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京都の旅と歴史
京都の旅    長岡京市

勝竜寺城公園
しょうりゅうじこうえん
京都府長岡京市勝龍寺13−1
Tel 075-952-1146


 勝竜寺城公園は平成4年(1992)、勝竜寺本丸と沼田丸趾が整備された公園です。平成19年(2007)に日本の歴史公園100選に選ばれ、国土交通省の「蘇る水百選」に選ばれています。往時の遺構は神足神社境内の空堀や土塁だけですが、擬櫓や城門などが造られています。
 勝竜寺城は京都盆地の西南、小畑川と犬川の合流する所で、西国街道と久我畷が交差する交通上の要衝でした。南北朝動乱期の暦応2年(1339)、足利方の細川頼春が築いたとされていますが確証はありません。戦国時代末期に淀古城ととも松永久秀、三好三人衆の属城だったようです。
 永禄11年(1568)、織田信長は入洛する際、勝竜寺城で守る三好三人衆の岩成友通などを攻撃し、落城させています。元亀2年(1571)、細川藤孝(幽斉)が山城西岡一帯を与えられ勝竜寺城主となり、堅固な城に改修しました。
 天正6年(1578)藤孝の嫡男・忠興と明智光秀の娘お玉(細川ガラシャ)が勝竜寺城で式を挙げ、過ごしました。天正10年(1582)本能寺の変で光秀の属城となり、山崎の戦いで敗れた光秀は勝竜寺城に帰城し、坂本城へ向かう途中で落命、秀吉軍が勝竜寺城に入城しました。
 光秀の援軍要請を断った藤孝は剃髪、家督を忠興に譲り田辺城に隠居し、ガラシャを幽閉しました。勝竜寺城は淀古城の修築のため石材が移され荒廃しました。寛永10年(1633)、永井直清が修築しましたが、慶安2年(1649)、直清が摂津高槻藩に転封によって廃城となったようです。


沼田丸井戸跡
 沼田丸井戸は元亀2年(1571)、細川藤孝(幽斉)が勝竜寺城主となり、改修しました際に造られたものです。井戸は直径0.9m、深さ2mで底に太い丸太を井桁に組み、その上に石が積み上げられていました。
沼田丸井戸跡



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