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大阪の旅と歴史
大阪の旅    大阪市

大阪城
おおさかじょう
大阪府大阪市中央区大阪城
Tel 06-6941-1144


 大阪城は豊臣秀吉が天下統一の後、天正元年(1573)に着工しました。12年の歳月をかけて天正13年(1585)完成させました。日本3大名城の一つで、城跡一帯は、国の特別史跡に指定されています。また、大手門 、塀、櫓など13もの建造物が国の重要文化財に指定されています。
 秀吉は5層の天守閣を中心に大城郭を築いたのでした。大手門、多聞櫓、千貫櫓が立ち、西の丸庭園が広がっています。南の堀際には一番櫓、六番櫓が往時の面影を偲ばせます。
 明応5年(1496)本願寺蓮如(第8世)が今の大阪城付近の石山に坊舎を営んだのが始まりです。この坊舎は大阪本願寺と呼ばれる大寺院となりました。
 周囲に深い堀と高い塀、50もの出城を備えた一大城郭となり、大いに権勢を奮いました。
 11世顕如の時、織田信長との間に11年間にもわたる石山合戦が勃発しました。信長は朝廷に取入り、朝廷の仲介により本願寺を紀伊に移転させたのでした。その際、寺の伽藍など全焼したということです。
 信長は甥の津田信澄・丹羽長秀に命じて本願寺の跡地に新城を築かせようとしましたが、本能寺の変で亡くなってしまいました、その遺志を継いだ豊臣秀吉は天正11年(1583)この要衝の地に大阪城を築こうと決意しました。
 完成に1年半を要した本丸は、大友宗麟が三国無双と称えたように豪壮な城郭でした。石山本願寺跡の台地を造成し、石垣を積んで築かれました。秀吉が死去するまでに二の丸、三の丸、総構えが建設され、三重の堀と運河によって囲むなど巧妙な防衛設備も施されました。
 秀吉没後、嫡子・秀頼が入城しましたが関が原の合戦で石田三成が敗れ、豊臣氏は一大名に成り下がってしまいます。慶長20年(1615)大坂夏の陣で兵火にかかり全焼してしまったのです。
 その後、大坂城は家康の外孫松平忠明に与えられましたが、2代将軍徳川秀忠は元和5年(1619)幕府直轄領(天領)に編入し、翌年から大坂城の再建に着手しました。3期にわたる工事を経て寛永6年(1629)完成させました。
 寛文5年(1665)落雷によって天守閣は焼失し、以後は江戸時代を通じて天守閣は再建されなかったそうです。
 慶応4年の鳥羽・伏見の戦いで幕府軍は敗北し、大阪城にいた徳川慶喜は船で江戸へ逃亡しました。城は新政府軍に開け渡されたのですが、この混乱による出火で城内の建造物のほとんどが焼失してしまったそうです。
 昭和3年(1928)、当時の大阪市長關一は、天守の再建を提案し、集められた市民の募金150万円によって陸軍第四師団庁舎移転と天守建設がすすめられました。鉄筋コンクリートの天守閣は昭和6年(1931)完成し、平成9年(1997)大規模な改修が行なわれて今日に至っています。


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