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京都の旅と歴史
京都の旅    京都市上京区

仙洞御所・大宮御所
せんとうごしょ・おおみやごしょ
京都府京都市上京区京都御苑内
Tel 075-211-1215(京都御苑)


 京都御苑内には京都御所の南東に仙洞御所があります。仙洞御所は、退位した天皇(上皇・法皇)のお住まいのことをいいます。後水尾上皇のために寛永7年(1630)に完成されたもので、正式には桜町殿といわれました。
 それと同時に後水尾上皇の皇后(2代将軍徳川秀忠の娘・和子)である東福門院の女院(にょいん)御所も建てられました。これが大宮御所です。現在の大宮御所は慶応3年(1867)、英照皇太后(えいしょうこうたいごう・孝明天皇皇后)のために女院御所の跡に建てられた建物です。
 英照皇太后が東京に移られた後は、御常御殿(おつねごてん)のみを残して整理され、それが現在に伝えられています。仙洞御所と大宮御所は1つの築地の中にあり、、建物は大宮御所の御常御殿を除けばほとんどなく、仙洞御所は茶室はありますが、広大な日本庭園となっていることです。
 後水尾天皇が在任中、紫衣事件(しえじけん)が起こりました。慶長18年(1613)、幕府は「勅許紫衣竝に山城大徳寺妙心寺等諸寺入院の法度」を出し、その2年後には禁中並公家諸法度を定めて、朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じました。
 しかし後水尾天皇は従来の慣例通り、僧侶に紫衣着用の勅許を与えました。幕府は、寛永4年(1627)、事前に勅許の相談がなかったことを法度違反とみなし、多くの勅許状の無効を宣言し、法度違反の紫衣を取り上げるよう命じました。
 大徳寺住職の沢庵宗彭や、妙心寺の東源慧等ら大寺の高僧は、朝廷に同調し、幕府に抗弁書を提出し、反抗した高僧を流罪に処しました。元は朝廷の官職のひとつに過ぎなかった征夷大将軍とその幕府が、天皇よりも上に立ったという事を公にした事になります。
 寛永9年(1632)、徳川秀忠の死により大赦令が出され、紫衣事件に連座した者たちは許されました。寛永18年、事件の発端となった大徳寺、妙心寺の寺法旧復が家光より正式に申し渡されたのです。後水尾天皇がこのことで退位されたので、修学院離宮をはじめ仙洞御所、大宮御所の造営に幕府が破格の援助をしたのでした。
 仙洞御所、大宮御所の地は、かつて聚楽第の後身として豊臣家の本邸「京都新城」のあった所です。太閤御所とか太閤上京御屋敷などと呼ばれたそうです。豊臣秀吉が没したあとは大坂から秀吉の正室の北政所が住んだそうです。
 仙洞御所と大宮御所は塀を隔てて並んで建てられていましたが、仙洞御所の御殿が安政元年(1854)の火災以後再建されず、慶応3年(1867)の大宮御所改修時に敷地が組み込まれ1つの御所となりました。それぞれあった庭園の池も掘割(ほりわり)でつながっています。
 大宮御所(北池、庭園を含む)の面積は約1万6千平方m、仙洞御所(南池を含む)の面積は約7万5千平方m、合わせて9万1千平方mと広大です。近年までは国賓の宿泊所としての役割も担っており、天皇、皇后、皇太子及び皇太子妃の入洛、行幸啓(帰京)の際の滞在に使用されています。


大宮御所・御車寄
 大宮御所の御車寄(おくるまよせ)は大宮御所、仙洞御所の玄関になります。現在も天皇、皇后、皇太子及び皇太子妃が入洛された時に使用されています。
大宮御所・御車寄

大宮御所・御常御殿
 大宮御所の御常御殿(おつねごてん)は歴代皇后の女院御所として用いられましたが、嘉永7年(1854年)に焼失しました。現在の大宮御所は慶応3年(1867)、英照皇太后(えいしょうこうたいごう・孝明天皇皇后)のために女院御所の跡に建てられた建物です。
大宮御所・御常御殿
 大宮御所には御常御殿の他には車寄、御文庫、庭園(北池)があります。大正時代にガラス窓やレースのカーテンなど現代的な洋室へ改めています。庭には紅梅・白梅、竹林、松が植樹され、「松竹梅の庭」と呼ばれています。近年までは国賓の宿泊所として使用され、天皇、皇后、皇太子及び皇太子妃の入洛、行幸啓(帰京)の際の滞在に使用されています。
大宮御所・御常御殿

仙洞御所庭園
 仙洞御所の庭園は大宮御所の北池を中心とした庭園と、仙洞御所の南池を中心とした庭園が一緒になったものです。仙洞御所の御殿は2つの池の中心に位置する紅葉山付近に建っていたようですが、嘉永7年(1854)の大火で焼失しその後も再建される事はありませんでした。延享4年(1747)、2つの池は掘割で結ばれ、1つの庭園となり、「もみじ橋」が架けられています。
仙洞御所庭園

北池(大宮御所の庭園)
 仙洞御所の池は、紅葉谷の掘割を境にして北側に北池が広がっています。造営当時は女院御所(大宮御所)の庭園でした。池の東に寄せた中島は、西から見る景色に奥行きを与え、対岸の樹木の上にはるか紫に霞む東山の峰が借景として造られています。かつては如意岳の大文字を見ることもできたそうです
北池

北池・六枚橋
 北池にある六枚橋は阿古瀬淵(あこせがふち)に架かる石橋です。長さ1m90cm、幅1m余りの御影石の切石を6枚並べ、反りを持たせた優雅な橋です。
北池・六枚橋

北池・阿古瀬淵
 阿古瀬淵(あこせがふち)は北池の北西端にある小さな入江です。かつてこの付近に聚楽第のあとに建てられた豊臣秀吉の本邸「京都新城」があり、阿古瀬淵はその邸の庭園の遺構だといわれています。延享4年(1747)に桜町上皇が歌人・冷泉為村に命じて選ばせた仙洞十景の中に「古池の山吹」があります。阿古瀬淵に晩春に咲く一重の山吹が選ばれています。
北池・阿古瀬淵

北池・紀氏遺蹟石碑
 阿古瀬淵の北の小高い丘の上に紀貫之(きのつらゆき)の邸宅跡を示す石碑が建てられています。平安時代、この周辺に紀貫之の邸があったといわれ、「阿古瀬(あこせ)」の名の由来は、貫之の幼名であった阿古久曾(あこくそ)からきているといわれています。
北池・紀氏遺蹟石碑

北池・土橋
 六枚橋から東へと苑路をいくと、鷺島といわれる中島があります。そこに架けられている土橋を渡ります。刀の柄に似ていることから束橋と呼ばれています。また中島の鷺島の名をとって鷺橋とも呼ばれるそうです。
北池・土橋

北池・石橋
 鷺島から東岸へ渡るところに石橋が架けられています。もとは土橋でしたが、大正3年(1914)に三条白川橋の石材を転用して架け替えられました。長さ5m、幅と厚さが同じ50cmの切石を2本ずつ組み、中央付近で側面が繋がる配置にされています。
北池・石橋

北池・雌滝
  北池の東岸の苑路が西へと曲がるあたりに雌滝と呼ばれる滝があります。南池の雄滝に対する滝ですが、滝というよりも遣水(やりみず)で、なだらかな傾斜面を曲がりながら北池に流れていきます。修学院離宮でも雄滝と雌滝がありました。後水尾上皇の好みなのでしょう。
北池・雌滝

北池と南池の間・紅葉橋
 紅葉橋は北池と南池を結ぶ掘割に架けられています。もとは板橋でしたが、大正3年(1914)に現在のような土橋に架け替えられました。北西にある紅葉山には今はなき仙洞御所の御殿が建てられていました。この紅葉橋からは北池は見えず、南池の世界が広がります。
紅葉橋

南池
 南池は仙洞御所の庭園の中の池です。寛永4年(1627)に小堀遠州が作事奉行として作庭しました。庭園は御所の造営などのたびに改変、拡張されました。東岸の土佐橋の下方の池畔に自然石と切石を組んだ出島の護岸があります。この付近には作庭当初の姿が残されています。
南池

南池・土佐橋
 南池の東岸の出島との間に土佐橋と呼ばれる平橋が架けられています。土佐の山内家から献上された橋です。この橋の下方の池畔には自然石と切石を組んだ出島の護岸があります。小堀遠州が作庭した当初の意匠が現在も残る部分です。
南池・土佐橋

南池・雄滝
 南池には雄滝があります。出島の入り江にある滝で、幅80cm、落差は180cmぐらいあるそうです。雄滝の上流には鵲橋(かささぎばし)と呼ばれる橋があるそうです。七夕の夜、牽牛星が織女星の年の一度の逢瀬のために、鵲に天の川に橋を架けさせるという中国の鵲橋の故事に由来しています。
南池・雄滝

南池・草紙洗の石
 雄滝の近くの出島西岸の根元に突き出た三畳敷ほどの平らな石は「草紙洗(そうしあらい)の石」と呼ばれています。この名には六歌仙の一人、小野小町のエピソードが含まれています。宮中歌合で小野小町と争うことになった六歌仙の一人、大伴黒伴は歌合の前夜、小町の邸に忍び込みました。
南池・草紙洗の石
 そして、小町の詠んだ歌を万葉の草紙に書き写したのです。歌合当日、小町の歌は万葉時代に詠まれた古歌だと主張したのです。草紙を見た小町はすぐに偽物だと見抜き、この平らな石から草紙を池の中に入れて洗いました。すると古い墨なら落ちるはずがない文字が消えてなくなり、大伴黒伴の悪事を見破ったのです。
南池・草紙洗の石

南池・舟着場
 南池に舟着場があります。階段状に数段低くなっているところに、一艘の舟がとめられていました。現在でも舟遊びの舟は用意されているのです。
南池・舟着場

南池・八つ橋
 南池の西岸と中島の間に八つ橋が架けられています。「伊勢物語」の三河八つ橋の八枚板橋に由来しているそうです。この橋は、稲妻形にジグザグとつながっているのが特徴です。もとは木橋でしたが、明治になってから石橋に架け替えられました。その時に橋の西半分に下り藤、東半分に上り藤が植えられました。
南池・八つ橋

仙洞御所・醒花亭
 醒花亭(せいかてい)は庭園の最も南にある茶亭で、南池を一望できる格好の場所に建てられています。延享4年(1747)に桜町上皇が歌人・冷泉為村に命じて選ばせた仙洞十景の中に「醒花亭の桜」があります。醒花亭の池の西岸には春を告げる桜の木が植えられています。
仙洞御所・醒花亭
 醒花亭はこけら葺きで、正面の玄関には庇を付け出しています。腰高障子を入れ、正面から向かって左には奥に4畳半の書院、手前に5畳の入側(縁側)を取っています。書院と入側の境に建具を入れてないのが特異です。醒花亭は敷地内で最も古い建物で、手前には織部燈籠(キリシタン燈籠)があり、東の庭には加藤清正によって献上されたと伝わる朝鮮灯籠があります。
仙洞御所・醒花亭
 醒花亭の東側の入り口の鴨居の上に唐の詩人・李白の詩の扁額が飾られています。額の字は中国、明の時代の郭子章の筆によるものです。醒花亭の名は、この李白の詩の一節「夜来月下臥醒花影」から名づけられました。
仙洞御所・醒花亭

南池・洲浜
 南池の西岸には洲浜があり、壮大な海辺を現しています。京都御所の御庭池や桂離宮にも洲浜はありますが、仙洞御所の洲浜が最も大きなものです。柔らかなカーブと、丸い石が浜辺のように敷き詰めた光景は開放的で優しい印象を与えています。
南池・洲浜

洲浜・一升石
 洲浜に敷き詰められている白灰石の楕円形の平たい石は「一升石」と呼ばれています。小田原藩主であった大久保忠真が小田原の民に、石1つにつき米1升を与えて集めさせたことから、この名がつきました。石は、およそ11万1千個あるといわれています。
洲浜・一升石

仙洞御所・御冷し
 栄螺山の西に「御冷し(おひやし)」と呼ばれる氷の保存蔵跡があります。氷を保存する氷室です。深さ4m、縦7.35m、横3.75mあります。地面を2段に掘り下げ、周囲を石垣で補強しています。
仙洞御所・御冷し

仙洞御所・柿本社
 南池の洲浜の西、御冷しの北側に柿本社があります。万葉の歌人、柿本人麻呂を祀っている神社です。度重なる御所・仙洞御所の火災を憂えた霊元上皇が御所の守り神として勧請したそうです。人麻呂は、その名を人丸と書いて「ひとまる」と呼ぶこともあるため「ひとまる(人丸)=火止まる」と解して防火の神としたそうです。
仙洞御所・柿本社

仙洞御所・又新亭
 紅葉山の西に又新亭(ゆうしんてい)が建てられています。最初に入ってきた潜り門の脇にあたります。明治17年(1884)に今出川御門内の近衛邸らあった茶室を移したものです。北池に面する東側に大丸窓があります。細くした竹と角材を破れ井桁に組んでいる斬新な窓です。南側にある中門の外には外腰掛を備えています。
仙洞御所・又新亭
 もともとこの場所には茶室の止々斎(ししさい)がありました。霊元上皇の時、宝永6年(1709)に修学院離宮の上御茶屋を移築した建物でした。しかし天明の大火(1788年)で焼失してしまいました。仙洞十景の中に「止々斎の雪」があります。止々斎から眺める雪景色が素晴らしかったのでしょう。
仙洞御所・又新亭



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