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京都の旅と歴史
京都の旅    京都市北区

大徳寺
だいとくじ
京都府京都市北区紫野大徳寺町53
Tel 075-491-0019



 龍寶山(りゅうほうざん)大徳寺は臨済宗大徳寺派の大本山です。正和4年(1315)ないし元応元年(1319)に大澄国師(宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう))は赤松円心の帰依を受け、洛北紫野の地に小堂を建てました。これが大徳寺の起源です。
 花園上皇は宗峰に帰依し、正中2年(1325)に大徳寺を祈願所とする院宣を発しています。後醍醐天皇も大徳寺を保護し、建武元年(1334)には京都五山のさらに上位に位置づけるとする綸旨を発しています。嘉暦元年(1326)に龍宝山大徳寺となり、勅使を迎え開堂し、寄進が相次ぎました。
 足利時代になり3代義満の時に五山制度改定が行われ、大徳寺は南朝に付いたとして「五山十刹」のうち十刹の第九位に落とされ、その後、林下の禅寺となりました。そして火事や応仁・文明の乱(1467-1477)の兵火で多くの伽藍が焼失し衰退しました。
 文明6年(1474)、後土御門天皇の勅命(綸旨)により、一休宗純が大徳寺第48代住持になり、堺の豪商・尾和宗臨らの協力を得て次第に大徳寺は復興していきました。天正10年(1582)、豊臣秀吉は織田信長の葬儀を大徳寺で行い、総見院を建立し、寺領を寄進し、茶会も催しました。
 大徳寺と茶の湯との関係は深く、千利休ら堺の茶人や茶の湯好きな大名などが次々に帰依しました。塔頭が建立され大いに隆盛しました。天正17年(1589)、利休は三門の上層を完成させました。そこに利休の居士像を安置したことから秀吉の怒りをかい、後に切腹を命じられ、京都葭屋町聚楽の屋敷内で自刃しました。
 境内は広大で南北一直線上に典型的禅宗伽藍が配置されています。勅使門から三門、仏殿、法堂(いずれも国重文)、方丈(国宝)と南北に並び、その他いわゆる七堂伽藍が完備しています。本坊の方丈庭園(特別名勝・史跡)は江戸時代初期を代表する枯山水です。方丈の正面に聚楽第から移築した国宝の唐門があります。


大徳寺勅使門(国重文)
 大徳寺の勅使門は桃山時代の建物で、東の総門を入った境内のほぼ中央に建てられています。勅使門、山門、仏殿、法堂がほぼ一直線に配されています。切妻造り、前後に軒唐破風が付き、檜皮葺きの四脚門です。慶長年間(1596-1614)、御所の陽明門として建立され、後に大徳寺に下賜されたもので、明治33年(1900)に国の重要文化財に指定されています。
大徳寺勅使門

平康頼之塔
 大徳寺の勅使門の傍らに鎌倉時代後期に建てられた「平康頼之塔」があります。康頼は、平家打倒の鹿ヶ谷の陰謀の首謀者の一人として、俊寛などと鬼界ヶ島に流されました。康頼は千本の卒堵婆を作り、「薩摩潟沖の小島にわれはありと 親には告げよ八重の潮風」と望郷の歌を書き海に流しました。それが厳島神社に流れ着き、老母に届けられたことから、都中の評判となり清盛は後に赦免しました。
平康頼之塔

大徳寺三門(山門)(国重文)
 大徳寺三門(山門)は2階二層の門です。享徳2年(1453)の火災や応仁の乱(1467-1477)で当初の伽藍などが焼失し、一休宗純が堺の豪商らの協力を得て復興させました。大永5年(1525)に連歌師・宗長の寄進で下層が完成し、天正17年(1589)に千利休が上層を完成させました。
大徳寺三門
 利休により「金毛閣」と名づけられた三門は、三解脱門(空門・無相門・無作門)をあらわす大徳寺最古の建造物です。大徳寺は利休に謝意を表し上層に雪駄を履いた利休の木像を安置しました。これが豊臣秀吉の怒りを買って利休切腹の一因となったといわれています。
大徳寺三門
 大徳寺の三門は5間3戸2階の二重門で、入母屋造り、本瓦葺きです。両脇には山廊が付けられています。山廊はそれぞれ、間口2間、奥行2間、単層、切妻造り、本瓦葺きです。明治42年(1909)に大徳寺山門として国の重要文化財に指定されています
大徳寺三門

大徳寺仏殿(国重文)
 大徳寺の仏殿は間口3間(12.75m)、奥行3間(10.73m)、単層、入母屋造り、本瓦葺きで、四周に1間通りもこしをつけています。寛文5年(1665)に、京の豪商・那波常有(なわ じょうゆう)の寄進で新造されています。
大徳寺仏殿
 仏殿の内部の須弥壇には、徳川家綱が寄進という釈迦如来坐像を安置しています。海北友松の障壁画、狩野元信の雲龍が残されています。大徳寺の仏殿は明治42年(1909)に南端の木造渡廊、北側の廊下を合わせて国の重要文化財に指定されています。
大徳寺仏殿

大徳寺浴室(国重文)
 大徳寺の浴室は総門を入ってすぐ、右側に建てられています。間口6間、奥行5間、単層、切妻造り 妻入 本瓦葺きで、元和8年(1622)に京の町人・灰屋紹益(はいやじょうゆ)の寄進により再建された建物です。明治42年(1909)に国の重要文化財に指定されています。
大徳寺浴室

大徳寺法堂(国重文)
 大徳寺の法堂は間口5間(17.66m)、奥行4間(13.65m)、単層もこし付、入母屋造り、本瓦葺きで、仏殿より一回り大きな建物です。寛永13年(1636)小田原城主稲葉正勝の遺志により、子の正則(まさのり)が建立しました。
大徳寺法堂
 堂内は鏡天井で狩野探幽の雲龍が描かれています。側柱のうち、背面中央間は柱を欠き、来迎柱を側柱列に寄せて兼用しています。堂内の形式手法は近世における禅宗様の典型です。大徳寺の法堂は廊下も含め、明治42年(1909)に国の重要文化財に指定されています。
大徳寺法堂

大徳寺唐門(国宝)
 大徳寺の唐門は切妻造り、檜皮葺きの四脚門で、前後軒唐破風付きです。天正年間(1573-1592)から慶長年間(1596-1615)ぐらいの間に建てられた門だと考えられています。豊臣秀吉が建てた聚楽第の遺構ともいわれます。慶長8年(1603)に大徳寺塔頭に寄進され、明治19年(1886)に大徳寺方丈前に移築されました。日暮(ひぐらし)門と呼ばれ、昭和27年(1952に国宝に指定されています。西本願寺、豊国神社の唐門とともに国宝三唐門に数えられています。
大徳寺唐門

大徳寺鐘楼(国重文)
 大徳寺の鐘楼は間口3間、奥行2間、入母屋造り、本瓦葺きの袴腰が付いた建物で、天正11年(1583)に建てられています。明治42年(1909)に国の重要文化財に指定されています。
大徳寺鐘楼

大徳寺玄関 (国宝)
 大徳寺の玄関は間口6間、奥行1間、単層、桟瓦葺き、唐破風造りです。豪商・後藤益勝の寄進で寛永13年(1636)に開祖・大燈国師(宗峰妙超)300年遠忌を記念して建てられました。大徳寺の玄関は昭和32年(1957)に方丈とともに国宝に指定されています。
大徳寺玄関

大徳寺方丈 (国宝)
 大徳寺の方丈は間口29.8m、奥行17m、単層、入母屋造り、桟瓦葺きの日本様式の建物です。豪商・後藤益勝の寄進で寛永12年(1635)に開祖・大燈国師(宗峰妙超)300年遠忌を記念して建てられました。大徳寺の方丈は妙超の塔所(墓所)である雲門庵を含めて昭和32年(1957)に国宝に指定されています。
大徳寺方丈

大徳寺庫裏(国重文)
 大徳寺の庫裏は間口26m、奥行19m、単層、桟瓦葺きで、正面は切妻造り、背面は入母屋造りになっています。旧方丈の部材を用いて、寛永13年(1636)頃に建てられたと考えられています。庫裏は明治42年(1909)に廊下を含めて国の重要文化財に指定されています。
大徳寺庫裏

大徳寺のイブキ
 大徳寺のイブキは仏殿の南庭にあります。樹齢は350年といわれ、仏殿の再建当時に植えられたと考えられています。樹高幹周は4.67mで、京都市の天然記念物に指定されています。
大徳寺のイブキ


興臨院
こうりんいん
京都府京都市北区紫野大徳寺町80
Tel 075-491-7636
 大徳寺の塔頭・興臨院は大永年間(1521-1528)に能登(現在の石川県北部)の守護、畠山義総が仏智大通禅師を開祖として創建しました。畠山家、前田家の菩提寺になっています。創建当時の姿が残る表門と本堂は唐門とともに国の重要文化財指定されています。
興臨院

瑞峯院
ずいほういん
京都府京都市北区紫野大徳寺町81
Tel 075-491-1454
 天文4年(1535)に九州の戦国大名・大友義鎮(宗麟)が大徳寺の徹岫九和尚を開祖に迎え、菩提寺として創建しました。方丈、唐門、表門は創建当時の建物で、国の重要文化財に指定されています。庭園は独坐庭と呼ばれ、苔と石組みで構成され、枯山水の名園として知られています。
瑞峯院

三玄院
さんげんいん
京都府京都市北区紫野大徳寺町71
Tel 075-492-5039
 大徳寺の塔頭・三玄院は天正17年(1589)に浅野幸長・石田三成・森忠政(蘭丸の弟)により、春屋宗園(しゅんおくそうえん)(大宝円鑑国師)を開祖として創建されました。春屋宗園、石田三成、森忠政、薮内剣仲、古田織部の墓があります。小堀遠州、長谷川等伯などは、春屋に禅を学んだそうです。
三玄院

龍源院
りょうげんいん
京都府京都市北区紫野大徳寺町82-1
Tel 075-491-7635
 大徳寺で一番古い塔頭・龍源院は、大徳寺南派の本庵です。文亀2年(1502)、能登(現在の石川県北部)の領主・畠山義元と豊後(現在の大分県)の大友義長らが大徳寺住職であった東渓宗牧を開山として創建させました。方丈は大徳寺山内最古の建物で、玄関、表門とともに国の重要文化財に指定されています。
龍源院

黄梅院
おうばいいん
京都府京都市北区紫野大徳寺町83-1
Tel 075-492-4539
 大徳寺の塔頭・黄梅院は織田信長が父・信秀の追善菩提のため、永禄5年(1562)に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に命じて建立した黄梅庵が始まりです。信長の死後、秀吉が増築し、天正17年(1589)に「黄梅院」と改めました。方丈、唐門、表門は国の重要文化財に指定されています。
黄梅院

聚光院
じゅこういん
京都府京都市北区紫野大徳寺町58
Tel 075-492-6880
 大徳寺の塔頭・聚光院は足利義晴に仕えた三好長慶の養子・義継が永禄9年(1566年)に養父の菩提を弔うため、笑嶺宗訢(しょうれいそうきん)を開山として創建されました。千利休が笑嶺和尚に参禅したことから利休の墓をはじめ、三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)歴代の墓所となっています。
聚光院

総見院
そうけんいん
京都府京都市北区紫野大徳寺町59
Tel 075-231-6415
 大徳寺の塔頭・総見院は豊臣秀吉が織田信長の菩提のために創建しました。本能寺の変より百日後に、大徳寺において信長の大葬礼が執りおこなわれました。喪主は信長の遺児で、秀吉の養子・秀勝でした。その後、織田信長の一周忌に間に合うように秀吉が総見院を創建したのでした。

芳春院
ほうしゅんいん
京都府京都市北区紫野大徳寺町55
Tel 075-492-6010
 大徳寺の塔頭で、前田家の菩提寺である芳春院は慶長13年(1608)、前田利家の夫人松子(芳春院)により玉室宗珀を開山として創建されました。境内には芳春院尼・前田利長・利常などの前田家霊屋があります。二重楼閣建築の呑湖閣は春屋宗園の昭堂で、金閣・銀閣・飛雲閣と並んで京の四閣と称されています。
芳春院

大仙院
だいせんいん
京都府京都市北区紫野大徳寺町54-1
Tel 075-491-8346
 大徳寺の塔頭・大仙院は永正6年(1509)六角近江守政頼により、その子古岳宗亘和尚を開祖として創建されました。書院は国の重要文化財に指定され、創建当初の建物である本堂は、禅宗の方丈建築としては最も古い遺構の一つで国宝に指定されています。書院庭園は国の特別名勝です。
大仙院

真珠庵
しんじゅあん
京都府京都市北区紫野大徳寺町52
Tel 075-492-4991
 大徳寺の塔頭・真珠庵は一休宗純が開祖という一休ゆかりのお寺です。永享年間(1429-1441)に創建されましたが、応仁の乱で焼失しました。延徳3年(1491)に堺の豪商・尾和宗臨(おわそうりん)によって再興されました。方丈は寛永15年(1638)に京の豪商・後藤益勝(ますかつ)の寄進によって造営されています。
真珠庵



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