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京都の旅と歴史
京都の旅    京都市中京区

二条城
にじょうじょう
京都府京都市中京区二条通堀川西入二条城町541
Tel 075-841-0096 (元離宮二条城事務所)


 二条城は、京都の中心地に築かれた典型的な平城で、桃山文化の粋が結集されたところです。慶長8年(1603)、徳川家康は京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所として、京都所司代板倉勝重を奉行とし、畿内の諸大名に命じて築城しました。
 慶長16年(1611)、後水尾天皇の皇位継承のために上洛した家康は、この城で豊臣秀頼と会見しています。また慶長19年(1614)の大阪冬の陣、翌年の夏の陣では徳川方の作戦本部になりました。
 寛永3年(1626)3代将軍家光が後水尾天皇を迎えた際、大規模な増改築を行い、現在の体裁に整えました。しかし家光以後は将軍の上洛もなく、寛延3年(1750)の落雷で、伏見城から移築した天守閣が焼失してしまいました。
 天明8年(1788)の天明の大火で、本丸の櫓門以外のすべての建物と二の丸の櫓や門の一部が焼失しました。幕末、開国をめぐり公武の緊張が高まり、14代将軍家茂が2度、二条城に滞在し、最後の15代将軍慶喜は慶応2年(1866)ここで将軍職を拝命し、翌年大政奉還をしています。
 堀川通の正面に堀を巡らし、石垣に囲まれた敷地は東西約500m、南北400mで、総面積27万5千平方mという広大な広さがあります。建築面積は7300平方mで、全域が旧二条離宮として国の史跡に登録され、平成6年(1994)には「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されました。
 二の丸御殿は遠侍及び車寄、式台、大広間、蘇鉄之間、黒書院(小広間)、白書院(御座の間)の6棟が国宝です。二の丸庭園は国の特別名勝に指定され、二の丸御殿の障壁画1016面が美術工芸での国の重要文化財に指定されています。
 本丸では本丸御殿(旧桂宮邸)の玄関、御書院、御常御殿、台所及び雁之間、二の丸では二の丸御殿の唐門、築地、台所、御清所、そして本丸櫓門、東大手門、北大手門、西門、鳴子門、桃山門、北中仕切門、南中仕切門、東南隅櫓、西南隅櫓、土蔵3棟、東南隅櫓北方多門塀が国の重要文化財に指定されています。


二条城・西南隅櫓(国重文)
 二条城には四隅に隅櫓(すみやぐら)がありましたが、天明8年(1788)の大火により、2つの櫓が焼失し、西南隅櫓と東南隅櫓のみが残されています。西南隅櫓は木造2階建ての二重櫓、屋根は入母屋造りで、本瓦葺き、唐破風付きです。1階は間口5間、奥行4間で、2階部分は間口4間、奥行3間です。
二条城・西南隅櫓
 西南隅櫓は慶長7年(1602)から翌年の慶長8年(1603)に徳川家康によって建てられ、寛永2年(1625)から翌年の寛永3年(1626)にかけて徳川家光によって改修・拡張されています。外堀に面する2箇所の出窓に、石落とし用と、横矢掛り用の窓を付けています。昭和14年(1939)に国の重要文化財に指定されています。北方、東方に延びる多門塀も附指定されています。
二条城・西南隅櫓

二条城・東南隅櫓(国重文)
 二条城の東南隅櫓(とうなんすみやぐら)は西南隅櫓と同様に、慶長7年(1602)から翌年の慶長8年(1603)に徳川家康によって建てられ、寛永2年(1625)から翌年の寛永3年(1626)にかけて徳川家光によって改修・拡張された櫓です。西南隅櫓よりも一回り大きく造られています。
二条城・東南隅櫓
 東南隅櫓は伏見城から移築されたともいわれています。木造二重2階櫓、屋根は入母屋造りで、本瓦葺き、千鳥破風付きです。壁は真っ白な漆喰塗りごめです。出窓、石落とし、矢狭間が備えています。昭和14年(1939)に国の重要文化財に指定されています。西方に延びる多門塀も附指定されています。
二条城・東南隅櫓

二条城・東南隅櫓北方多門塀(国重文)
 二条城の東南隅櫓の北方多門塀(ほっぽうたもんべい)は慶長7年(1602)から翌年の慶長8年(1603)に建てられ、寛永2年(1625)から翌年の寛永3年(1626)にかけて徳川家光によって改修・拡張された東南隅櫓の北方方面の多門塀です。延長41.9m、本瓦葺きです。昭和14年(1939)に国の重要文化財に指定されています。
東南隅櫓北方多門塀

二条城・東大手門(国重文)
 二条城の東大手門は二条城の正門で、江戸時代前期の寛文2年(1662)に造られました。間口13間、奥行3間の櫓門です。屋根は入母屋造りの本瓦葺きで、妻は木連格子、棟には鯱が飾られています。櫓の武者窓の左右に設けられた2つの出窓は、物見や銃眼の役を果たしていました。
二条城・東大手門
 東大手門は寛文2年(1662)に完成された建物で、翌年、後水尾天皇の行幸の際、この門から入城したということです。当時は単層で、高麗門だったようです。この近世城郭の典型的な櫓門は昭和14年(1939)に附指定の多聞塀を含み、国の重要文化財に指定されています。
二条城・東大手門

二条城・北大手門(国重文)
 二条城の北大手門は北側の夷川通りに面しています。屋根は入母屋造りの本瓦葺きの櫓門です。東大手門と同じ造りですが、2階の渡櫓が小規模になっています。慶長7年(1602)から翌年の慶長8年(1603)に建てられ、寛永2年(1625)から翌年の寛永3年(1626)にかけて改修・拡張された櫓門です。
二条城・北大手門
 昭和14年(1939)に附指定の多聞塀を含み、国の重要文化財に指定されています。この北大手門の内壁に平成28年(2016)2月、門の左右のしっくい壁(高さ7m)に幅9mにわたり、ゴルフボールを押し付けたようなくぼみがつけられたそうです。40カ所もあり、被害届を出し、捜査をしているとのことです。
二条城・北大手門

二条城・西門(国重文)
 二条城の西にある西門は埋門(うずみもん)です。隠門(かくれもん)とも呼ばれ、裏門などに用いられた小さな門で、土塁、塀、石垣などの下部をくり抜いたようにして造られています。かつては木橋が架けられ、日常的に使われていたようですが、現在は橋はありません。
二条城・西門
 西門は慶長7年(1602)から翌年の慶長8年(1603)に建てられ、寛永2年(1625)から翌年の寛永3年(1626)にかけて改修・拡張されました。昭和14年(1939)に附指定の多聞塀を含み、国の重要文化財に指定されています。
二条城・西門

二条城二の丸・鳴子門(国重文)
 二条城の二の丸と本丸の間の北側に鳴子門があります。切妻造り、本瓦葺きの単層の戸付一間門で、北を正面としています。北側には番所があったそうです。南側の桃山門より小ぶりの門です。
二条城二の丸・鳴子門
 鳴子門は慶長7年(1602)から翌年の慶長8年(1603)に建てられ、寛永2年(1625)から翌年の寛永3年(1626)にかけて改修・拡張されています。昭和14年(1939)に附指定の袖塀を含め国の重要文化財に指定されています。
二条城二の丸・鳴子門

二条城二の丸・桃山門(国重文)
 二条城の二の丸と本丸の間の南側に桃山門があります。間口5間、奥行3間、単層、入母屋造り、本瓦葺きの長屋門です。この門をくぐった先は桜の園とよばれているところで、サトザクラが植樹されています。
二条城二の丸・桃山門
 桃山門は慶長7年(1602)から翌年の慶長8年(1603)に建てられ、寛永2年(1625)から翌年の寛永3年(1626)にかけて改修・拡張されています。昭和14年(1939)に国の重要文化財に指定されています。
二条城二の丸・桃山門

二条城二の丸・南中仕切門(国重文)
 二条城の中央付近の南にある南中仕切門(みなみなかじきりもん)は埋門で、食違いの仕切の石垣に造られています。北中仕切門と同じく、西二の丸への通路を仕切る本瓦葺きの一間門で、招造り(まねきづくり)で庇が付いています。
南中仕切門
 慶長7年(1602)から翌年の慶長8年(1603)に建てられ、寛永2年(1625)から翌年の寛永3年(1626)にかけて改修・拡張された門です。昭和14年(1939)に国の重要文化財に指定されています。
南中仕切門

二条城二の丸・北中仕切門(国重文)
 二条城の二の丸にある南中仕切門の本丸を挟んだ北側に北中仕切門(きたなかじきりもん)があります。南中仕切門と同じ造りの本瓦葺きの一間門で、招造り(まねきづくり)で庇が付いています。徳川家康が二条城を築城した当時は、この門の北に太鼓櫓があり、その東には天守があったそうです。
北中仕切門
 南中仕切門は慶長7年(1602)から翌年の慶長8年(1603)に建てられ、寛永2年(1625)から翌年の寛永3年(1626)にかけて改修・拡張された門です。昭和14年(1939)に国の重要文化財に指定されています。
北中仕切門

二条城・本丸櫓門(国重文)
 二条城の本丸櫓門は廊下橋を渡って二の丸から本丸へ入る東の入口にあります。入母屋造り、本瓦葺きの櫓門で、寛永2年(1625)から翌年の寛永3年(1626)にかけて造られました。本丸の中では天明8年(1788)の天明の大火を免れた建物です。
二条城の本丸櫓門
 かつては橋の上に2階廊下が造られていて、後水尾天皇の行幸に合わせ、外に出ないで二の丸と本丸を行き来することができました。貞享4年(1687)に廊下橋は撤去されましたが、その部材は現存しているそうです。本丸櫓門は附指定の袖塀(南方・北方)とともに、昭和14年(1939)に国の重要文化財に指定されています。
二条城の本丸櫓門

二条城・番所
 二条城の番所は東大手門を入った右手にあります。間口10間(19.6m)、奥行3間(6.06m)の建物で、屋根は本瓦葺きと、下に付いている庇は桟瓦葺きです。ここには二条在番という江戸から派遣された武士が警備のため常駐していました。1組50人の武士が毎年2組、4月に交代して番にあたったそうです。
二条城・番所

二の丸御殿台所(国重文)
 二の丸御殿の台所は間口正面が17間、背面母屋14間、出張4間、奥行右側面が8間、左側面が母屋5間、出張4間、単層、入母屋造り、本瓦葺きの大きな建物です。隣に建つ二の丸御殿・御清所とともに昭和14年(1939)に国の重要文化財に指定されています。
二の丸御殿・台所

二の丸御殿・築地(国重文)
 二の丸御殿の築地は慶長7年(1602)から翌年の慶長8年(1603)に徳川家康によって建てられ、寛永2年(1625)から翌年の寛永3年(1626)にかけて徳川家光によって改修・拡張された塀です。東築地は折廻り延長54間、西築地は折廻り延長19間、本瓦葺きです。昭和14年(1939)に国の重要文化財に指定されています。
二の丸御殿・築地

土蔵(米蔵) (国重文)
 西二の丸の西北部に米蔵に使われていた土蔵があります。単層、入母屋造り、本瓦葺き、 土蔵造りの建物です。昭和14年(1939)に国の重要文化財に指定されています。
土蔵(米蔵)

土蔵(米蔵) (国重文)
 西二の丸の西南部に米蔵に使われていた土蔵があります。単層、入母屋造り、本瓦葺き、 土蔵造りの建物です。昭和14年(1939)に国の重要文化財に指定されています。
土蔵(米蔵)

土蔵(米蔵) (国重文)
 収蔵庫近くに米蔵に使われていた土蔵があります。寛永2年(1625)から翌年の寛永3年(1626)にかけて建てられています。単層、入母屋造り、本瓦葺きで、門番所が付いた土蔵造りの建物です。昭和14年(1939)に国の重要文化財に指定されています。
土蔵(米蔵)


二条城二の丸・唐門(国重文)
 二条城の大手門を入ると次の門が唐門です。唐門は二の丸御殿の正門で、慶長8年(1603)に徳川家康によって建てられ、寛永2年(1625)から翌年の寛永3年(1626)にかけて家光により大規模な改修が施されました。切妻造り、檜皮葺(ひわだぶ)きの四脚門で、前後の軒に唐破風が付いています。
二の丸・唐門
 唐門には西本願寺の唐門と同じように、華やかな色彩と細やかな細工が施されています。極彩色の彫刻が施された欄間には縁起物の鶴亀に松、牡丹に蝶、龍と虎、裏面には仙人と鳳凰などの彫刻が施されています。昭和14年(1939)に国の重要文化財に指定されています。
二の丸・唐門

「二の丸御殿(6棟国宝)」
 二の丸御殿は桃山時代武家風書院造りの代表的な建物です。二条城内で唯一残された江戸時代初期の遺構で、6棟すべて国宝に指定されています。二の丸御殿の障壁画は狩野一門の作で、八方にらみの獅子図などがよく知られています。
二の丸御殿
 東から車寄と遠侍(とおざむらい)、その西に式台(しきだい)があります。大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の国宝指定の6棟が南東から南西へ後ずさりしながら連なって建てられている雁行様式で、接続あるいは渡廊で結ばれています。
二の丸御殿

二条城二の丸御殿・車寄(国宝)
 車寄は遠侍に付設した二の丸御殿の玄関です。間口5間、奥行3間、入母屋造り、檜皮葺(ひわだぶ)きの単層の建物です。天皇など高貴な人が牛車に乗って訪れた時に、そのまま建物内に入ることができる造りです。檜皮葺きの屋根下の欄間には鸞鳥(らんちょう)、松、牡丹など彫刻が施されています。
二の丸御殿・車寄
 車寄は慶長7年(1602)から翌年の慶長8年(1603)に建てられ、寛永2年(1625)から翌年の寛永3年(1626)にかけて改修されています。車寄は二の丸御殿遠侍及び車寄として昭和27年(1952)に国宝に指定されています。
二の丸御殿・車寄

二条城二の丸御殿・遠侍(国宝)
 遠侍(とおざむらい)は、城へ参上した大名の控室です。慶長7年(1602)から翌年の慶長8年(1603)に建てられ、寛永2年(1625)から翌年の寛永3年(1626)にかけて改修されています。間口8間、奥行8間、入母屋造り、本瓦葺きの単層の建物です。二の丸御殿の中で最大の床面積(約1046.1平方m)をほこっています。
二の丸御殿・遠侍
 慶長16年(1611)に徳川家康は豊臣秀頼とこの遠侍で会見しています。一の間・二の間・三の間・若松の間・勅使の間に分かれています。一の間から三の間は勇壮な虎と豹の絵が描かれていることから「虎の間」とも呼ばれています。遠侍は二の丸御殿遠侍及び車寄として昭和27年(1952)に国宝に指定されています。
二の丸御殿・遠侍

二条城二の丸御殿・式台(国宝)
 式台は参上した大名が老中職と挨拶を交した所です。間口は正面が3間、背面が5間、奥行は右側面が4間、左側面が6間、単層、入母屋造り、本瓦葺きの建物です。慶長7年(1602)から翌年の慶長8年(1603)に建てられ、寛永2年(1625)から翌年にかけて改修されています。昭和27年(1952)に国宝に指定されています。
二の丸御殿・式台

二条城二の丸御殿・大広間(国宝)
 二の丸御殿の大広間は将軍が外様大名に対面した部屋で、二の丸御殿の中でもっとも格式の高い部屋です。慶応3年(1867)、15代将軍慶喜が諸藩の重臣を集め、大政奉還を発表し、徳川幕府265年の幕を閉じた歴史的な部屋でもあります。折上格天井があり。将軍が座る一の間は二重折上格天井になっています。
二の丸御殿・大広間
 大広間の間口は右側面が8間、左側面が7間、奥行は正面が7間、背面が5間、単層、入母屋造り、本瓦葺の建物です。一の間は広さ48畳、二の間は44畳で、二の間は後水尾天皇の行幸の際、南庭につくられた能舞台の見所に使われたそうです。慶長7年(1602)から翌年の慶長8年(1603)に建てられ、寛永2年(1625)から翌年にかけて改修されています。昭和27年(1952)に国宝に指定されています。
二の丸御殿・大広間

二条城二の丸御殿・蘇鉄之間(国宝)
 二の丸御殿の蘇鉄之間は大広間から続く部屋で、間口は右側面が8間、左側面が9間、奥行は正面が1間、背面が3間、入母屋造り、本瓦葺きです。外の西側に広がる庭園には蘇鉄が植えられています。慶長7年(1602)から翌年にかけ建てられ、寛永2年(1625)から翌年にかけ改修され、昭和27年(1952)に国宝に指定されています。
二の丸御殿・殿蘇鉄之間

二条城二の丸御殿・黒書院(国宝)
 蘇鉄の間の奥に黒書院があります。大広間より小さいことから小広間とも呼ばれています。黒書院は将軍が親藩大名や譜代大名と対面した場所です。間口は正面が7間、背面が8間、奥行は右側面が6間、左側面が8間、単層、入母屋造り、本瓦葺きです。慶長7年(1602)から翌年にかけ建てられ、寛永2年(1625)から翌年にかけ改修されています。
二の丸御殿・黒書院
 黒書院の襖絵は狩野探幽の弟、尚信(なおのぶ)の作品です。金箔地の上に描かれた金碧障壁画で巧みな装飾が施されています。徳川家光の時に、後水尾天皇の行幸を迎える際に狩野派一門に描かせました。二の丸御殿全体で3千面以上もあり、1016面が国の重要文化財に指定されています。黒書院も昭和27年(1952)に国宝に指定されています。
二の丸御殿・黒書院

二条城二の丸御殿・白書院(国宝)
 黒書院の奥には白書院があります。二の丸御殿の一番奥の建物です。間口6間、奥行6間、単層、入母屋造り、本瓦葺きです。将軍の居間・寝室として使われた部屋で、内部の装飾も大広間や黒書院とは違い、落ち着いたものになっています。絵画は狩野興以(こうい)または長信(ながのぶ)によるもので、居間にふさわしい水墨山水画となっています。
二の丸御殿・白書院
 慶長7年(1602)から翌年にかけ建てられ、寛永2年(1625)から翌年にかけ改修されています。かつては本丸の櫓門へと繋がる廊下橋があり、外に出る事なく直接本丸へ行くことができましたが、明治時代に撤去されてしまいました。白書院は昭和27年(1952)に国宝に指定されています。
二の丸御殿・白書院

二の丸庭園(国特別名勝)
 二条城には江戸時代につくられた二の丸庭園、明治時代の本丸庭園、昭和時代の清流園の3つの庭園があります。小堀遠州作と伝わる二の丸庭園は慶長7年(1602)の二条城の築城当初から存在し、寛永3年(1626)の御水尾天皇行幸の際に改修されました。二の丸庭園は書院造庭園で、神仙蓬莱の世界を表した庭園といわれています。
二の丸庭園
 三つの島と四つの橋を設けた池を中心とした池泉回遊式の庭園で、「八陣の庭」とも呼ばれています。二の丸御殿大広間上段の間(将軍の座)、黒書院上段の間(将軍の座)、行幸御殿上段の間(天皇の座)・御亭の主に三方向から鑑賞できるように設計されていました。昭和28年(1953)に国の特別名勝に指定されています。
二の丸庭園

二条城・釣鐘
 二の丸庭園の入口付近に釣鐘が置かれています。この鐘は、幕末の政変の時期に二条城と北側の所司代との連絡に使われました。鐘は二条城と所司代に設置され、二条城では東北隅の艮櫓跡に置かれました。鳥羽・伏見の開戦などにも使われ、明治になってからも非常時に備え使用されたそうです。
二条城・釣鐘

「二条城本丸御殿(国重文4棟)」
 現在の本丸御殿は、京都御所にあった旧桂宮邸の御殿を移築したものです。創建当時の本丸御殿は、現存する二の丸御殿にほぼ匹敵する規模で、狩野派の障壁画で飾られていましたが、天明8年(1788)の天明の大火で灰燼に帰しました。その後、本丸御殿は再建されず、幕末に15代将軍徳川慶喜の住居として建てられました。しかしこの御殿も明治14年(1881)に撤去されてしまいました。
本丸御殿
 現在の本丸御殿は、京都御苑今出川御門内にあった旧桂宮邸の御殿を、明治26年(1893)から明治27年(1894)にかけて本丸内に移築したものです。本丸御殿は玄関、御書院、御常御殿、台所及び雁之間が国の重要文化財に指定されています。
本丸御殿

二条城本丸御殿・玄関(国重文)
 本丸御殿の玄関は西面が27.3m、南面が13.8m、単層、入母屋造り、桟瓦葺き、御車寄は唐破風造り、銅板葺きです。玄関之間、取次詰所、取次之間、竹之間 二室、殿上之間、公卿之間、使者之間、御車寄などがあります。弘化4年(1847)に建てられた建物で、昭和19年(1944)に国の重要文化財に指定されています。
本丸御殿・玄関

二条城本丸御殿・御常御殿(国重文)
 本丸御殿の御常(おつね)御殿は京都御苑の今出川御門内にあった旧桂宮邸の御殿です。明治26年(1893)から翌年にかけて本丸内に移築されました。仁孝天皇の皇女和宮が14代将軍家茂に嫁がれる前、約1年8ヶ月間住まわれた建物で、嘉永7年(1854)の内裏の火災の時も延焼を免れ、孝明天皇の仮皇居に使用されました。
本丸御殿・御常御殿
 御常御殿は西面13.9m、南面31.7m、2重2階建てで、西面は入母屋造り、東面は寄棟造りです。2階は寄棟造り、桟瓦葺きになっています。松鶴之間、四季花草之間、雉子之間、萩之間などがあります。嘉永2年(1849)に建てられた建物で、昭和19年(1944)に国の重要文化財に指定されています。
本丸御殿・御常御殿

二条城本丸御殿・御書院(国重文)
 本丸御殿御書院は寛政2年(1790)から寛政5年(1793)にかけて建てられています。南面18.6m、東面25.4m、単層、入母屋造り、桟瓦葺きです。御書院は一之間、二之間、三之間、四季之間(春之間、夏之間、秋之間、冬之間)などがあります。昭和19年(1944)に国の重要文化財に指定されています。
本丸御殿・御書院

本丸天守閣跡(天守台)
 天守台には石垣だけが残されています。慶長11年(1606)、伏見城から移築した5層の天守閣が完成し、慶長19年(1614)の大坂の陣では徳川方の本営となりました。寛延3年(1750)の落雷で天守が焼け落ちてしまいました。3代徳川家光以降、14代家茂まで上洛する将軍がいなかったため、天守は再建されませんでした。
本丸天守閣跡



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