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京都の旅と歴史
京都の旅    京都市右京区

常寂光寺
じょうじゃくこうじ
京都府京都市右京区嵯峨小倉山小倉町3
Tel 075-861-0435


 常寂光寺は日蓮宗のお寺で、嵯峨野を一望できる小倉山の中腹にあります。近くには落柿舎や二尊院があり、京都の風情がただよう静かなところです。平安時代より嵯峨野は、皇族や貴族の離宮、山荘をかまえる景勝地として有名でした。
 特に小倉山、亀岡、嵐山の山麓は、後嵯峨上皇の亀山殿、兼明親王の雄倉殿、藤原定家の小倉山荘のほか、八条院高倉、待賢門院の中納言局、藤原公雄、藤原光経、飛鳥井雅有、覚性法親王や西行法師、涌蓮、向井去来など公家や歌人が好んで別荘や庵を構えたところです。
 常寂光寺は藤原定家の山荘、時雨亭があったところだとされ、多宝塔の西南上方に時雨亭跡の石碑が建てられています(二尊院にも同じような石碑が建てられています。)。定家の小倉山荘は仁王門北側に有り、石碑が建てられています。
 慶長年間(1596-1614)に大本山本圀寺に第16世になった究竟院日(にっしん)上人という高僧がいました。宗学と歌道への造詣が深く、加藤清正、三好吉房、小出秀政、小早川秀秋、瑞竜院日秀 (秀吉の実姉)など多くの人が帰依しました。文禄4年 (1595)、豊臣秀吉は東山方広寺大仏殿の開眼千僧供養に出仕をうながしました。
 本山本圀寺は二派に分裂し、日ワ辮lは不受不施の宗制を守りました。秀吉の意向に逆らったため本圀寺を出て、この地に隠栖(いんせい)したのでした。小倉山は高瀬川開削で名を挙げた江戸初期の商人・角倉(すみのくら)一族の所有地でした。熱心な日蓮信者であった角倉了以(りょうい)の従兄・栄可は土地を寄進しています。
 隠栖所はのちに寺に改められ、土地が常寂光土の感があるとして「常寂光寺」としました。寂光土(じゃっこうど)とは「永遠で絶対の浄土」のことで、日蓮宗や天台宗での浄土の一つです。その寂光土が常にあるお寺という意味なのです。
 小早川秀秋らが堂宇の建立に寄与しました。日ワ辮lは元和3年 (1617)にここで57歳の生涯を終えました。跡を継いだ2世の日韶(にっしょう)上人はさらにお寺を整備したそうです。正徳5年(1715)、一道院日法上人が常寂光寺14世となりました。
 京都鴨川において一千日の荒行を成し遂げた僧で、洛内外の人々の信仰を集め、正徳2年(1712)、堀川本蔵寺で、霊元上皇の平癒の祈祷をして、大験者及び上人となっています(以後本蔵寺は勅願所一道院と改めています。)。常寂光寺にも霊元上皇より多宝塔に「並尊閣」の勅額を賜わっています。


常寂光寺山門
 常寂光寺の山門は太い角材を格子に組んで造られています。江戸後期に作り変えられたもので、江戸中期出版の「都名所図会」には、袖に土塀をめぐらした薬医門が描かれています。
常寂光寺山門

常寂光寺仁王門
 常寂光寺の仁王門は山科にある本圀寺客殿の南門として貞和年間(1345-1349)に建てられたものです。元和2年(1616)に常寂光寺に移築され、仁王門となりました。境内にある建物の中で最も古い建物です。三間一戸、茅葺き屋根の仁王門には、左右に仁王像が安置されています。
常寂光寺仁王門
 身の丈七尺の仁王像は若狭小浜の長源寺から移したものといわれ運慶の作といわれています。仁王像は目と足腰の病にご利益があるといわれ、わらじが奉納され、病気平癒が祈願されています。仁王門をくぐると急な石段が山の斜面に沿って本堂へ続いています。
常寂光寺仁王門

常寂光寺本堂
 常寂光寺の本堂は2世の日韶(にっしょう)上人が小早川秀秋から伏見城客殿の寄進を受け、本堂として移築修造したものといわれています。一重寄棟屋根から、錣(しころ)屋根(兜の錣のように屋根の流れ面が途中で勾配が緩やかになり、全体として2段になっている屋根のことです)になり、江戸時代の姿に戻しています。
常寂光寺本堂

常寂光寺妙見堂
 常寂光寺の妙見堂に祀られている妙見大菩薩は、慶長年間(1596-1615)の保津川の洪水の際に上流から流れ着いた菩薩像を麓の角倉町の船頭が拾い上げ、長らく角倉町に祀られていたのを享和年間(1801-1803)に常寂光寺に遷座したものです。脇陣には、日ワ辮l開眼の鬼子母神と十羅刹女および大黒天が祀られています。
常寂光寺妙見堂

常寂光寺鐘楼
 常寂光寺の鐘楼は、寛永18年 (1642) 、4世の光照院日選上人によって建てられています。梵鐘は第二次世界大戦中の金属供出のため失われました。現在の梵鐘は、昭和48年(1973)に青木一郎博士の音響設計により、古律黄鐘調の新鐘として鋳造されたものです。
常寂光寺鐘楼

常寂光寺多宝塔(国重文)
 本堂と妙見堂の間の道を上ると常寂光寺の多宝塔があります。方三間、重層、宝形造り、檜皮葺き、塔高12mで、元和6年(1620)に建てられた均整の取れた美しい塔です。釈迦如来と多宝如来の両如来を本尊にしているので、並尊院という霊元天皇の勅額を掲げています。
常寂光寺多宝塔
 棟札には、大檀家として辻藤兵衛尉直信、棟梁には藤原岡田仁助宗直、藤原沢村若狭守宗久らの名が記されています。多宝塔は常寂光寺塔婆として大正4年(1915)に国の重要文化財に指定されています。
常寂光寺多宝塔

時雨亭跡
 多宝塔の近くに時雨亭跡(しぐれていあと) の石碑が建てられています。藤原定家が「小倉百人一首」をこの時雨亭で編纂したといわれています。(近くの二尊院にも時雨亭跡の石碑が残されています。)
時雨亭跡

謌僊祠
 謌僊祠(かせんし)には鎌倉時代の歌人、藤原定家、藤原家隆の木像が安置されています。以前は仁王門の北にあったそうですが、常寂光寺が建立された時、山上に移されたそうです。平成6年(1994)に改築されています。
謌僊祠



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