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奈良の旅と歴史
三重の旅    伊勢市

伊勢神宮
いせじんぐう
 お伊勢さんと呼ばれて親しまれている伊勢神宮は正式には単に「神宮」といいます。豊受大神宮(外宮)と皇大神宮(内宮)という二つの正宮からなっています。
 両社の間は約6km離れていて「外宮先祭」といって、外宮から参拝するのが習わしとなっているそうです。「神宮」にはそれぞれに別宮、摂社、末社、所管社があり大きな組織となっています。
 神宮は2千年前、皇女、倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大神(あまてらすおおかみ)の御鎮座の地を求めて長旅に出て、伊勢に定めたのが始まりだといわれています。
 本来、皇室しか奉幣できませんでしたが、貴族や武士、さらには庶民も参拝できるようになりました。旅も自由にできなかった江戸時代に伊勢参宮は特別許可されたこともあり半年に500万人が訪れた事もあったそうです。


伊勢神宮外宮(豊受大神宮 )
いせじんぐうげくう(とようけたいじんぐう)
三重県伊勢市豊川町
Tel 0596-24-1111


 高倉山の麓にある豊受大神宮は豊受大御神(とようけのおおみかみ)を祀っています。天慶年間(938-947)頃から内宮(ないくう)に対して外宮(げくう)といわれるようになったそうです。
北御門口参道
 豊受大御神は天照大御神の御饌都神(みけつかみ)とも呼ばれ、御饌(みけ)、つまり神々への食物を調達し農業をはじめ諸産業をつかさどる神とされています。
土宮
  雄略(ゆうりゃく)天皇は、夢の中で天照大御神の教えを受け、豊受大御神を丹波(たんば)の国に鎮座したそうです。内宮の伊勢鎮座の500年後にここ山田の原に遷されたそうです。
風宮
 宮域内には神楽殿、九丈殿、忌火屋殿(いんびやでん)、御酒(みさか)殿、斎館(さいかん)、外宮正殿(げくうしょうでん)、東宝殿、西宝殿、外幣(げへい)殿などがあり、正宮の南に風宮などの別宮が木々に包まれて建っています。東北隅にある御饌殿(みけでん)は内宮にはありません。
忌火屋殿
 外宮のつくりやお祭は内宮とほぼ同じですが、外宮の方が境内は一回り小さい感じです。 神様にお供えする御料米や衣服、野菜、果物、御塩、鮑などは神宮の御料地で神宮が直接その生産、調製をしているそうです。
多賀宮


正殿
 (しょうでん)
 正殿は板垣、外玉垣、内玉垣、瑞垣をめぐらした斎庭に建てられています。内部には豊受大御神と御伴神(おとものかみ)3座が祀られているそうです。
 正殿は唯一神明造り(ゆいいつしんめいづくり)と呼ばれる建築様式で建てられています。一般神社の神明造りと区別されています。屋根は切り妻造りの平入で萱(かや)で葺いています。柱は掘立、全て直線的です。
 棟には鰹木が9本列び(内宮は10本です)、その東西両端、破風板の先端が屋根を貫いて、千木(ちぎ)になっています。棟上に堅魚木(かつおぎ)をおき、妻の上にはV字型に千木(ちぎ)を出しています。千木の先端は内宮は水平なのに対し外宮では垂直に切られています。


風宮
かぜのみや
 風宮は土宮の東方、向かい側にある外宮の別宮です。風の神、級長津彦命(しなつひこのみこと)、級長戸辺命(しなとべのみこと)を祀っています。農業に深い関係のある風と雨の順調をお祈りする。
 風宮ははじめは多賀宮へと続く参道沿いにあった小さな社だったそうです。弘安4年(1281)の元冦に際して蒙古の敵軍を全滅に至らしめた神威の発顕によって内宮の同じ御祭神をもつ風日祈宮とともに一躍別宮に加列されるようになったそうです。


土宮
つちのみや
 土宮は亀石の橋を渡ると右手に見えるお宮で、多賀宮への参道の右側にあります。 外宮の別宮で、外宮宮域の地主の神である大土御祖神(おおつちみおやのかみ)を祀っています。
 平安時代末期の崇徳天皇の大治3年〈1128〉に宮川治水、堤防の守護神として別宮に加列されたそうです。氾濫による被害が相次ぎ宮川堤防の守護神ということに重きが置かれたものと推察されます。その結果、祈年祭、月次祭、神嘗祭の際、官幣に預かることになったようです。


多賀宮
たかのみや
 多賀宮は小高い檜尾山上にある外宮第一の別宮です。98段の石階をのぼると檜尾山に南面して建っています。豊受大御神荒御魂(とようけおおみかみのあらみたま)を祀っています。
 多賀宮と荒祭宮は各祭典とも正殿に引き続いて行なわれる格式が高い別宮です。正殿に続いて勅使が参向せられ、奉幣の御儀が行なわれるそうです。丘の上の高いところにお鎮まりになっていることから、明治以前は、高宮とも書かれたそうです。


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