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京都の旅と歴史
京都の旅    長岡京市

光明寺
こうみょうじ
京都市長岡京市粟生西条ノ内26−1
Tel 075-955-0002


 京都は北山、東山、西山と三方を山に囲まれています。その西山にあるのが光明寺です。 長岡京市栗生あることから世に「粟生光明寺」といわれ法然上人の廟所のある寺として浄土宗院中、最も重んじられています。
 熊谷次郎直実が建久9年(1198)に念仏三昧院を建立し開山しました。後に四条天皇により光明寺と命名されました。西山(せいざん)浄土宗の総本山です。法然が最初に念仏の教えを説いた寺で、「浄土門根元地」といわれています。
 モミジの寺として知られ、広大な境内を数百本のモミジが紅に染まり、参道の石畳はモミジで埋め尽くされます。通称「もみじ参道」には大勢の観光客が集まります。入口「総門」と門をくぐった「女人坂」の紅葉は見事です。境内に本堂、阿弥陀堂などが立ち並び回廊で結ばれていて独特の雰囲気をかもし出しています。
  参詣者の多くは緩やかな参道を御影堂の大屋根を見上げながら入ります。御影堂の中には法然上人自作と伝えられる「張り子の御影」と呼ばれる法然上人像があります。これは生母の手紙を張り合わせたものだそうです。
 堂内に安置する釈迦如来立像は、世に「類焼如来」といわれ、頬に焼け火箸で焼かれた傷跡が残っています。この類焼如来にまつわる伝説が、「弥陀次郎伝説」として残っています。
 巨椋池の一口の里に、行いの悪い漁師がいました。ある日、托鉢の僧が訪れましたが、焼け火箸を額にあて追い払ってしまいました。僧は怒ることもなく去っていきました。後をつけて行くと、粟生の光明寺に入ったそうです。中に僧の姿はなく、釈迦如来像の頬に焼け火箸の跡が残っていたというのです。
 光明寺の熊谷蓮生方子は源平一ノ谷の合戦で平敦盛の首をはねた熊谷次郎直実その人です。人を裏切り、手柄をたてることばかり考えていた自分の人生に怒りを覚え、むなしくなった直実は、法然上人を訪ねたのです。
 「蓮生一代事跡」によれば、直実の父・直貞と兄・直正は平忠盛によって殺されました。直実自身は忠盛の子・経盛の助言で助かりましたが、経盛の子・敦盛は、直実によって最後を遂げたそうです。
 始め平家方であった直実は石橋山の合戦で敗れた源頼朝を山中でみつけました。頼朝を栗の大木の空洞の中にかくまい、「ほや(やどり木)」を折って隠しました。頼朝を探しにきた平家軍は、空洞から二羽の鳩が飛び立ったので誰もいないと立ち去りました。これにより命を助けられた頼朝は、その後、直実に対し「ほやに向い鳩」の紋をおくったそうです。これが熊谷家の家紋なのです。
 寿永3年(1184)の「一の谷の合戦」で平敦盛を討った直実は、その敦盛の首を、青葉の笛とともに、屋島にいる敦盛の父・平経盛に送りました。「熊谷状」といわれ有名です。それに対する「経盛返状」と合わせ、当時の武人の鑑とされました。



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