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京都の旅と歴史
京都の旅    京都市右京区

二尊院
にそんいん
京都府京都市右京区嵯峨二尊院門前長神町27
Tel 075-861-0687


 二尊院は正しくは、小倉山二尊教院華台寺(にそんきょういんけだいじ)という天台宗のお寺です。平安時代初期の承和年間(834-847)、嵯峨天皇の勅により円仁(慈覚大師)が創建したと伝えられています。
 鎌倉時代に造られた「発遣(ほっけん)の釈迦」如来像と「来迎(らいごう)の阿弥陀」如来像の「二尊」の本尊の立像が並んで祀られているので、「二尊院」と呼ばれるようになったそうです。
 発遣の釈迦如来は衆生に阿弥陀如来の極楽浄土へ行くように勧め、来迎の阿弥陀如来はその衆生を迎えます。この木造釈迦如来立像と阿弥陀如来立像は像高2像とも78.8cmで、国の重要文化財に指定されています。
 のちに荒廃しましたが、法然が九条兼実の助力で再興し、弟子の湛空(たんくう)が堂宇を増築しました。嘉禄3年(1227)の嘉禄の法難の時、法然上人の遺骸を天台宗の僧兵から守るために法然廟所から二尊院まで六波羅探題の武士たちに守られながら遺骸が移送されました。
 天台、真言、律、浄土の4宗兼学の寺となり隆盛しましたが、応仁の乱による延焼で堂塔伽藍が全焼しました。永正年間(1504-1521)に長門の僧・広明恵教(えきょう)が三条西実隆(さねたか)・公条(きんえだ)父子の援助で復興させました。
 豊臣秀吉からは120石、徳川家康からは200石の寺領を与えられ、明治に天台宗に戻っています。境内には公家の二条家、三条家、四条家、三条西家、嵯峨家(旧・正親町三条家)、鷹司家の墓のほか、伊藤仁斎・伊藤東涯父子、角倉了以・角倉素庵父子、阪東妻三郎の墓などがあります。

二尊院総門
 二尊院の総門は伏見城の薬医門であったものです。京の豪商・角倉了以によって慶長19年(1614)に移築されたそうです。右の門柱に「小倉山二尊院」、左には「九頭龍弁財天」とあり、左手前の石碑には 聖域を示す「大界外相(たいかいげそう)」と刻まれています。総門の先には紅葉の馬場と呼ばれる参道が続いています。
二尊院総門

二尊院本堂
 二尊院の本堂は永正18年(1521)、広明恵教が三条西実隆の援助で再建した方丈型建築です。後柏原天皇による「小倉山」、後奈良天皇による「二尊院」の勅額が架けられています。28畳の部屋を中心に6間あり、中央に木造釈迦如来立像と阿弥陀如来立像の本尊2像が祀られています。
二尊院本堂

時雨亭跡
 二尊院には百人一首を編纂したという藤原定家が営んだ時雨亭跡(しぐれていあと)と伝わる場所があります。(近くの常寂光寺にも時雨亭跡の石碑が残されています。)
時雨亭跡

小倉あん発祥の地
 二尊院に小倉餡発祥之地と刻まれた石碑があります。大同4年(809)頃、空海が小豆の種を中国から持ち帰り小倉山で栽培し、菓子職人の和三郎がその小豆であんを作り、御所に献上したとされています。
小倉あん発祥の地

角倉了以墓所
 角倉了以(すみのくらりょうい)は京都の「水運の父」と呼ばれています。小倉山は高瀬川開削で名を挙げた江戸初期の商人・角倉(すみのくら)一族の所有地でした。二尊院には了以と、息子・素庵のお墓があります。
角倉了以墓所



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