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京都の旅と歴史
京都の旅    京都市右京区

妙心寺
みょうしんじ
京都府京都市右京区花園妙心寺町1
Tel 075-461-5226


 正法山妙心寺は臨済宗妙心寺派の総本山です。康永元年(1342)、花園天皇の離宮を禅寺に改めて創建されました。16万平方mの広大な寺域に、七堂伽藍を中心に46の塔頭寺院が立ち並んでいます。総門から一直線に山門、仏殿、法堂、寝殿、方丈、庫裏の大伽藍が並ぶ七堂伽藍です。
 開山は大徳寺の開山大燈(だいとう)国師の法嗣(ほうし)である関山慧玄(かんざんえげん)を招聘しました。開山無相大師ともいわれた慧玄は清楚闊達(かったつ)の名僧で形式的な読経や規則にとらわれず簡素なる禅風をうちたて人材の育成に努めました。
 五山の禅寺が詩文に重きをおいていましたが、五山十刹にも加えられなかった妙心寺は林下として、禅の正統を守り応燈関(大応図師・大燈国師・関山)の法系を維持しました。大師入定後も逸材傑僧を輩出しました。3世無因宗因のとき大いに繁栄しました。
 妙心寺6世の拙堂宗朴(せつどうそうぼく)は応永の乱を起こした大内義弘と関係が深かったため、応永6年(1399)、3代将軍足利義満は妙心寺の寺領を没収して青蓮院の義円(後の足利義教)に与え、拙堂宗朴は大内義弘に連座して青蓮院に幽閉の身とされました。
 義円は没収した寺領をさらに南禅寺の廷用宗器に与え、廷用は寺号を「龍雲寺」と改めました。こうして妙心寺は一時中絶したのです。廷用は永享4年(1432)、微笑塔(開山関山慧玄の塔所)の敷地を、その頃南禅寺にいた根外宗利に与えました。
 関山慧玄の流れを重んじていた根外は、犬山瑞泉寺から日峰宗舜(にっぽうそうしゅん)を迎えて妙心寺を復興させました。応仁の乱(1467-1477)で多くの堂塔が焼失しました。文明9年(1477)に後土御門天皇による「妙心寺再興の綸旨」が下されました。
 そして、雪江宗深(せっこうそうしん)や、彼に帰依した細川勝元・政元親子らの助力により復興しました。永正6年(1509)には利貞尼が仁和寺領の土地を購入して妙心寺に寄進しています。大内・細川・今川・織田・武田・豊臣氏などからも援助を受け大寺院となっていきました。
 大宰府の観世音寺と兄弟鐘になる国宝の梵鐘(法堂内)、大灯国師墨跡(国宝)をはじめ、仏像、絵画、障壁画、庭園など多くの文化財を所蔵しています。仏殿、法堂、山門、浴室、経蔵、勅使門、南門、北門、 大方丈、玄関、寝堂、小方丈、庫裏などが国の重要文化財に指定されています。


妙心寺南門(国重文)
 妙心寺の南門は下立売通りに南面し、勅使門の東隣りにあります。切妻造り、檜皮(ひわだ)葺きの三間薬医門で、慶長15年(1610)に建てられています。正面の中央柱間は広く、両開き板扉が付けられ、右脇には潜り通用口が付けられています。簡素ながら威厳にみちた実用性のある門で、昭和42年(1967)に国の重要文化財に指定されています。
妙心寺南門

妙心寺勅使門(国重文)
 妙心寺の勅使門は南門の西隣りにあります。切妻造り、檜皮(ひわだ)葺きの四脚門で、慶長15年(1610)に惣門として建てられています。蟇股(かえるまた)には華麗な桃山時代の特徴がある美しい門で、晋山式に開けられるそうです。明治45年(1912)に国の重要文化財に指定されています。
妙心寺勅使門

妙心寺山門(国重文)
 妙心寺の山門は南門の先にあります。慶長4年(1599)の建立で、境内で唯一の朱塗りの建物です。5間三戸2階二重門、入母屋造り、本瓦葺きで、両側に山廊があります。山廊は間口2間、奥行2間、単層、切妻造り、本瓦葺きです。明治45年(1912)に国の重要文化財に指定されています。
妙心寺山門
 妙心寺三門は禅宗山門の様式を踏襲しています。仏道修行の悟りを示す「空門」「無相門」「無作門」の3つの門を表し、禅の境地による解脱の意味が託されています。楼上には、観世音菩薩と十六羅漢が安置され、柱や梁には狩野権右衛門による極彩色の雲龍、天人像などが描かれています。6月18日には観音懺法会(ざんぽうえ)では、自らの過ちを懺悔します。
妙心寺山門

妙心寺仏殿(国重文)
 妙心寺三門の先に妙心寺の仏殿があります。天正12年(1584)に建立されました。現在の建物は文政10年(1827)に再興された建物です。間口3間、奥行3間、単層裳階付き、入母屋造り、本瓦葺きの唐様建築で、明治45年(1912)に国の重要文化財に指定されています。
妙心寺仏殿
 仏殿は妙心寺の本堂にあたり、廊下で北側の法堂(はっとう)と繋がっています。創建当時は法堂も兼ねていたようです。正面には「祈祷」と書かれた扁額が掲げられます。須弥壇上に釈迦如来、阿難(あなん)尊者、迦葉(かしょう)尊者の3像を安置しています。
妙心寺仏殿

妙心寺経蔵(国重文)
 妙心寺の経蔵は寛文13年(1673)、大阪の淀屋辰五郎の寄進で建てられたといわれています。間口1間、奥行1間、単層裳階付きで、宝形造り、本瓦葺きです。八角輪蔵が付いていて、6527巻の一切経が納められています。 明治45年(1912)に国の重要文化財に指定されています。
妙心寺経蔵

妙心寺法堂(国重文)
 妙心寺の法堂(はっとう)は、開山300年遠忌を記念して承応4年(1655)に建設がはじまり、明暦2年(1656)に完成した建物です。妙心寺の中で最も大きなお堂です。住職が法要儀式を行うところで、普段は何も祀られていませんが、法要に応じて対象の仏像などが須彌壇上に祀られます。
妙心寺法堂
 法堂は間口5間、奥行4間、単層裳階(もこし)付きで、入母屋造り、本瓦葺きの建物です。仏殿と同じ造りですが、一回り大きく、建立も古く、より禅宗様(唐様)に徹しています。堂内のケヤキの柱は、原木を四つ割にして丸く削られたもので、高さ8m、周囲2mで、富士山麓より海路によって運ばれたそうです。
妙心寺法堂
 内陣の鏡天井には、狩野探幽が8年をかけて描いたという「八方睨みの龍」と呼ばれる「雲龍図」が描かれています。また堂内には国宝の「黄鐘調(おうじきちょう)の鐘」があります。文武2年(698)鋳造の日本最古の梵鐘で、吉田兼好の徒然草にも記されている名鐘です。法堂は明治45年(1912)に国の重要文化財に指定されています。
妙心寺法堂

妙心寺玄関(国重文)
  妙心寺の玄関は大方丈につながっていて、受付にもなっています。承応3年(1654)に建てられていて、明治45年(1912)に国の重要文化財に指定されています。間口5間、奥行1間、単層、檜皮(ひわだ)葺きで、唐破風造りです。
妙心寺玄関

妙心寺大方丈(国重文)
 妙心寺の大方丈は法堂と渡廊下で結ばれています。間口29.5m、奥行21.7m、単層、入母屋造り、こけら葺きで、承応3年(1654)に建てられています。本尊阿弥陀三尊を安置しています。この三尊はもとは石清水八幡宮の奥の院に祀ってあったものです。大方丈は明治45年(1912)に国の重要文化財に指定されています。
妙心寺大方丈

妙心寺小方丈(国重文)
 妙心寺の小方丈(こほうじょう)は慶長8年(1603)に建立された玉鳳院を明暦2年(1656)に移築した建物です。南緑の杉戸に麒麟が描かれていることから麒麟閣、麟徳殿(りんとくでん)ともいわれます。間口15.9m、奥行10m、単層、入母屋造り、こけら葺きの建物で、明治45年(1912)に国の重要文化財に指定されています。
妙心寺小方丈

妙心寺庫裏(国重文)
 妙心寺の庫裏は承応2年(1653)の建立で、大庫裡・小庫裡・土間に分かれて、土間には6個の大竈が並んでいます。間口25.8m、奥行18m、単層、切妻造り、妻入で、総こけら葺きです。東面、西面、北面に庇が付き、北面、東面に下屋があります。明治45年(1912)に国の重要文化財に指定されています。
妙心寺庫裏

妙心寺北門(国重文)
 妙心寺の北門は一条通りに北面して建っています。南門と同じで、切妻造り、檜皮(ひわだ)葺きの三間薬医門で、慶長15年(1610)に建てられています。右脇には潜り通用口が付けられ、簡素ながら威厳にみちた実用性のある門です。昭和42年(1967)に国の重要文化財に指定されています。
妙心寺北門

妙心寺浴室(国重文)
 妙心寺の浴室は天正15年(1587)に光秀の菩提を弔うために叔父の密宗和尚が建てました。そのため明智風呂と呼ばれています。現在の浴室は明暦2年(1656)に再建されたものです。間口5間、奥行面5間、背面3間、単層、切妻造り、妻入、本瓦葺きの建物です。明治45年(1912)に国の重要文化財に指定されています。
妙心寺浴室


妙心寺玉鳳院
みょうしんじ ぎょくほういん
京都市右京区花園妙心寺町60
 妙心寺の玉鳳院は妙心寺の中で最も古い塔頭(たっちゅう)です。妙心寺発祥の場所で、妙心寺の開祖、関山慧玄(無相大師)を祀り、最も神聖な場所とされ、玉鳳禅宮とも呼ばれています。妙心寺派の僧侶となるための試験も玉鳳院の中にある開山堂で行われています。
妙心寺玉鳳院

妙心寺玉鳳院四脚門・開山堂(国重文)
 玉鳳院の四脚門は檜皮葺きの一間平唐門で、室町中期の応永年間頃(1394-1427)に建てられたと思われます。後小松天皇の内裏の門であったといわれています。明治40年(1907)に国の重要文化財に指定されています。 開山堂は東福寺より天文6年(1537)に移築された建物で、間口3間、奥行4間、単層、入母屋造り、本瓦葺きです。室町中期の建立で、明治34年(1901)に国の重要文化財に指定されています。
玉鳳院四脚門

妙心寺龍泉庵
みょうしんじ りょうせんあん
京都市右京区花園妙心寺町64
 妙心寺の龍泉庵は48ある塔頭の1つで、妙心寺四派(しは)「龍泉派」の本庵です。妙心寺四派とは妙心寺の中興開山である雪江宗深(せっこうそうしん)が4人の優秀な弟子に「龍泉派」「東海派(とうかいは)」「霊雲派(れいうんは)」「聖澤派(しょうたくは)」を興させ開祖としたものです。龍泉庵開祖は妙心寺10世、景川宗隆禅師です。
妙心寺龍泉庵

妙心寺衡梅院本堂(国重文)
みょうしんじ こうばいいん
京都市右京区花園妙心寺町66
 衡梅院は妙心寺の6世で、復興に心血を注ぎ、妙心寺四派を作った雪江宗深の塔所(はかどころ)です。衡梅院本堂は間口18.9m、奥行11.9m、単層、入母屋造、こけら葺きで、西面に庇が付けられています。慶長9年(1604)に建てられていて、昭和42年(1967)に国の重要文化財に指定されています。
妙心寺衡梅院

妙心寺退蔵院本堂(国重文)
みょうしんじ たいぞういん
京都府京都市右京区花園妙心寺町35
 退蔵院は妙心寺の塔頭で、越前の豪族の波多野出雲守重通により応永11年(1404)に建立されました。慶長7年(1602)に建てられた本堂は間口16.9m、奥行10.9m、単層、入母屋造り、こけら葺きで、昭和42年(1967)に国の重要文化財に指定されています。正面室中中央に桟唐戸を装置しないで仏間背面に長5畳の眠蔵をつくっている古式の形式です。
妙心寺退蔵院
 退蔵院の寺宝で国宝の「瓢鮎図(ひょうねんず)」は室町時代の画僧・如拙(じょせつ)の筆です。将軍足利義持の命で座頭屏風として描いたもので室町時代の代表的絵画です。ひょうたんでなまずを押さえるという禅の公案(試験問題)を絵にあらわしたものです。他にも「花園天皇宸翰」(国重文)、「後奈良天皇宸翰」(国重文)などを所蔵しています。
妙心寺退蔵院

妙心寺天球院本堂(国重文)
みょうしんじ てんきゅういん
京都市右京区花園妙心寺町46
 天球院は妙心寺の塔頭の1つです。寛永8年(1631)、岡山藩主の池田光政が、伯母の天球院のために江山景巴(こうざんけいは)を開山として創建しました。以後、池田家の菩提寺となりました。天球院の本堂には狩野山楽、山雪父子の方丈障壁画152面があり、本堂とともに国の重要文化財に指定されています。
妙心寺天球院
 天球院の本堂は間口21.2m、奥行14m、単層、入母屋造り、桟瓦葺きの建物です。江戸前期の寛永年間(1624-1643)に建てられています。玄関は唐破風造り、こけら葺きです。大正11年(1922)に国の重要文化財に指定されています。
妙心寺天球院

妙心寺春光院
みょうしんじ しゅんこういん
京都市右京区花園妙心寺町42
  春光院は妙心寺本坊の北西にあり、妙心寺の塔頭です。俊巌院(しゅんげんいん)と号し、天正18年(1590)、豊臣三中老のひとり堀尾吉晴が18才で戦死した長男金助の菩提を弔うために創建した寺です。堀尾家の菩提所になっていましたが、 寛永10年(1633)、3代・堀尾忠晴に世継ぎがいなかったため、堀尾家は断絶になりました。
妙心寺春光院
 その後、堀尾家と縁戚関係にあった伊勢亀山藩主であった石川憲之が檀越となり、寛永13年(1636)、春光院と改称し、石川家の菩提寺となりました。 春光院はキリスト教との繋がりがあり、国の重要文化財である「南蛮寺の鐘」をはじめ、切支丹灯篭を所蔵しています。本堂・花鳥の間には2つのキリスト教シンボルが隠されています。
妙心寺春光院

妙心寺大通院
みょうしんじ だいつういん
京都府京都市右京区花園妙心寺町50
  妙心寺の塔頭・大通院は天正14年(1586)、一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)が妙心寺58世の南化玄興(なんかげんこう)を請じて創建されました。山内一豊の子、湘南宗化(しょうなんそうげ)が2世となり中興し、 山内家の菩提寺となりました。 
妙心寺大通院
 ここには山内一豊夫妻の御廟があります。一豊は織田信長に仕え、信長の命により羽柴秀吉に仕えます。小牧・長久手の戦いや小田原の役の戦功により遠江国掛川五万石を領しました。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、家康より土佐一国を受け20万石を領しました。一豊と妻千代の肖像画も残されています。
妙心寺大通院

妙心寺麟祥院
みょうしんじ りんしょういん
京都府京都市右京区花園妙心寺町49
 麟祥院は、徳川3代将軍家光が乳母、春日局の追善のために、寛永11年(1634)に碧翁(へきおう)和尚を開山として建立されました。境内にある御霊屋(おたまや)は、仙洞女御所にあった釣殿を後水尾天皇より下賜されたものといわれています。麟祥院の住持は墨衣のまま江戸城白書院の出入りを許されたといわれています。
妙心寺麟祥院
 麟祥院には春日局ゆかりの品々が大切に保存されています。また、春日局の養父「海北友松」ゆかりの品もある事でも有名です。春日局の父で明智光秀の家老、斉藤利三の晒された首を友松が奪い取って京都真如堂に手厚く葬ったことは有名です。
妙心寺麟祥院

妙心寺靈雲院書院(国重文)
みょうしんじ れいうんいん
京都府京都市右京区花園妙心寺町39
 靈雲院は妙心寺の塔頭の1つで、妙心寺四派(しは)「霊雲派」の本庵です。大永6年(1526)、妙心寺26世大休宗休(だいきゅうそうきゅう)が、師の特芳禅傑(とくほうぜんけつ)を勧請開山にして、創建しました。細川家の重臣であった薬師寺一族の菩提を弔うために、薬師寺備後守国長の室・霊雲院(清範尼)が帰依し援助しました。
妙心寺靈雲院
 大休宗休国師は2世となり、晩年ここに住しました。 大休宗休に帰依した後奈良天皇は度々行幸されました。応仁元年(1467)から元亀3年(1572)頃に建てられた書院は御座所に使われ、「御幸の間」には狩野元信の障壁画が描かれ、明治39年(1906)に国の重要文化財に指定されています。 また庭園も国の名勝です。
妙心寺靈雲院



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