あなたは 番目の訪問者です。(ogino作成共通カウント)
直線上に配置
京都の旅と歴史
京都の旅    京都市左京区

金戒光明寺
こんかいこうみょうじ
京都府京都市左京区黒谷町121
Tel 075-771-2204


 紫雲山金戒光明寺は、「黒谷(くろだに)さん」と呼ばれ、知恩院、知恩寺、清浄華院(しょうじょうけいん)とともに浄土宗四ヶ本山の1つです。承安5年(1175)、法然上人が浄土宗の確立のため、比叡山西塔の黒谷にならって、ここに草庵を結んだのがこの寺の始まりであるとされています。
 以後、浄土宗の念仏道場として栄え、仏殿や御影堂などの伽藍が建立されました。7世の運空(うんくう)の時、後光厳天皇に円頓戒を授けて金戒の2字を賜り、金戒光明寺と称するようになりました。正長元年(1428)には後小松天皇より「浄土真宗最初門」の勅額を賜りました。
 その後、応仁元年(1467)の東岩倉の合戦によって焼失し荒廃しました。永正年間(1504-1521)に17世の理聖が堂宇の再興勧進を行い、慶長10年(1605)に豊臣秀頼が阿弥陀堂を再建し、慶長18年(1613)に前年に焼失した御影堂を再建しました。
 文久2年(1862)、会津藩主松平容保が京都守護職の本陣となり、駐屯しました。境内には鳥羽・伏見の戦いで戦死した会津藩殉難者墓地があります。約25万平方mの広い境内には、寛永10年(1633)に建てられた国重文の三重塔をはじめ、御影堂、大方丈、庫裏、阿弥陀堂、吉備観音、山門、鐘楼、経蔵、塔頭など大寺院の寺観を整えています。


金戒光明寺三重塔(国重文)
 金戒光明寺の三重塔は境内の東側の石段の頂上に建てられています。この塔は、寛永11年(1634)、伊丹重好(豊永宗如堅斉)が以前に仕えていた2代将軍徳川秀忠の菩提を弔うために建立されました。文殊菩薩を本尊としているため、文殊塔とも呼ばれています。
金戒光明寺三重塔
 三重塔は本瓦葺きの三間三層の塔婆で、高さは22mあります。塔の内部には文殊菩薩が祀られていましたが、平成20年(2008)に御影堂左脇檀に遷座されています。この文殊菩薩は、運慶作と伝えられ、善財童子・優填王・最勝老人・仏陀波利三蔵を従えた渡海文殊形式で日本三文殊の一つといわれています。現在は本尊として文殊菩薩のご分身(浄鏡)を祀っています。三重塔は昭和52年(1977)に国の重要文化財に指定されています。
金戒光明寺三重塔

金戒光明寺山門
 金戒光明寺の山門は間口14.7m、奥行8.4m、入母屋造り、本瓦葺きの二重門で、万延元年(1860)に再建された建物です。正面に後小松天皇宸翰「浄土真宗最初門」の勅額がかけられています。
金戒光明寺山門

金戒光明寺御影堂(大殿)
 金戒光明寺の御影堂は間口7間、奥行7間、単層、入母屋造り、本瓦葺きの堂々とした建物で、正面に3間向拝を付けています。昭和19年(1944)に再建された建物で、和様が基調の軸部に、尾垂木(おだるき)が付き、二手先組物をあげ、洗練された細部を持っています。御影堂は大殿とも呼ばれ、平成27年(2015)に登録有形文化財に指定されています。
金戒光明寺御影堂

金戒光明寺阿弥陀堂
 金戒光明寺の阿弥陀堂は慶長10年(1605)に豊臣秀頼によって再建されたとされる寺内では一番古いお堂です。本尊は、恵心僧都源信の最後の作と伝えられている阿弥陀像が祀られています。源信が仏像彫刻に必要な「のみ」をお納めになって仏像彫刻を止められたというので「のみおさめの如来」、又は「お止めの如来」ともいわれています。
金戒光明寺阿弥陀堂

金戒光明寺大方丈
 金戒光明寺の大方丈は昭和19年(1944)に再建された建物です。間口13間、奥行11間、入母屋造り、桟瓦葺で、松平容保が駐屯した場所とされ、内部には謁見の間が再現されています。唐破風造り、銅板葺きの車寄を持つ玄関とともに、平成27年(2015)に登録有形文化財に指定されています。
金戒光明寺大方丈

金戒光明寺納骨堂(経蔵)
 金戒光明寺の納骨堂は、称悦法師が元禄2年(1689)に経蔵として建立されました。黄檗版一切経2087冊が納められていましたが、現在は観音堂(収蔵庫)に移設保管されています。平成23年(2011)の法然上人八百年遠忌の記念事業で大修理が行われ納骨堂として使用されるようになりました。本尊は納骨された骨で造立された阿弥陀如来像「骨仏」です。
金戒光明寺納骨堂

極楽橋
 金戒光明寺の蓮池には極楽橋が架けられています。源平の一ノ谷の合戦で平敦盛を討ち取った熊谷次郎直実は無常観を感じ、ここ黒谷の法然上人を尋ね、、建久4年(1193)、出家を決意しました。兜を置いて弓の弦を切り、その弓を池に架けた形から、極楽橋が架けられている蓮池は「兜之池」とも呼ばれています。
極楽橋

鎧かけの松
 御影堂の東側に「鎧(よろい)かけの松」があります。熊谷次郎直実は、法然上人の弟子となり、この寺で出家しました。方丈裏の池(鎧池)で鎧を洗い、この松の木に鎧を掛けたと伝えられています。平成25年(2013)に2代目の古樹は枯れ、現在は3代目の松です。
鎧かけの松

祟源院供養塔
 3代将軍徳川家光の乳母であった春日局が建てた2代将軍徳川秀忠の正室「お江」・祟源院の供養塔が残されています。家光の擁立に奔走した春日局と、次男・忠長を溺愛したお江との熾烈な跡継ぎ争いで、25歳の忠長は自害させられました。供養塔にはお江の遺髪が納められています。春日局の追善の気持ちが込められ、隣には忠長の供養塔も立てられています。
祟源院供養塔



京都市内のページへ

京都府トップページへ  旅と歴史トップページへ


直線上に配置

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送