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京都の旅と歴史
京都の旅    宮津市

智恩寺
ちおんじ
京都府宮津市字文珠466
0772-22-2553


 天橋山(てんきょうざん)智恩寺は臨済宗妙心寺派のお寺です。「切戸の文殊」、「九世戸(くせど)の文殊」、「知恵の文殊」とも呼ばれ、日本3文殊の一つに数え上げられています(他の2つは奈良県桜井市の安倍文殊院の安倍文殊、山形県高畠町の大聖寺の亀岡文殊です)。
 本尊の文殊菩薩は智恵を授かる文殊さんとして有名で「知恵の文殊」とも呼ばれています。善財童子(ぜんざいどうじ)・優てん王(うてんおう)を従えた文殊騎獅像で秘仏とされ、正月三ヶ日、1月10日、7月24日の年5日だけ開帳されます。
 大同3年(808)、平城天皇の勅願寺として開かれたのが始まりと伝えられ、延喜年間(901-923)には醍醐天皇から寺号と勅額を下賜され繁栄しました。当初は密教(真言宗)のお寺でしたが、南北朝時代以降に禅宗のお寺になったようです。
 中世では足利氏、細川氏、京極氏に庇護され、足利義満は6回も訪れています。永正3年(1506)に雪舟の国宝・「天橋立図」には広大な境内を有する智恩寺が描かれています。 智恩寺多宝塔、木造文殊菩薩、脇侍善財童子、優てん王像、金鼓、鉄湯船は国の重要文化財に指定されています。


智恩寺山門
 智恩寺山門は茶屋通りに面し、「黄金閣」とも呼ばれています。朝廷より黄金を下賜されたことからこの名がついたそうです。丹後地方最大の山門で、宮津市指定文化財です。三間三戸の二重門で、本格的な唐様(禅宗様)建築です。上層には釈迦如来を中央に両脇士・十六羅漢を安置し、下層の柱間に建具は無く開放的です。
智恩寺山門

智恩寺多宝塔(国重文)
 智恩寺の多宝塔は室町時代後期の明応10年(1501)、丹後国の守護代で府中城主であった延永修理之進春信(のぶながしゅりのじょうはるのぶ)が、病気全快を感謝して、一宮別当大聖院の僧、智海(ちかい)に建てさせました。多宝塔は明治37年(1904)に国の重要文化財に指定されています。
智恩寺多宝塔
 智恩寺の多宝塔はこけら葺きの、三間多宝塔です。上重は円形で亀腹を付け、宝形の屋根を載せて、その上には相輪があります。下重は周囲に方形の裳階を付け、内部には来迎柱が立ち、前方の須弥壇に大日如来が安置されています。来迎壁の背面には智海により片足を上げた不動明王が描かれています。
智恩寺多宝塔

智恩寺文殊堂(本堂)
 智恩寺の文殊堂は本堂になります。間口5間の宝形造り、銅板葺きの建物で、一部に室町時代の古材を残していますが、明暦3年(1657)の改修により現在の姿になったと思われます。平成9年(1997)から平成11年(1999)まで大修理を施しています。前面2間を吹放しの外陣とし、四囲は吹放しの化粧軒天井です。
智恩寺文殊堂
 堂内には本尊の木造文殊菩薩と、善財童子、優てん王の3体を安置しています。いずれも鎌倉時代後期に造られた国指定重要文化財です。文殊像は、如意を持って獅子の上の蓮華座上に安坐し、善財童子は経箱を捧げて立っています。
智恩寺文殊堂

智恩寺鉄湯船(国重文)
 智恩寺にある鉄湯船は鎌倉時代の正応3年(1290)に河内国の鋳物師・山川貞清により造られています。現在は手水鉢として使われていますが、昔はお寺の風呂の湯船として使われていました。成相寺にも同じ鋳物師が造った鉄湯船が残されています。
智恩寺鉄湯船

石造宝篋印塔(和泉式部歌塚)
 智恩寺にある石造宝篋印塔(ほうきょういんとう)は和泉式部の歌塚といわれています。丹後守藤原公基が日置金剛心院で式部が書き捨てた和歌を持ち帰り、なみだの磯(涙が磯)に埋めて鶏塚としたそうです。その一首が
  「いつしかと待ちける人に一声も
         聞せる鶏のうき別れかな」
 その後、明応年間(1492-1501)の頃、砂に埋まった塚を掘り出して文殊堂に建てたそうです。鎌倉時代のもので、宮津市指定文化財です。
石造宝篋印塔

石造地蔵菩薩立像
 智恩寺には石造地蔵菩薩立像が3つあります。応永34年(1427)のものは、大江越中守の発願により造立された一千体地蔵の内の一つ、永享4年(1432)のものは三上因幡守の発願により造立されています。この2つの石像は宮津市指定文化財に指定されています。
石造地蔵菩薩立像



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