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京都の旅と歴史
京都の旅    京都市南区

東寺(教王護国寺)
とうじ(きょうおうごこくじ)
京都府京都市南区九条町1
Tel 075-691-3325


 東寺は東寺真言宗の総本山のお寺で、現在の宗教法人名は教王護国寺です。延暦13年(794)、桓武天皇は平安京遷都を行い、都を鎮護する官立寺院として平安京の正門にあたる羅城門の東西に東寺と西寺という2つのお寺を配置しました。
 2年後の延暦15年(796)、朱雀大路の羅城門の東に東寺が建立されました。西には西寺が建てられましたが、西寺は戦国時代の中頃に廃寺になったようです。東寺は弘仁14年(823)、嵯峨天皇から空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場として現在に至っています。
 空海は、入定後87年目の延喜21年(921)に醍醐天皇から「弘法大師」の称号が贈られています。天福元年(1233)には弘法大師像が完成しました。像の完成により、町の人々も供養に集まるようになり、「お大師様の寺」として皇族から庶民まで広く信仰を集めるようになりました。空海に深く帰依した後白河法皇の皇女・宣陽門院などは東寺に莫大な荘園を寄進しました。
 空海が今も生きているがごとく、毎朝食事を捧げる儀式の「生身供」(しょうじんく)や、毎月21日の空海の命日に供養を行う「御影供」(みえく)などの儀式を創り上げたのも宣陽門院でした。これらの儀式は今日も御影堂などで行われています。中世以後、東寺は後宇多天皇や後醍醐天皇により援助を受け繁栄しました。
 足利尊氏は東寺に本陣を置き新田義貞軍を防ぎ、室町時代の幕を開けました。織田信長も足利尊氏にならい本陣を置き、安土桃山時代が始まりました。信長の跡を継いだ豊臣秀吉は永禄6年(1563)の落雷で焼失した五重塔の再建に尽力しました。
 豊臣秀頼は金堂の再建に援助し、徳川家光は寛永12年(1635)の落雷で焼失した五重塔を再建しています。長い歴史を経た現在でも、南大門・金堂・講堂・食堂が南から北へ一直線に整然と並ぶ伽藍配置や、各建物の規模は平安時代のまま現存しています。
 東寺は昭和9年(1934)に国の史跡に指定され、金堂、講堂、五重塔、御影堂、蓮花門、観智院客殿は国宝に指定され、宝蔵、南大門、東大門、慶賀門、北大門、北総門、灌頂院、灌頂院北門と東門、五重小塔などは国の重要文化財に指定されています。
 東寺の仏像・宝物類は、たび重なる兵火や災害を免れ、平安時代以降の彫刻・絵画・工芸。書跡にいたる各時代の名品を蔵し、密教美術の一大宝庫となっていて、日本美術史上重要な位置を占めています。東寺は平成6年(1994)には「古都京都の文化財」として世界遺産にも登録されています。


東寺金堂(国宝)
 東寺の金堂は延暦15年(796)に東寺の創立とともに建立されました。文明18年(1486)の土一揆で焼失し、慶長8年(1603)に豊臣秀頼により再建されました。間口5間、奥行3間、単層裳階(もこし)付き、入母屋造り、本瓦葺きの雄大な建物です。 教王護国寺金堂として昭和28年(1953)に国宝に指定されました。
東寺金堂
 金堂は唐様、和様、大仏様(天竺様)の建築様式を折衷した桃山時代仏寺建築の優作です。貫や挿肘木を多用して高い天井を支える構造は大仏様で、上層の組物は尾垂木(おだるき)を持つ和様の四手先です。本堂再建時に作られた国指定重文の本尊・薬師如来坐像とその脇侍である日光、月光菩薩立像が安置されています。
東寺金堂

東寺講堂(国重文)
 東寺の講堂は天長2年(825)、空海により真言密教の根本道場として着工されました。文明18年(1486)の土一揆で焼失し、延徳3年(1491)に再建されたのが現在の講堂で、昭和15年(1940)に国の重要文化財に指定されています。
東寺講堂
 講堂は間口9間、奥行4間、単層、入母屋造り、本瓦葺きの雄大な建物です。弘法大師の密厳浄土の世界を21体の諸仏が表し、立体曼荼羅の世界が表現されています。五大明王像、五大菩薩坐像、梵天坐像・帝釈天半跏像、四天王像などは国宝に指定されています。
東寺講堂

東寺五重塔(国宝)
 東寺の五重塔は京都のシンボルにもなっている塔です。高さ54.8mは現存する木造塔の中で日本一の高さを誇っています。初代の五重塔は、天長3年(826)、弘法大師によって着工されました。慶長元年(1596)の大地震で、伏見城天守閣や、東寺の食堂、講堂、南大門ほか多数の堂宇が倒壊しましたが、五重塔は無事でした。
東寺五重塔
 しかし五重塔は落雷火災や原因不明の出火などで4度も焼失しています。現在の五重塔は寛永20年(1643)、3代将軍徳川家光によって再建されたものです。本瓦葺きの三間五重塔婆で、意匠は伝統的な純和様の様式です。上層になるほど幅を狭くする逓減率は少なく、均整が取れています。教王護国寺五重塔として昭和27年(1952)に国宝に指定されています。
東寺五重塔
 内部の中心には、太い心柱があります。そのまわりを囲むのが、阿しゅく、宝生、阿弥陀、不空成就如来の金剛界四仏です。そして、更にそのまわりには八代菩薩像を安置しています。真言密教の中心尊であり金剛界五仏の中尊でもある大日如来の像はなく、心柱を大日如来としているそうです。初重内部の壁や柱には金剛界曼荼羅や八大龍王、真言八祖像が描かれています。
東寺五重塔

東寺御影堂(国宝)
 東寺の御影堂は東寺境内の北西部にあります。「西院」(さいいん)と呼ばれる一画に建つ住宅風の仏堂で、前堂、後堂、中門の3つから成り立っています。弘法大師の住房を仏堂としたもので、はじめ不動明王像を祀っていましたが、天福元年(1233)以来、大師像も祀ったところから御影堂とか大師堂と呼ばれるようになったそうです。
東寺御影堂
 御影堂は康暦元年(1379)の火災で焼失しました。その翌年の康暦2年に後堂部分が再建され、10年後の明徳元年(1390)、弘法大師像を安置するために北側に前堂、その西側に中門が増築されました。後堂には空海の念持仏とされる国宝の不動明王坐像を安置しています。
東寺御影堂
 前堂には運慶の4男康勝が造ったという国宝の弘法大師坐像が安置されています。 御影堂の後堂は間口7間、奥行4間、単層、入母屋造り、向拝があり、前堂は間口4間、奥行5間、単層、入母屋造り、中門は間口2間、奥行1間、単層、西面切妻造りで、すべて檜皮葺きです。昭和33年(1958)に教王護国寺大師堂として国宝に指定されています。
東寺御影堂

東寺食堂
 東寺の食堂(じきどう)は入母屋造り 本瓦葺きの建物で、講堂の北にあります。昭和5年(1930)の火災で焼失し、昭和9年(1934)に再建された建物です。旧本尊の6mもある千手観音立像はこの時の火災で焼損しましたが、昭和40年(1965)から修復され、国の重要文化財に指定され宝物館に安置されています。
東寺食堂

東寺宝蔵(国重文)
 東寺の宝蔵は慶賀門の南側、掘割で囲まれた中に建てられています。間口3間、奥行3間、寄棟造り、本瓦葺きの校倉(あぜくら)造りの倉庫です。平安時代後期に建立された、東寺では最古の建物です。大正14年(1925)に教王護国寺宝蔵として国の重要文化財に指定されています。
東寺宝蔵

東寺蓮花門(国宝)
 東寺の蓮花門(れんげもん)は東寺西側の壬生通に面しています。現在の建物は、鎌倉時代前期の建物で、文覚上人が伽藍を復興したときに再建されたものです。空海が東寺を弟子に託し、高野山に隠棲するとき、この門から旅立ったといわれ、その時にハスの花が咲いたという故事から名づけられています。
東寺蓮花門
 蓮花門は切妻造り、本瓦葺きの、三間一戸の八脚門です。木割が太く、形態もよく整っていて鎌倉時代の古風をとどめています。昭和27年(1952)に東寺の門の中では唯一国宝に指定されました。境内からは見ることができないので、訪れる人は少ない感じです。
東寺蓮花門

東寺南大門(国重文)
 東寺の南大門(なんだいもん)は東寺のなかで最も大きい門で、南側の九条通に面しています。焼失したため、明治28年(1895)に平安遷都1100年記念として、三十三間堂の西門を移築したものです。
東寺南大門
 南大門は切妻造り、本瓦葺きの三間一戸の八脚門です。慶長6年(1601)に建てられた門で、教王護国寺南大門として明治43年(1910)に国の重要文化財に指定されています。
東寺南大門

東寺東大門(国重文)
 東寺の東大門(ひがしだいもん)は切妻造り、本瓦葺きの三間一戸の八脚門です。現在の建物は桃山時代の慶長10年(1605)に建てられたものです。足利尊氏が新田義貞に攻められた時、この門を閉め難を逃れたといわれています。教王護国寺東大門として明治43年(1910)に国の重要文化財に指定されています。
東寺東大門

東寺慶賀門(国重文)
 東寺の慶賀門(けいがもん)は大宮通に面しています。切妻造り、本瓦葺きの三間一戸の八脚門です。現在の建物は鎌倉時代前期(1185-1274)に建てられたものです。教王護国寺慶賀門として明治40年(1907)に国の重要文化財に指定されています。
東寺慶賀門

東寺北大門(国重文)
 東寺の北大門(きただいもん)はは切妻造り、本瓦葺きの三間一戸の八脚門です。現在の建物は桃山時代の慶長6年(1601)に建てられたものです。教王護国寺北大門として明治40年(1907)に国の重要文化財に指定されています。
東寺北大門

東寺灌頂院(国重文)
 東寺の灌頂院(かんじょういん)は密教の奥義を伝えるための儀式を行うためのお堂です。「伝法灌頂」や天皇の安泰を祈願する「後七日御修法(ごしちにちのみしほ)などが行われます。弘法大師が修行した唐の青龍寺にならい、承和10年(843)頃、実恵によって建立されたそうです。
東寺灌頂院
 灌頂院の床は石畳で、内部に仏像などは安置されていないそうです。双堂という形式で正堂と礼堂と、それらをつなぐ「相の間」から構成されているそうです。現在の建物は間口7間、奥行7間、単層、 寄棟造り、本瓦葺きで寛永6年(1629)に建てられています。昭和15年(1940)に国の重要文化財に指定されています。
東寺灌頂院

東寺灌頂院北門(国重文)
 灌頂院の北門は切妻造り、本瓦葺きの四脚門です。鎌倉時代前期(1185-1274)に建てられたもので、昭和30年(1955)に国の重要文化財に指定されています。毎年行われる正御影供(しようみえく)は弘法大師の命日にあたり、灌頂院の閼伽井(あかい)に絵馬が掲げられこの北門を開扉し、一山の僧により法要が行われます。
東寺灌頂院北門

東寺灌頂院東門(国重文)
 灌頂院の東門は北門と同じように切妻造り、本瓦葺きの四脚門です。鎌倉時代前期(1185-1274)に建てられたもので、昭和30年(1955)に国の重要文化財に指定されています。平成27年(2015)に御影堂とともに油のようなものがまかれた被害にあっています。
東寺灌頂院東門

東寺鐘楼
 東寺の鐘楼は大師堂近くにあります。足利尊氏が寄進した鐘が貞和4年(1348)に完成したと東宝記にも記されています。梵鐘は痛みがひどくなったため宝物館に保管され、全く同じ形をした鐘が鐘楼に吊るされています。
東寺鐘楼

東寺夜叉神堂
 東寺の夜叉神堂(やしゃがみどう)は食堂の前に2堂建っています。東側の雄夜叉は本地文殊菩薩を祀り、西側の雌夜叉は本地虚空蔵菩薩を祀っています。最初、南大門の左右にありましたが、旅人が拝まないで通ると罰を与えるので、中門の左右に移されました。中門倒壊の後、現在地に移りました。歯痛に効能があるそうです。
東寺夜叉神堂

東寺観智院客殿(国宝)
 観智院(かんちいん)は、東寺の塔頭の中でも最も格式が高いお寺です。現在の観智院の客殿は、慶長元年(1596)の慶長伏見地震の後、慶長10年(1605)、北政所の寄進によって再建されたものです。昭和34年(1959)に国宝に指定されました。園城寺の勧学院客殿、光浄院客殿と共に、桃山時代の住宅様式の典型を示し、当時の僧侶の居室の姿を今に伝えています。
東寺観智院客殿
 客殿は間口12.7m、奥行13.7m、入母屋造り、妻入で、銅板葺きです。建立時はこけら葺きでした。正面右よりに軒唐破風があり、間口1間、奥行1間の中門が付随しています。床の間の「鷲の図」と襖絵の「竹林の図」は宮本武蔵によって描かれています。
東寺観智院客殿
 延慶元年(1308)、後宇多法皇が東寺の西院に3年間参籠され、21院を建立されました。観智院はその中の一つです。大学の研究室のような場所で、杲宝(ごうほう)が開基しました。師の頼宝(らいほう)、弟子の賢宝(けんぽう)とともに東寺の三宝(さんぽう)といわれる名僧です。杲宝は東寺の歴史を記した「東宝記(とうほうき)」を編纂し、賢宝によって完成されました。東宝記は東寺の歴史を語る貴重な史料として、国宝に指定されています。観智院では代々学僧が住し、観智院の住持が東寺の別当職を兼ねていました。多くの経文、書籍を所蔵しています。
東寺観智院客殿

東寺宝物館
 東寺の宝物館は鉄筋コンクリート3階建て、切妻造りで、昭和38年(1963)に完成し、2年後に一般に公開されました。食堂の本尊で6mもある国重文「千手観音立像」や、平安京の玄関口羅城門の楼上に祀られていたといわれる国宝「兜跋(とばつ)毘沙門天」など、密教芸術の宝庫といわれ、国宝や重要文化財指定のものだけでも1万5千点にのぼる寺宝を所蔵しています。
東寺宝物館



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