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京都の旅と歴史
京都の旅    京都市右京区

清涼寺
せいりょうじ
京都府京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町46
Tel 075-861-0343


 五台山(ごだいさん)清涼寺は大覚寺入口から西へ300mほどのところにあります。「嵯峨の釈迦堂さん」の愛称で親しまれる浄土宗のお寺です。融通念仏の道場としても知られ、浄土宗の元祖・法然上人が、24歳の時に、このお寺の釈尊像の前に7日間籠ったという由緒あるお寺です。
 清涼寺はもとは棲霞(せいか)寺の境内にあった釈迦堂でした。この地は嵯峨天皇の仙洞(嵯峨院)の地で、嵯峨天皇の第12皇子、左大臣・源融(とおる)が譲り受けていました。そして、棲霞観(せいかかん)という山荘を建てていました。
 融は源氏物語の光源氏のモデルになった人物といわれています。熱心な阿弥陀信仰者で、阿弥陀像を造立しようとしましたが亡くなり、遺族が阿弥陀三尊像を完成させました。融の一周忌の寛平8年(896)に阿弥陀堂を建立して安置し、法会を行い、棲霞寺を開いたのです。
 永観元年(983)、東大寺の僧・「然(ちょうねん)は五台山巡礼のため宋(中国)に渡りました。優填(うてん)国王が造ったとされる栴檀(せんだん)釈迦像を拝して感激し、香木を買い求めて宋で作成し日本に持ち帰りました。「然は愛宕山を五台山に見立て、清涼寺を創建しようとしましたが夢果たせず亡くなりました。
 その後、弟子の盛算(せいさん)が「然の志を継ぎました。勅許を得て、棲霞寺の釈迦堂を清涼寺とし、栴檀釈迦像を安置して華厳宗の寺としました。その後、釈迦如来に対する信仰から、他宗の天台、真言、念仏宗を含め、融通念仏の大道場になり、棲霞寺よりも清凉寺の方が高名となりました。
 建久元年(1190)、火災に遭い、その後も度々被災し、応仁元年(1467)の乱では兵火を受け、釈迦堂を除く多くの堂宇が焼失しましが、その度に再建されてきています。享禄2年(1529)には正親町天皇の綸旨を受け、五代堂などの再建に着手し、慶長17年(1612)には徳川家康から97石の寺領が与えられています。
 境内には山門、本堂、聖徳太子殿、阿弥陀堂、一切経蔵、薬師堂、宝物館、弁天堂、狂言堂、鐘楼、多宝塔など多くの堂塔が建ちならんでいます。境内には、「然上人、源融、嵯峨天皇、檀林皇后の墓などのほか豊臣秀頼公首塚などがあり、境外北側墓地には、十萬上人や遊女夕霧太夫の墓があります。


清涼寺山門
 清涼寺の山門は応仁の乱で五大堂とともに炎上し、江戸時代の安永6年(1776)に再建された建物です。昭和62年(1987)に京都府の有形文化財に指定されています。三間一戸、2階二重門、入母屋造り、本瓦葺きの八脚門です。総ケヤキ造りで、禅宗様、和洋の折衷様式になっています。上層に十六羅漢像を安置、初層左右に室町時代作の阿吽の金剛力士像が安置されています。
清涼寺山門

清涼寺経蔵
 清涼寺の経蔵には釈迦が説いた法経典が収められています。輪蔵には明版一切経が納められていて、これを回すことで一切経を読んだのと同じ功徳が得られるそうです。輪蔵の正面には傅大士(ふだいし)坐像、両脇に音浄普現像、四隅に四天王像が祀られています。
清涼寺経蔵

清涼寺本堂
 清涼寺の本堂は釈迦堂とも呼ばれ、仁王門から入った広い境内の参道正面にあります。本堂は元禄14年(1701)に徳川5代将軍綱吉(つなよし)と、その母・桂昌院(けいしょういん)、大阪の豪商泉屋(後の住友)吉左衛門らの発起により再建されました。間口14間、奥行13間、単層、入母屋造り、本瓦葺きの大きな建物です。
清涼寺本堂
 本堂内には、国宝の本尊・釈迦如来立像、国指定重要文化財の地蔵菩薩立像を安置しています。本堂正面には隠元筆の「栴壇瑞像(せんだんずいぞう)」の大額が架けられています。仏は栴檀の香木を刻んだ生身の仏、釈迦の生き姿をそのまま写したものという意味です。
清涼寺本堂

清涼寺多宝塔
 清涼寺の多宝塔は元禄16年(1703)に再建された建物で、京都府の有形文化財に指定されています。下層は3間、本瓦葺き、上層は本瓦型銅瓦葺き、江戸風に尾垂木を竜頭としています。元禄13年(1700)に江戸護国寺で釈迦如来像の出開帳を行い、江戸の人々の寄進で資金を集めたそうです。
清涼寺多宝塔

清涼寺阿弥陀堂
 清涼寺の阿弥陀堂は、間口5間、奥行6間、入母屋造り、本瓦葺きの建物です。平安時代、この地には、棲霞寺の阿弥陀堂がありました。その後、釈迦如来像が安置され、清凉寺の阿弥陀堂となりました。現在の建物は、江戸時代末期の文久3年(1863)に再建された堂宇です。
清涼寺阿弥陀堂

清涼寺鐘楼
 鐘楼にさがる梵鐘は「清凉晩鐘」「五台晨鐘」といわれ、嵯峨八景、嵯峨十景の一つに選ばれています。総高212.2mというおおきな鐘で、南北朝時代の文明16年(1484)に鋳物師・河内国堺宿院、総大工・藤原長家ら4人で鋳造されています。梵鐘は京都府の有形文化財に指定されています。
清涼寺鐘楼

棲霞観跡
 棲霞観(せいかかん)は嵯峨天皇の第12皇子、左大臣・源融(とおる)(822-895)の山荘です。棲霞寺は棲霞観に建てられた阿弥陀堂を創始としています。現在、棲霞寺は阿弥陀堂にのみ名残りをとどめています。
棲霞観跡

清涼寺薬師堂
 境内西北にある清涼寺の薬師堂は、かつては竜幡山薬師寺といい、平安時代の、弘仁9年(818)、嵯峨天皇の勅により空海が建立したといわれています。薬師如来像を安置し、疫病の平癒を祈願したそうです。当初は真言宗でしたが、後に浄土称に改宗しています。
清涼寺薬師堂

清涼寺狂言堂
 清涼寺の狂言堂では重要無形民俗文化財の嵯峨大念仏狂言が演じられます。千本閻魔堂の閻魔堂狂言、壬生寺の壬生狂言とともに京都3大念仏狂言の一つに数えられています。嵯峨大念仏狂言は壬生狂言と同じく円覚上人が創始されたものといわれています。
清涼寺狂言堂

秀頼公首塚
 秀頼公首塚は昭和55年(1980)に大阪城の三の丸跡地の発掘現場から出土した豊臣秀頼の首を昭和58年(1983)に納めたものだそうです。首に介錯の跡があったといわれています。
秀頼公首塚

生の六道
 「生の六道 小野篁(おののたかむら)公遺蹟」と刻まれた石碑が建てられています。昔は、ここに六道の辻があったようです。六道珍皇寺には地獄で閻魔大王に仕えていたという小野篁の「冥土通いの井戸」がありますが、ここは地獄からの戻り口「生の六道」であると伝えています。
生の六道

嵯峨天皇・皇后石塔
 嵯峨天皇(右)と壇林皇后塔との伝承がある石塔が建てられています。嵯峨天皇は桓武天皇の子です。子供が大勢いたので、弘仁6年(815)このうち32人に源朝臣を与えて臣籍にしました。源融もその一人です。嵯峨天皇の皇后は橘嘉智子(たちばなのかちこ)といい、嵯峨野に日本最初の禅院・檀林寺を創建したことから檀林皇后と呼ばれます。
嵯峨天皇・皇后石塔

清涼寺霊宝館
 清涼寺の霊宝館には、国の重要文化財に指定されている阿弥陀三尊像、十大弟子像、四天王立像、文殊(もんじゅ)菩薩騎獅像、普賢菩薩騎象像、兜跋(とばつ)毘沙門天立像などが安置、所蔵されています。また国宝の絹本著色十六羅漢像16幅は、中国・北宋時代の羅漢像として唯一の遺品で、東京と京都の国立博物館に8幅ずつ寄託されています。
清涼寺霊宝館



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