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京都の旅と歴史
京都の旅    宇治市

許波多神社
こはたじんじゃ
京都府宇治市五ヶ庄古川13


 許波多神社(こはたじんじゃ)は孝徳天皇大化元年(645)に勅願により、皇祖の神霊を奉祀するため創建されたようです。壬申の乱(672)を前に大海人皇子(のちの第40代・天武天皇)が戦勝を祈願し、征夷大将軍・坂上田村麻呂も東征に際し武運を祈ったようです。
 天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)、瓊々杵尊(ににぎのみこと)、神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみことー即位前の神武天皇)、諡神武天皇を祀っています。延長5年(927)の延喜式神名帳には山城国宇治郡許波多神社三座月次新嘗と記載され、当時は官幣にあずかる大社であったようです。神名帳記載の3132のうち天忍穂耳尊を奉祀する大社は唯一、許波多神社だけです。永禄12年(1569)には最高位の正一位の神位を与えられています。
 大海人皇子は鞭の柳の枝を社頭に挿し、戦勝祈願をしたそうです。その柳が芽吹いて繁茂したため、柳山という名がつきました。許波多神社(または木幡神社)は柳大明神と呼ばれるようになり、正式の社名が「柳神社」となりました。その後、戦国時代になり、兵火により社殿のほとんどは焼失し、貴重な古文書も失われました。
 寛永17年(1640)、牛疫平癒の祈祷のため  「憐をたるゝ 柳の神ならは 死(ぬる)をうしと 思(ひ)やはせぬ」 という歌を詠むと激しかった牛疫が治まり、大評判になったようです。また寛文元年(1661)隣接地に萬福寺が建立され、以後境をめぐって何度も争いが頻発しました。
 明治9年(1876)、陸軍省火藥庫建設のため社地すべてが官有地として召し上げられ、御旅所のあった現在地に遷座させられました。その際に、柳神社から許波多神社の旧称に戻されました。許波多神社の本殿は室町時代の三間社流造りで国の重要文化財に指定されています。


許波多神社本殿(国重文)
 許波多神社の本殿は三間社流造り、檜皮葺きの建物で、内陣厨子(扉)に「永禄五年」の銘があります。柳山で永禄5年(1562)に建立された社殿で、遷座にともない移築されたものです。正面の蟇股には、柳、馬の象形彫刻、棟の両端にも柳の文様が彫られています。明治39年(1906)に国の重要文化財に指定されています。
許波多神社本殿



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