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京都の旅と歴史
京都の旅    長岡京市

乙訓寺
おとくにでら
京都府京都府長岡京市今里3−14−7
Tel 075-951-5759


 乙訓寺は真言宗豊山派長谷寺の末寺で、牡丹の寺として知られています。推古天皇の勅願で聖徳太子が開いたといわれ、長岡京造営以前に創建されました。延暦3年(784)桓武天皇が長岡京を造営した時には都の地鎮として大増築されたようです。
 延暦4年(785)建都の長官・藤原種継が暗殺されました。犯人と交流のあった早良親王は連座し、淡路島に流される前に乙訓寺に幽閉されました。親王は桓武天皇の実弟で皇太子でした。身の潔白を示すため断食され、配流途中、高瀬橋で絶命しました。
 弘仁2年(811)には、唐から帰朝した空海(弘法大師)が乙訓寺の別当となり、高雄山寺(神護寺)から移り、1年ほど住しました。最澄(伝教大師)がここに空海を訪ね、密教の典籍や絵図を見て歓談したという記録が残っているそうです。
 宇多天皇は寛平9年(897)に譲位し、乙訓寺を行宮とされ、堂塔を整備され法皇寺としたそうです。長岡京が廃都となっても大きな伽藍は維持され室町時代でも12の僧坊があったようです。足利義満によって禅宗にされ、織田信長の兵火で衰微します。
 江戸時代、将軍徳川綱吉の援助で長谷寺で修学した隆光が中興します。綱吉の母の桂昌院の帰依により寺領100石を寄進されました。真言宗に戻され、堂宇の再建、乙訓寺法度も制定され、徳川家の祈祷寺となりました。
 平安時代後期の木造毘沙門天立像は国の重要文化財に指定され、本堂、八幡社、鐘楼、表門(南門)、裏門(東門)、十一面観世音菩薩立像は長岡京市指定文化財です。乙訓寺遺跡からは瓦、瓦を焼いた窯跡、僧坊跡などが出土しています。


乙訓寺裏門(東門)
 乙訓寺の裏門は元禄8年(1695)に建てられた一間一戸の高麗門です。切妻造り、本瓦葺きで、両側に練塀が付いています。昭和63年(1988)に長岡京市の有形文化財に指定されています。
乙訓寺裏門

乙訓寺鐘楼
 乙訓寺の鐘楼は方一間、入母屋造り、本瓦葺きの建物で、牧野成貞の寄進により、江戸時代中期頃建てられています。元禄9年(1696)に鋳造された梵鐘は太平洋戦争で共出され、現在のものは昭和41年に造られたものです。昭和63年(1988)に長岡京市の有形文化財に指定されています。
乙訓寺鐘楼

乙訓寺本堂
 乙訓寺の本堂は間口3間、奥行5間、単層、宝形造り、本瓦葺きの建物で、前拝1間、後門1間があります。元禄8年(1695)に竣工され、翌年に完成しています。当初は大師堂と呼ばれ、宮殿には本尊の合体大師像が安置されています。昭和63年(1988)に附指定の宮殿とともに長岡京市の有形文化財に指定されています。
乙訓寺本堂

乙訓寺のモチノキ
 乙訓寺のモチノキはクロガネモチという種類の常緑高木です。高さ9m、幹周は2.93m、根本周囲は3.55mです。推定樹齢は400年から500年と推定され、長岡京市の天然記念物に指定されています。
乙訓寺のモチノキ

乙訓寺の牡丹
 乙訓寺の牡丹(ボタン)は本山である長谷寺から牡丹2株を寄進されたのが始まりといわれています。歴代住職らの尽力で株数も年々増加し、今では4月下旬から5月上旬にかけ約2千株の花が咲きそろいます。
乙訓寺の牡丹



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