あなたは 番目の訪問者です。(ogino作成共通カウント)
直線上に配置
京都の旅と歴史
京都の旅    京都市左京区

金地院
こんちいん
京都府京都市左京区南禅寺福地町86−12
Tel 075-771-3511


 南禅寺の塔頭である金地院は臨済宗南禅寺派のお寺です。元は南禅寺68世大業徳基(だいごうとくき)和尚が、室町幕府4代将軍足利義持の帰依を受け、応永年間(1394-1428)に北山の鷹ヶ峰に創建しました。 金地院の3世となったのは以心崇伝(いしんすうでん)和尚です。
 崇伝は足利氏の家臣・一色秀勝の第二子でした。織田信長により足利義昭が将軍職を追放されたため、南禅寺に引き取られ、玄圃霊三の弟子となり建長寺や南禅寺の住職になり、臨済宗の最高位についた人です。
 崇伝は、慶長10年(1605)、金地院を南禅寺の三門の南西に位置する現在地に移し、復興させました。慶長13年(1608)、崇伝は徳川家康の信任を得て駿府に赴き、外交事務の担当をするようになります。秀忠、家光にも使え、天海僧正とともに江戸幕府の基礎を確立し、黒衣の宰相ともいわれました。
 崇伝は家康没後の元和5年(1619)に「天下僧録司」に任ぜられました。京都、鎌倉五山を頂点とする臨済宗寺院の住職の任命や統制を任されたのです。これ以降、金地院の歴代の住職は明治維新に至るまで僧録司の地位を継承しました。
 崇伝は寛永3年(1626)、後水尾天皇より「円照本光国師」を賜わり、翌年、金地院の大改築に着手し、現在の寺観を整えました。寛永5年(1628)には、家康の遺髪と念持仏を祀って東照宮も造営しました。幕府から、寺領1900石、10万石の大名の待遇を与えら「寺大名」ともいわれました。
 崇伝は慶長19年(1614)の大坂の陣の発端にもなった方広寺の鐘銘事件にも関与しています。刻まれている「国家安康」「君臣豊楽」は、「家康の名を引き裂き」、「豊臣を主君として楽しむ」ととれると換言しました。その結果、豊臣家は滅亡しました。
 家康の遺言で建てられた東照宮は国の重要文化財です。金地院の方丈(本堂)は、伏見城の遺構と伝えられ、方丈裏の茶屋・八窓席は小堀遠州の作で、ともに国の重要文化財です。方丈の前に広がる庭園も小堀遠州によって作庭されたもので国の特別名勝に指定されています。


 東照宮(国重文)
 東照宮は徳川家康の遺言で建てられ、家康の遺髪と念持仏を祀っています。「南禅寺中金地院へ小堂をいとなみ、所司代はじめ武家の輩進拝せしむべし」との遺言で寛永5年(1628)に造営されました。元禄6年(1693)には幕府により1千両をかけて社殿修復と御門廊下が造られたそうです。
東照宮
 東照宮は本殿と拝殿を石の間でつなぐ、京都で唯一の権現造りの建物です。本殿は間口3間、奥行2間、単層、入母屋造り、檜皮葺き、石の間は間口3間、奥行1間、単層、両下造り、本瓦葺き、拝殿は間口3間、奥行2間、単層、本瓦葺きで、正面に千鳥破風と軒唐破風が付いています。
東照宮
 拝殿は総漆塗り、石の間と本殿は柱や梁を丹で、壁や扉は白、黄、緑などの極彩色で塗られています。拝殿の天井の鳴龍は狩野探幽の筆で、欄間には土佐光起画、青蓮院宮尊純法親王の書になる「三十六歌仙」額が掲げられています。金地院の東照宮は昭和31年(1956)に国の重要文化財にも指定されています。
東照宮

金地院方丈(国重文)
 金地院の方丈(本堂)は、崇伝が伏見桃山城の一部を徳川家光より賜わり移建したといわれています。禅院方丈にみられる典型的な六間取りで、前列中央が「室中」、その奥が本尊地蔵菩薩像を安置する「仏間」になっています。西側は奥が「富貴の間」(衣鉢の間)、その手前が「次の間」(檀那の間)、東側は手前が「鶴の間」(礼の間)、奥が「菊の間」(書院の間)となっています。
金地院方丈
 「富貴の間」は奥に床高を一段高めた上段があり、床(とこ)、棚、付書院を設け、天井を格天井とする格式の高い部屋です。方丈は間口11間26.3m、奥行7間19.6m、単層、入母屋造り、こけら葺きの大きな建物です。正面には山岡鉄舟の筆による「布金道場」が掲げられています。方丈は本堂として明治33年(1900)に国の重要文化財に指定されています。
金地院方丈

金地院庭園(国特別名勝)
 金地院の庭園は鶴亀の庭園といわれ、国の特別名勝に指定されています。崇伝が徳川家光が上洛した時のために小堀遠州に作庭させた庭です。方丈の前に広がる庭園は、一面に白砂を敷いて大海を表し、奥の右に鶴島、左に亀島と呼ばれる石組みが組まれています。正面には巨大な平面石があり、東照宮への遙拝石といわれています。
金地院庭園

明智門
 金地院には「明智門」と呼ばれ唐門があります。金地院にあった唐門(国重文)が豊国神社に移築されたため、大徳寺から明治元年(1868)に移築された門です。「明智門」は桃山時代の唐門で、天正10年(1582)、明智光秀(1529-1582)が本能寺の変の後、母の菩提のために黄金千枚を寄進して大徳寺に建立したものでした。
明智門

金地院開山堂
 開山堂は「黒衣の宰相」と言われた以心崇伝の塔所です。小さく「開山堂」と書かれた木札がありますが、後水尾天皇の筆によるものです。堂内の左右両脇に十六羅漢像が安置されています。
金地院開山堂



京都市内のページへ

京都府トップページへ  旅と歴史トップページへ


直線上に配置

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送