天満宮拝殿

北野天満宮石の間(国宝)
 北野天満宮の石の間は拝殿と本殿の間にあり、間口3間、奥行1間、単層、両下造り、檜皮(ひわだ)葺きです。本殿、石の間、拝殿及び楽の間の1棟の建物として昭和34年(1959)に国宝に指定されています。
北野天満宮石の間

北野天満宮本殿(国宝)
 北野天満宮の本殿は石の間を挟んで拝殿と連なる一連の建物で、ほかの社殿と同じく、慶長12年(1607)に豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行として造営したものです。この社殿造営は、父秀吉の遺志であったと伝えられています。総面積が500坪もある壮大な社殿で、昔は神社祭祀が庭で行われてきましたが、殿内で祭典をすることができるようになりました。
北野天満宮本殿
 間口5間、奥行4間、単層、入母屋造り、、檜皮(ひわだ)葺きで、右側面に3間の庇が付けられています。八棟造りで、最古の権現造りでもあります。本殿、石の間、拝殿及び楽の間として昭和34年(1959)に国宝に指定されています。本殿の祭神は菅原道真で、絢爛豪華な桃山文化を今に伝えています。
北野天満宮本殿

北野天満宮楽の間(国宝)
 北野天満宮の楽の間は拝殿の東西に付けられています。双方とも間口正面2間、背面3間、奥行2間、単層、檜皮(ひわだ)葺きで、入母屋造りで片側が拝殿につながっています。本殿、石の間、拝殿及び楽の間として昭和34年(1959)に国宝に指定されています。
北野天満宮楽の間

北野天満宮後門(国重文)
 北野天満宮の後門はほかの社殿と同じく、慶長12年(1607)に豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行として造営したものです。檜皮(ひわだ)葺きで、一間一戸の平唐門です。明治31年(1898)に国の重要文化財に指定されています。後門は明治維新までは、仏舎利が祀られていたことから、舎利門とも呼ばれていたそうです。
北野天満宮後門

北野天満宮透塀(国重文)
 北野天満宮の透塀(とおしへい)もほかの社殿と同じく、慶長12年(1607)に豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行として造営したものです。左側の透塀は折曲り延長14間、檜皮(ひわだ)葺きで、潜門があり、右側の透塀は折曲り延長16間、檜皮葺きです。各柱間と同じ間隔で提灯を下げ本殿を囲んでいます。明治31年(1898)に国の重要文化財に指定されています。
北野天満宮透塀

御后三柱
 北野天満宮の本殿の背面に御后三柱(おんこうのみはしら)という御神座があります。菅原道真の祖先神である天穂日命、道真の祖父である清公卿、道真の父である菅原是善卿の3柱を祀っています。
御后三柱

北野天満宮東門(国重文)
 北野天満宮の東門は本殿の東にある門で、慶長12年(1607)に豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行として建てたものです。切妻造り、銅板葺きの四脚門で、明治37年(1904)に国の重要文化財に指定されています。
北野天満宮東門

北野天満宮北門
 北野天満宮の北門は切妻造りの四脚門で、境内の北に建てられています。左に梅、右に松の提灯が掲げられています。梅と松は菅原道真を慕って太宰府に向けて空を飛んだそうです。また北門の前には西陣名技碑が建てられています。西陣織の技術の改良に貢献した伊達弥助を顕彰しています。
北野天満宮北門

北野天満宮末社・文子天満宮
 北野天満宮の末社である文子(あやこ)天満宮は北門近くにあります。巫女であった多治比(たじひ)文子に、菅公の託宣があり、とりあえず自宅に菅公の御霊を祀りました。これが北野天満宮の始まりです。現在の北野天満宮の地に立派な社殿ができたあとも文子の自宅にあった神殿は文子天満宮として讃えられてきましたが、明治6年(1873)ここに遷座されました。
末社・文子天満宮

北野天満宮摂社・地主神社
 北野天満宮の摂社である地主神社は文子天満宮の近くにあります。豊臣秀頼によって慶長12年(1607)に建てられた社殿で、由緒・規模とも天満宮第一の摂社です。天満宮創建以前よりこの地にあり、日本のすべての神々である天神地祇(てんしんちぎ)などを祀っています。楼門の正面に位置しているのも格の高さの表れです。招福・請願成就・交通安全に効能があるそうです。
摂社・地主神社

北野天満宮末社・老松社
 北野天満宮の末社である老松社(おいまつしゃ)は地主神社の隣に鎮座しています。植林・林業の神とされる島田忠臣(しまだただおき)を祀っています。忠臣は菅原道真が配流先の大宰府で自らの無実を天拝山に登って神に訴えた時、供をした人で彼が松の種を蒔いたら多数の松が一夜にしてこの地に生じたという伝説を残しています。
末社・老松社

十二社
 十二社は地主神社、老松社の隣に並んで鎮座しています。寛算(かんざん)社、大門(だいもん)社、橘逸勢(たちばなのはやなり)社、藤太夫(とうだゆう)社、文太夫(ぶんたゆう)社、淳仁(じゅんにん)天皇社、太宰少貳(だざいのしょうに)社、老松社、白太夫(しらだゆう)社、櫻葉(さくらば)社、吉備大臣(きびのおおかみ)社、崇道(すどう)天皇社などがあります。
十二社

八社
 八社は十二社の近くにあります。十川能福(そごうのうふく)を祀る福部(ふくべ)社、瓊瓊杵命(ににぎのみこと)と天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祀る高千穂社、菅公の息女を祀る安麻(あま)神社、菅公の眷属(けんぞく)神を祀る御霊(みたま)社、日本武尊を祀る早取(はやとり)社、小槻宿祢今雄を祀る今雄(いまお)社、高神(たかおかみのかみ)を祀る貴布禰(きぶね)社、火産神などを祀る荒神(こうじん)社などです。
八社

北野天満宮末社・一之保神社・奇御魂神社
 北野天満宮の末社である一之保(いちのほ)神社と奇御魂(くしみたま)神社が同じ社殿で鎮座しています。一之保神社では菅原大神 (すがわらのおおかみ)つまり菅原道真を祀っています。道真の手作りの木像を大宰府から持ち帰り、西の京北町に建てた小祠に納め、安楽寺天満宮と称していたのを、明治になってここに遷座したものです。
一之保・奇御魂神社
 奇御魂神社は道真の奇御魂(くしみたま)を祭神にしています。奇御魂とはさまざまな不思議や奇跡をよびおこす特別な力を持った神霊のことです。菅公が唐衣をまとい手に一輪の花を持たれている姿を「渡唐(宋)天神」いい、この肖像の前で法楽連歌を行ったので、文芸・歌道上達の神といわれています。
一之保・奇御魂神社

野見宿祢神社・豊国神社・一夜松社
 北野天満宮の末社である野見宿祢(のみのすくね)神社と、豊国神社、一夜松(いちやまつ)社が同じ社殿に鎮座しています。野見宿祢神社は野見宿祢命が祭神で武芸・スポーツの上達の神徳があります。豊国神社は豊臣秀吉を祀り、開運・立身出世の神とされます。一夜松社の祭神は一夜千松の霊延命長寿の神ということです。
野見宿祢・豊国・一夜松社

北野天満宮末社・稲荷神社
 北野天満宮の末社である稲荷神社は倉稲魂神 (うかのみたまのかみ)・猿田彦命(さるたひこのみこと)・大宮女命(おおみやめのみこと)を祀っています。祭神は稲生りの神といわれ、五穀(米・麦・粟・豆・稗)豊穣をつかさどり、商売繁盛の守護神として神徳があるそうです。昔この付近で大火があった時、この神社の手前で火の手が止まったことから「火除け稲荷」ともいわれます。
末社・稲荷神社

北野天満宮末社・猿田彦社
 北野天満宮の末社である猿田彦社は猿田彦神(さるたひこのかみ)を祀っています。 猿田彦神は日本の国をよく治めるようにという天照大神の命令を受けた瓊瓊杵命が、高天原より地上に降りた時、先頭に立って道案内をした神です。2mをこえる巨体と長い鼻を持ち「天狗さま」として親しまれ、交通安全の神として崇められています。
末社・猿田彦社

北野東向観音寺
 北野東向観音寺は正式には朝日山観音寺といい、真言宗泉涌寺派の準別格本山です。かっては北野天満宮の神宮寺でした。平安時代の初めに創建された古刹で、北野天満宮より古い歴史をもっています。本堂は礼堂と造合でつながれた複合形式の建物です。17世紀前期に本堂が建てられ、元禄7年(1694)に礼堂と造合が本堂正面に総築されています。平成13年(2001)に京都市の有形文化財に指定されています。
北野東向観音寺

土蜘蛛灯篭
 北野東向観音寺には土蜘蛛(つちぐも)灯篭があります。この蜘蛛灯籠は源頼光を悩ませた土蜘蛛が棲んでいたといわれる七本松通一条にありました。ある人が貰いうけ庭に飾っていたところ家運が傾むき「土蜘蛛の祟り」といわれたので、この観音寺に奉納したそうです。
土蜘蛛灯篭



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