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京都の旅と歴史
京都の旅    京都市左京区

修学院離宮
しゅうがくいんりきゅう
京都府京都市左京区修学院薮添


 修学院離宮は曼殊院の北、比叡山の南西の麓にある皇室関連の施設です。この地は僧・勝算(しょうさん)が建てた修学院のあった所で、中世に荒廃して村名だけが残されていました。
 後水尾(ごみずのお)天皇の女御であった東福門院は徳川2代将軍秀忠の娘でした。離宮は譲位した後水尾上皇を慰めるために、明暦元年(1655)から万治2年(1659)頃にかけ徳川幕府が造成寄進したものです。
 造営にあたっては上皇がいっさいを指示したといわれています。当初は修学院山荘とか御茶屋と呼ばれたそうです。総面積約54万5千平方mと広大な敷地があり、土地の高低にしたがって、上離宮、中離宮、下離宮に分かれ、いずれも凝った趣向の茶亭などが建てられています。
 中離宮の付近の場所には、後水尾上皇の第8皇女であった光子(てるこ)内親王のために寛文8年(1668)に造営された朱宮(あけのみや)御所がありました。それ以前は後水尾上皇の第1皇女であった梅宮が出家した円照寺という尼寺でした。
 そして朱宮御所は上皇の死後は、林丘寺(りんきゅうじ)という寺に改められました。明治18年(1885)に林丘寺の境内の約半分が宮内省に返還され、楽只軒(らくしけん)と客殿などが修学院離宮の一部となったのです。


修学院離宮総門
 修学院離宮の総門は白木の丸太の門柱に竹の門扉を取り付けただけの簡素な門です。扉と袖垣は割った竹を貼った「木賊(とくさ)貼り」という装飾がなされています。
修学院離宮総門

修学院離宮・下離宮・御幸門
 修学院離宮の御幸門は下離宮の入口です。切妻造り、こけら葺きの簡素な門で、花菱紋の透彫りが特徴的で、石段の上に西向きに建っています。その名の通り、行幸の際に用いられた門です。後水尾上皇が造営した時にはもっと手前にあったそうですが、霊元上皇の時に現在の位置に移されたそうです。
御幸門

修学院離宮・下離宮庭園
 御幸門の右手奥に中門があり、門の左にはシナノキが植えられています。修学院十境の一つであった菩提樹を偲んでいます。下離宮の庭園には袖形燈籠、朝鮮燈籠、があります。
 中島に架かる石橋を越えた右手に袖形燈籠があります。ワニが口をあけているように見えるので,鰐口(わにぐち)とも呼ばれる珍しい形をした燈籠です。上部の蛭釘に釣燈籠を下げて足元を照らしたそうです。
下離宮庭園

修学院離宮・下離宮・寿月観
 寿月観は後水尾上皇が行幸された時の御座所でした。現在の建物は数寄屋造り、こけら葺きで、文政7年(1824)に光格上皇の行幸に備えて再建されたものです。寿月観の一の間は15畳で、3畳が上段の間になっています。1間半の床と、琵琶が置かれた琵琶床、飾り棚があり、棚の戸袋には鶴の絵、下の地袋には岩と蘭の絵が描かれています。原在中(はらざいちゅう)の筆によるものです。
寿月観

 西側の二の間との境には岸駒(がんく)筆の「虎渓三笑(こけいさんしょう)」の4枚の襖絵があります。二の間は12畳で、正面には杉戸があります。光格上皇のお好みで、仙洞御所から移したと伝えられています。その南に6畳の三の間が設けられ、従者の控えの間として使われました。一の間南側軒下の「寿月観」の扁額は後水尾上皇の御宸筆です。
寿月観

修学院離宮・御馬車道
 寿月観から東門を抜けると御馬車道(おばしゃみち)に出ます。下離宮の東側には、中離宮や上離宮に向けて松並木の御馬車道があり、背後に棚田や御茶屋山が広がる雄大な眺望となっています。明治になって中離宮が併合された時、馬車での通行を考慮し、拡幅整備され、赤松が植樹されたそうです。
御馬車道

修学院離宮・中離宮表門
 下離宮の東側の御馬車道は二手に別れ、南に行くと中離宮です。ここには後水尾上皇の第1皇女「梅宮」が出家した円照寺という尼寺がありました。その後、上皇の第8皇女「光子(てるこ)内親王」が造営した朱宮(あけのみや)御所になりました。上皇の死後、林丘寺という寺になり、明治に修学院離宮の一部となりました表門は木賊貼りとなっていて、国賓公賓などの要人の方が訪れたときに開かれるそうです。
中離宮表門

修学院離宮・中離宮中門
 中離宮の表門から石段を上ると古めかしい中離宮の中門があります。こけら葺きの庇に襷掛けの扉を付けています。木賊張りの袖塀が左右に連なっています。脇の通用門らか中へ入ると、木々の間に楽只軒や客殿が見えます。
中離宮中門

修学院離宮・中離宮・楽只軒
 楽只軒(らくしけん)は光子内親王のための最初の建物でした。その後、内親王の山荘は林丘寺(りんきゅうじ)となりました。楽只軒の扁額は後水尾上皇の御宸筆で、額縁は三種の竹に七宝の竹葉が付けられています。扁額の年紀銘から寛文8年(1668)か、その前年に建てられたようです。「詩経」の「楽只君子万寿無期」から後水尾上皇が名づけられたそうです。
楽只軒
 楽只軒は単層、本瓦葺き、正方形の建物で、南面と東面に板縁を設けています。手前にある一の間と、その奥に二の間があります。一の間は6畳で北側に床を設け、襖絵は吉野山桜図が描かれています。二の間は8畳で、竜田川紅葉図が描かれています。これらの襖絵は狩野探幽の子の探信が筆を執っています。
楽只軒

修学院離宮・中離宮・客殿
 中離宮の客殿は延宝6年(1678)に東福門院(東福門院は後水尾天皇の女御で徳川2代将軍秀忠の娘です)が亡くなった後に、光子内親王のために女院(にょいん)御所の奥後対面所を林丘寺に移築したものです。客殿は書院造りで、延宝5年(1677)に建てられています。
中離宮客殿
 客殿は入母屋造り、木賊葺きの庇の深い屋根があり、板戸を建て、濡縁をを廻しています。その欄干の一部分には、乱菱状の格子が設けられ、「網干(あぼし)の欄干」といわれます。漁村で網を干した形に似ていることから名づけられたそうです。
中離宮客殿
 客殿は西側の南に「一の間」、その東に「二の間」、その北に「三の間」があります。一の間の北には仏間もあります。一の間は12畳半で豪華な造りです。ここの1間半の飾り棚は霞棚(かすみだな)と呼ばれ、桂離宮の桂棚、醍醐寺三宝院の醍醐棚とともに「天下三棚」の一つに数えられています。互い違いの欅板が霞がたなびいているように見えることから名づけられたそうです。
中離宮客殿
 地袋の戸の引手が羽子板になっていたり、床の壁や襖は、腰張が群青と金の菱形模様という斬新な意匠です。棚の壁面には後水尾上皇の勅命により詠まれた、修学院八景を詠み込んだ漢詩と和歌の色紙が貼り付けてあります。金具などには三つ葉葵の紋が入っていて、東福門院が徳川家から嫁いだことを物語っています。
中離宮客殿
 二の間は10畳で、狩野永敬の四季絵があり、南側の畳縁の杉戸には鯉と鮒、大鯉を描かれています。魚たちが夜な夜な絵から抜け出して庭の池で泳ぐため、漁網を描き加えたといわれます。楽只軒に通じる階段との境の杉戸には、狩野敦信が描いたといわれる祇園祭の放下鉾と岩戸山の絵が描かれています。
中離宮客殿

修学院離宮・上離宮・大刈込み
 上離宮に上る御馬車道から左手前方に大刈込みが見えます。上離宮には、浴龍池という大きな池が築かれていて、その土堤や石垣を隠すために数十種類の常緑樹を混植し、広大に刈り込んだ大刈込みで覆っているのです。
上離宮・大刈込

修学院離宮・上離宮・御幸門
 中離宮から下離宮近くまで戻り、二手に別れていた御馬車道を東に行くと上離宮に着きます。上離宮の御幸門は袖垣が木賊貼り、こけら葺きの簡素な門です。花菱の透彫りがここにも設けられています。脇の潜り戸から上離宮に入ると大刈込みで下からは木しか見えない階段があります。登りきると、視界が開け隣雲亭があります。
上離宮・御幸門

修学院離宮・上離宮・隣雲亭
 上離宮には隣雲亭(りんうんてい)と窮邃亭(きゅうすいてい)が建てられています。止々斎という建物もあったそうですが、宝永6年(1709)に仙洞御所に移されました(天明の大火(1788年)で焼失しています)。
 隣雲亭は標高150mと、修学院離宮で最も高い位置にある茶室です。眼下には浴龍池が展開し洛北の山々が見渡せます。
隣雲亭
 当初の建物は延宝5年(1677)に焼失し、現存の建物は文政7年(1824)に再建されたものです。景色を堪能する所であったので簡素な造りで、床、棚などの座敷飾りはなく、装飾は欄間の花菱文と釘隠にみられる程度です。主室の「一の間」は6畳、その南に3畳の「二の間」があり、一の間の北は「洗詩台」という2坪の板間があります。
隣雲亭
 隣雲亭の深い軒下の三和土(たたき)には、漆喰に鞍馬の赤石と賀茂川の真黒石が埋め込まれています。埋め込み方が、一粒、二粒、三粒の三通りになっているので、「一二三石(ひふみいし)」と呼ばれています。
隣雲亭

修学院離宮・上離宮・雄滝
 隣雲亭の横から、北にある窮遠亭に向かって降りて行きます。途中には滝見燈籠があり、雄滝の滝の音が響いてきます。音羽川の水を引いている修学院離宮の雄滝は落差6mで、水量も豊かです。後水尾上皇は滝を好まれ、仙洞御所と同じように、雄滝と雌滝が造られています。
雄滝

修学院離宮・上離宮・窮遠亭
 上離宮にある中島の頂上に窮遠亭(きゅうすいてい)が建てられています。後水尾院によって造営された建物の中で唯一、創建当初からある建物です。宝形造り、こけら葺き、三間四方の茶室で、屋根の上に瓦製の露盤を置き、その上に切子頭の宝珠を乗せています。南側と東側には縁があり、土間庇をめぐらしています。
窮遠亭
 窮邃亭は18畳と東隅に板間の水屋1間だけです。一隅に直角に折れて畳1枚高くした上段を設け、上段西側いっぱいに低く1枚板を渡して御肘寄(おひじよせ)としています。簡素な造りですが、窓越しに浴龍池の風景が眺められます。南側上がり口の軒下に掲げられた「窮邃」と書かれた扁額は後水尾上皇の御宸筆で、八角の板2枚を使った凝った作りになっています。
窮遠亭

修学院離宮・上離宮・千歳橋
 浴龍池の中島・万松塢(ばんしょうう)と窮遠亭のある中島の間に千歳橋(ちとせばし)と呼ばれる石橋が架けられています。文政7年(1824)の修学院離宮の改修した時に、京都所司代であった内藤信敦が橋台を寄進しました。文政10年(1827)には水野忠邦が上の屋形を寄進したものです。
千歳橋
 切石積みの橋台に一枚石の橋板を渡し、東には宝形造り、西には寄棟造りの四阿(あずまや)風な建物を架けています。宝形造りの屋根の頂部には金銅の鳳凰が立っています。中国的な感じで少し違和感がありますがアンバランスの美しさも覗いています。
千歳橋

修学院離宮・上離宮・浴龍池
 上離宮にある浴龍池(よくりゅうち)は大きな人工の池です。窮邃亭のある中島の他に、三保ヶ島、万松塢(ばんしょうう)という島があります。中島には楓橋、土橋が架かり、中島と万松塢の間には千歳橋が架かっています。浴龍池は御舟遊びの場であり、島々を廻りながら管弦や詩歌の会を催す社交の場でもありました。
浴龍池



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