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京都の旅と歴史
京都の旅    京都市左京区

南禅寺
なんぜんじ
京都府京都市左京区南禅寺福地町86
Tel 075-771-0365


 南禅寺は臨済宗南禅寺派の大本山で、正式には瑞龍山太平興国南禅禅寺(たいへいこうこくなんぜんぜんじ)という長い寺名です。この場所は三井寺の「駒の僧正」とよばれた道智の最勝光院があったとされる所です。亀山天皇がここを離宮としましたが道智の怨霊が日夜出没したそうです。
 祈祷師などにお払いをしてもらっても効き目がなく、東福寺3世の無関普門(むかんふもん)(大明国師)を招いたところ、霊が出なくなったそうです。亀山天皇は無関に深く帰依し、正応4年(1291)に離宮を禅寺に改め禅林禅寺とし、無関を開山として招きました。
 亀山法皇は建長元年(1249)、後嵯峨上皇の皇子として生まれ、10歳で皇位に就かれ、上皇の時には蒙古来襲という国難に対処しています。無関の跡を継いだ規庵祖円(きあんそえん)(南院国師)は仏殿、七堂伽藍を完成し、正安年間(1299-1302)に太平興国南禅禅寺と寺名を改めました。
 3世の一山一寧(妙慈弘済大師)は元弘の後に元朝より平和交渉の使僧として来日した人です。北条貞時によりスパイ容疑で修善寺に幽閉されましたが、のちに建長寺の10世となり、後宇多天皇の懇願で南禅寺3世になりました。南禅寺は至徳3年(1386)に五山(天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺)の上のお寺とされました。
 南禅寺はその後も著名の禅僧が歴代住持として住山して五山文学の中心地として栄えました。明徳4年(1393)、文安4年(1447)に火災に遭い、伽藍が焼失し、再建後の応仁元年(1467)、応仁の乱で灰燼に帰しました。266世の玄甫霊三の時に法堂が完成し秀吉より800石を賜りました。
 270世で、金地院3世の以心崇伝(いしんすうでん)は徳川家康の信任を得て、幕府の外交事務の担当し、黒衣の宰相ともいわれました。 元和5年(1619)には相国寺にかわり「天下僧録司」に任ぜられました。慶長10年(1605)に崇伝が入寺してから諸堂が整備され、繁栄しました。


南禅寺境内(国史跡)
 南禅寺の境内は平成17年(2005)に国の史跡に指定されました。三門、勅使門は国の重要文化財に指定され、方丈庭園は国の名勝に指定されています。また順正南禅寺本店(順正書院)書院、石門は国登録有形文化財です。国重要文化財の南禅寺一切経、南禅寺仏殿指図(三図)などの寺宝も所蔵されています。
南禅寺境内

南禅寺三門(国重文)
 南禅寺の三門は知恩院三門、東本願寺大師堂門とともに日本三大門の一つとされています。仏道修行の悟りを示す「空門」「無相門」「無作門」の3つの門を表して三門と呼ばれています。現在のものは寛永5年(1628)、藤堂高虎が大阪夏の陣で戦死した藩士の霊を弔うため寄進し再建したものです。
南禅寺三門
 南禅寺の三門は5間3戸2階建て、入母屋造り、本瓦葺きの2重門です。両側に間口3間、奥行2間、単層、切妻造り、本瓦葺きの山廊が置かれています。三門は高さが22mもあり、禅寺特有の重厚な造りと太い柱が威容を誇っています。三門は天下竜門とも呼ばれ、上層の楼は五鳳楼とも呼ばれています。
南禅寺三門
  この三門は明治32年(1899)に国の重要文化財に指定されています。

 元治元年(1864)、新選組は肥後の宮部鼎蔵の下僕・忠蔵をこの付近で捕縛しました。尋問に一切答えなかった忠蔵は、三門の楼上に晒しものにされたそうです。
南禅寺三門
 日本史上屈指の義賊「石川五右衛門」が連想されます。元禄時代の歌舞伎の台本の中で、戯作者が山門に五右衛門を登楼させ「絶景かな絶景かな」の名せりふをはかせたことで有名になりました。ただ五右衛門は三門の再建される30年も前に磔になっているそうです。三門の向こうの山の緑がとても美しい場所です。生い茂る松、背後に続く山々。自然の偉大さが垣間見えます。
南禅寺三門

南禅寺中門
 南禅寺道の突き当たりにある門が南禅寺の中門です。門札に「大本山南禅寺」の立派な文字が書かれています。勅使門の南にある中門は、慶長6年(1601)、松井康之より、伏見城松井邸の門を勅使門として寄進されたものです。「日の御門」の拝領に伴い現地に移建され、幕末までは脇門と呼ばれていました。
南禅寺中門

南禅寺勅使門(国重文)
 南禅寺の勅使門は、寛永18年(1641)、明正天皇より、御所にあった「日の御門」を拝領したものです。古くは天皇や勅使の来山の折に限って開かれました。現代では住持の晋山に限って開かれています。この勅使門は桃山時代の慶長年間(1596-1614)に建立された切妻造り、檜皮葺きの四脚門です。昭和31年(1956)に国の重要文化財に指定されています。
南禅寺勅使門

南禅寺方丈(国宝)
 南禅寺の方丈は大方丈とその背後に接続している小方丈があります。昭和28年(1953)にそれぞれ国宝に指定されています。大方丈は天正年間(1573-1592)に豊臣秀吉が献上した御所の清涼殿を、慶長年間の御所新築計画に伴って下賜を受け移築した建物で、小方丈は伏見城の書院を移築したものといわれています。
南禅寺方丈
 大方丈は入母屋造り、単層、こけら葺きの建物です。中央北に内陣、その南に御昼の間、東に鳴滝の間と麝香(じゃこう)の間、西に鶴の間と西の間があります。南側前面板張りの広縁があり、東側に柳の間、西側に狭屋(さや)の間があります。御昼の間は清涼殿時代に昼の御座であった御帳の間の別称を残していて、広縁の欄間彫刻、天井、板扉の形式とともに近世宮室建築の姿を伝えています。
南禅寺方丈
 大方丈の背後に接続した小方丈は寛永年間(1624-1644)に建てられた建物です。虎の間、3室(9畳、6畳、20畳)、広縁があり、屋根は切妻造り、こけら葺きです。襖絵の「水呑の虎」は狩野探幽の傑作といわれています。
 南禅寺方丈は昭和28年(1953)に国宝に指定されています。
南禅寺方丈

南禅寺方丈庭園(国名勝)
 南禅寺の方丈庭園は小堀遠州の作庭と伝えられ、江戸時代初期の代表的枯山水庭園です。砂と石と松で構成され、巨大な石を横に寝かして配置する石組みの配置から「虎の子渡しの庭」と呼ばれています。小方丈庭園は心字形に庭石を配置していることから「如心庭」といわれます。南禅寺方丈庭園は昭和26年(1951)に国の名勝に指定されています。
南禅寺方丈庭園

南禅寺法堂
  南禅寺の法堂は三門の奧にあります。法式行事や公式の法要が行われる場所で、南禅寺の中心となる建物です。応仁、文明に焼失、慶長11年(1606)に豊臣秀頼の寄進により大改築されましたが、明治26年(1893)の火災により焼失しました。現在の法堂は明治42年(1909)に再建された建物です。平成2年(1990)、開山大明国師700年大遠忌記念行事で、屋根茸替え、敷瓦取替工事を実施しています。
南禅寺法堂


南禅寺
水路閣
 「京都迷宮案内」などにも登場した「水路閣」です。水路閣は、琵琶湖疎水事業の一環として、施工された水路橋で、延長93.17m、幅4.06m、水路幅2.42m、煉瓦造、アーチ構造の優れたデザインを持ち、京都を代表する景観の一つとなっています。
 京都府知事北垣国道の発意により、田辺朔郎工学博士を工事担当者として、明治18年(1885)起工され、同23年(1890)に竣工しました。西欧技術が導入されて間もない当時、日本人のみの手で設計、施工されたもので、土木技術史上、極めて貴重なものです。昭和58年(1983)京都市の史跡に指定されました。


南禅寺
金地院
こんちいん
 南禅寺の塔頭である金地院は臨済宗南禅寺派のお寺です。元は南禅寺68世大業徳基(だいごうとくき)和尚が、室町幕府4代将軍足利義持の帰依を受け、応永年間(1394-1428)に北山の鷹ヶ峰に創建しました。 金地院の3世となったのは以心崇伝(いしんすうでん)和尚です。
 崇伝は足利氏の家臣・一色秀勝の第二子でした。織田信長により足利義昭が将軍職を追放されたため、南禅寺に引き取られ、玄圃霊三の弟子となり建長寺や南禅寺の住職になり、臨済宗の最高位についた人です。
 崇伝は、慶長10年(1605)、金地院を南禅寺の三門の南西に位置する現在地に移し、復興させました。慶長13年(1608)、崇伝は徳川家康の信任を得て駿府に赴き、外交事務の担当をするようになります。秀忠、家光にも使え、天海僧正とともに江戸幕府の基礎を確立し、黒衣の宰相ともいわれました。
 崇伝は家康没後の元和5年(1619)に「天下僧録司」に任ぜられました。京都、鎌倉五山を頂点とする臨済宗寺院の住職の任命や統制を任されたのです。これ以降、金地院の歴代の住職は明治維新に至るまで僧録司の地位を継承しました。
 崇伝は寛永3年(1626)、後水尾天皇より「円照本光国師」を賜わり、翌年、金地院の大改築に着手し、現在の寺観を整えました。寛永5年(1628)には、家康の遺髪と念持仏を祀って東照宮も造営しました。幕府から、寺領1900石、10万石の大名の待遇を与えら「寺大名」ともいわれました。
 崇伝は慶長19年(1614)の大坂の陣の発端にもなった方広寺の鐘銘事件にも関与しています。刻まれている「国家安康」「君臣豊楽」は、「家康の名を引き裂き」、「豊臣を主君として楽しむ」ととれると換言しました。その結果、豊臣家は滅亡しました。
 家康の遺言で建てられた東照宮は国の重要文化財です。金地院の方丈(本堂)は、伏見城の遺構と伝えられ、方丈裏の茶屋・八窓席は小堀遠州の作で、ともに国の重要文化財です。方丈の前に広がる庭園も小堀遠州によって作庭されたもので国の特別名勝に指定されています。


南禅寺
真乗院
 真乗院には応仁の乱で西軍の総大将だった山名宗全のお墓があります。山名持豊(宗全)は嘉吉の乱では、播磨の白旗城に籠城した赤松満祐を滅ぼし、備前、美作を与えられました。その後、山名氏の領国は9ヶ国におよび、管領の細川氏を凌ぐほどになったのです。
 宝徳2年(1450)入道になり宗全と号しました。赤松家の処遇をめぐって将軍足利義政と対立。享徳3年(1454)子・教豊に家督を譲ってのちに、備前で赤松則尚を滅ぼしました。
 長禄2年(1458)に幕政に復帰してからは、細川勝元と対立。畠山政長を管領職から追い、畠山義就を就けたため、応仁の乱が勃発し、何年にもわたって両雄は争いを止めることなく、京にある寺社はことごとく灰燼に帰しました。



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