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京都の旅と歴史
京都の旅    京都市山科区

本圀寺
ほんごくじ
京都府京都市山科区御陵大岩6
Tel 075-593-9191


 大光山本圀寺は日蓮宗の大本山の一つで、「東の祖山」久遠寺に対し、「西の祖山」「西の総本」と呼ばれています。建長5年(1253)に日蓮上人(1222-1282)が神奈川県の鎌倉にある松葉ヶ谷で草庵の法華堂を開いたのが始まりです。伊豆法難により、志は2世の日朗、3世の日印に引き継がれました。
 貞和元年(1345)、4世の日静が北朝第2代の光明天皇より寺地を賜り、京都の六条堀川に移転し、本國寺と改称しました。その後、妙顕寺とともに京都の日蓮宗を代表するお寺になりました。しかし天明8年(1788)の大火で妙顕寺は灰燼に帰し、本圀寺も本堂・五重塔をはじめほとんどの堂宇が焼失しました。
 文久3年(1863)には本圀寺事件が起きました。宿泊中の鳥取藩側用人・黒部権之介らが、河田景与ら因幡二十士に襲われ、暗殺された事件です。昭和46年(1971)、本圀寺は旧末寺の離散や多数の訴訟と借財で、堀川の地を売却し、現在地の山科へ移転しています。


本圀寺仁王門
本圀寺の仁王門は加藤清正が寄進した赤門の後方に平成15年(2003)に建てられた門です。正面の扁額に正嫡付法と書かれています。貞和3年(1348)、4世の日静が北朝第2代の光明天皇から正嫡付法の綸旨を賜り、三位僧都に任命されたものです。
本圀寺仁王門

本圀寺本師堂
 本圀寺の本師堂は大本堂の横に昭和46年(1971)に建てられました。日蓮上人の持仏であった釈迦尊(閻浮第一立像釈迦牟尼世尊)が祀られています。閻浮第一(えんぶだいいち)」とは世界中に二つとないという意味です。亡くなる前に、2世の日朗授け、末代まで本圀寺でお祀りするよう遺言したそうです。
本圀寺本師堂

本圀寺大本堂
 本圀寺の大本堂は本師堂の横に昭和48年(1973)に建てられました。日朗、日印、日静、日伝が祀られています。勝利大黒天像は、室町時代、諸宗との問答対決の際に、日朗の弟子・日印が懐に忍ばせていたものです。幕府は、日蓮門下の敗北と追放を謀りましたが、日印は、これを論破し、勝利を得たことから、勝利大黒像と呼ばれるようになったそうです。
本圀寺大本堂


本圀寺経蔵(国重文)
 本圀寺の経蔵は桃山時代の慶長12年(1607)、扇谷上杉家の太田資次によって再建された建物です。天明8年(1788)の大火で唯一焼失を免れた建物です。寛正5年(1464)、9世の日暁の時、8代将軍・足利義政から天下静謐の祈祷の恩賞として、一切経とともに寄進された経蔵でした。天文5年(1536)、天文法難で罹災したのでした。
本圀寺経蔵
 昭和51年(1976)に移転再建された経蔵は間口3間、奥行3間の、宝形造りで、単層、本瓦葺きです。正面に1間の庇を葺きおろしています。輪蔵式経蔵で、内部に一切経を納めた582の引き出しがある創建当初の八角形の輪蔵が保存されています。輪蔵を一回転させると一切経をすべて読んだのと同じ功徳があるそうです。本圀寺経蔵は大正14年(1925)に国の重要文化財に指定されています。
本圀寺経蔵



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