あなたは 番目の訪問者です。(ogino作成共通カウント)
直線上に配置
京都の旅と歴史
京都の旅    京都市右京区

高山寺
こうざんじ(こうさんじ)
京都府京都市右京区梅ケ畑栂尾町8
Tel 075-861-4204


 栂尾山(とがのをさん)高山寺は真言宗のお寺です。鳥獣人物戯画をはじめ、絵画、典籍、文書など、多くの文化財を所蔵する寺として知られています。寺伝によれば宝亀5年(774)、光仁天皇の勅願によって華厳宗「神願寺都賀尾(とがを)坊」の名で開創されたそうです。
 平安時代には、神護寺の別院とされ、神護寺十無尽院(じゅうむじんいん)と称されたそうです。建永元年(1206)に後鳥羽上皇の院宣によって、明恵(みょうえ)上人が華厳宗復興の道場として再興し、寺名を高山寺と改めたと伝えられています。
  応仁・文明の乱(1467-1477)では、山名宗全に占拠され、天文16年(1547)には細川晴元の兵火により、金堂など大半の伽藍が焼失しました。江戸時代の寛永11年(1634)に、永弁、秀融により再興され、仁和寺などから建物が移築され、金堂などが再建されました。
 享保2年(1717)には火災により御廟、開山堂、護摩殿、禅堂院などが焼失しました。その後、開山堂と御廟は再建されています。明治に入り、神仏習合が破棄され、境内地を除く寺領・寺有地が没収されました。政府により華厳宗は廃止され真言宗に改宗されました。
 高山寺は日本最古の茶園がある寺としても知られています。臨済宗の開祖・栄西は、南宋より茶の種と茶を抹茶にして飲むやりかたを持ち帰りました。明恵上人はその茶の種を受け取り、高山寺の境内に植えました。この栂尾の茶は本茶といわれ毎年宮中や将軍家へ献上したそうです。
 高山寺の境内は昭和41年(1966)国の史跡に指定され、境内にある石水院は鎌倉初期の寝殿造りの遺構として国宝に指定されています。また御廟近くの宝篋印塔と如法経塔は国の重要文化財に指定されています。平成6年(1994)には古都京都の文化財として、世界文化遺産にも登録されました。


高山寺石水院(国宝)
 高山寺の石水院(せきすいいん)は五所堂(ごしょどう)ともいわれています。明恵上人の住居跡と伝えられています。間口正面3間、背面4間、奥行3間、正面1間通り庇、単層、入母屋造り、妻入、庇葺きおろし、1間の向拝付きの、こけら葺きの建物です。鎌倉初期の寝殿造りの遺構として、昭和28年(1953)に国宝に指定されています。
高山寺石水院
 石水院は鎌倉前期の文治年間から文永年間の間(1185-1274)に建てられたと考えられています。当初は東経蔵として金堂の東にありました。安貞2年(1228)の洪水で、東経蔵の谷向いにあったもとの石水院が無くなりました。その後、東経蔵に春日・住吉明神を祀って、石水院としたそうです。明治22年(1889)に現在地に移築されました。
高山寺石水院
 蟇股や舟肘木(ふなひじき)、庇の縋破風(すがるはふ)などに鎌倉時代の様式を見ることができます。また、建物の外周に壁は少なく、蔀戸(しとみど)仕様で寝殿造りの特徴が伺えます。南面に掲げられている「日出先照高山寺」(日出でてまず高き山を照らす)の額は後鳥羽上皇の勅額です。また西面の「石水院」の額は富岡鉄斎の揮毫です。
高山寺石水院
 石水院にはガラスケースの中に有名な「鳥獣戯画」、正しくは「鳥獣人物戯画」の模本が展示されています。本物は東京国立博物館と京都国立博物館に委託してあるそうです。カエルやウサギなどが時代の世相を風刺しており、日本最古の漫画とも呼ばれています。
高山寺石水院

高山寺金堂(国重文)
 高山寺の金堂は仁和寺・真光院の古御堂を移築したもので、かつての本堂の位置に建てられています。承久元年(1219)に完成した本堂は、東西に阿弥陀堂、羅漢堂、経蔵、塔、鐘楼、鎮守に囲まれた5間4面の堂宇で、運慶の丈六盧舍那仏(るしゃなぶつ)などが置かれたそうです。しかし室町時代に焼失してしまいました。
高山寺金堂
 現在の金堂は間口3間、奥行3間、単層、入母屋造り、銅板葺きで、正面に1間の向拝があります。江戸時代の寛永年間(1624-1644)に移築再建された建物です。内部は3間2間が外陣、残りが内陣で外陣の天井は格天井です。蔀戸、引違舞良戸、板戸、四方縁付きです。金堂の前には国の重要文化財指定の立札がありました。
高山寺金堂

高山寺開山堂
 高山寺の開山堂は明恵上人が晩年を過ごし、入寂した禅堂院の跡地に建てられています。明恵上人坐像が安置され、御影堂信仰の対象となりました。室町時代に兵火により焼け落ち、今の堂宇は、江戸時代に再建されたものです。現在、法要はこの開山堂で営まれることが多いそうです。1月8日に明恵上人生誕会、1月19日に明恵上人命日忌法要などが行われるそうです。
高山寺開山堂

高山寺御廟
 高山寺の御廟は開山堂の上にあります。御廟は明恵上人の墓所で、覆屋の中には古い五輪塔が納められているそうです。まわりには宝篋印塔、如法経塔などの石塔が並び、歴代住持である土宜法龍、土宜覚了、小川義章、葉上照澄などの墓もあります。
高山寺御廟

高山寺宝篋印塔(国重文)
 高山寺の宝篋印塔(ほうきょういんとう)は開山堂近くにあります。高さ3.2mのこの石塔は、明恵上人に帰依した富小路盛兼が寄進したものといわれています。近くにある為因寺のものとよく似ており、高山寺型と呼ばれる形式で、わが国の宝篋印塔の中で最も古い様式のものです。
高山寺宝篋印塔
 宝篋印塔は鎌倉後期の建治から元徳年間(1275-1332)に造られたと思われます。相輪(そうりん)、笠、塔身、基礎の4つからなり、最上部の棒状の相輪は、頂上に宝珠(ほうじゅ)をのせ、その下に請花(うけばな)、九輪(くりん)、伏鉢(ふせばち)があります。九輪の上部を欠いていますが、昭和30年(1955)に国の重要文化財に指定されています。
高山寺宝篋印塔

高山寺如法経塔(国重文)
 高山寺の如法経塔(にょほうきょうとう)は重要文化財の宝篋印塔の隣に建てられています。宝篋印塔と同時代の鎌倉後期の建治から元徳年間(1275-1332)に造られたと思われます。高さ1.4mの石造一重塔で、昭和30年(1955)に国の重要文化財に指定されています。
高山寺如法経塔

阿留辺幾夜宇和の石碑
 墓域の入口に阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)と刻まれた石碑が建てられています。明恵の遺訓を記したもので、小川義章が筆をとっています。この7文字の言葉は、僧に対して説かれた言葉ですが、現にある規範規律を守り、その立場に応じて為すべき事を成せと一般の人々にも諭しています。
阿留辺幾夜宇和

高山寺仏足石
 境内には覆いの下に仏足石が置かれています。釈迦の足をかたどって礼拝の対象としたもので、千輻輪宝(せんぷくりんぽう)、金剛杵(こんごうしょ)、双魚紋(そうぎょもん)などの紋様があります。境内には「仏足石参道」と刻まれた石碑が2つもあり、信仰を集めていたことがわかります。
高山寺仏足石



京都市内のページへ

京都府トップページへ  旅と歴史トップページへ


直線上に配置

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送