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大阪の旅と歴史
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四天王寺
してんのうじ
大阪府大阪市天王寺区四天王寺1−11−18
Tel 06-6771-0066


 荒陵山(あらはかさん)四天王寺は、聖徳太子建立七大寺の一つとされています。本尊は救世観音(ぐぜかんのん)です。「金光明四天王大護国寺」(こんこうみょうしてんのうだいごこくのてら)ともいわれます。
 「日本仏教の最初の寺」として、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、昭和21年(1946)より和宗総本山となっています。
 日本書紀によると、物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、 自ら四天王像を彫り 「勝利のあかつきには四天王を安置する寺院を建立するという誓願をして、勝利の後、推古天皇元年(593)に誓願通り建立したそうです。
 この時、仏法修行の道場である金堂を敬田院、身寄りのない者や年老いた者を収容する悲田院 、病者に薬を施す施薬院、病気の者を収容し、病気を癒す療病院の四つの施仏教の根本精神の実践の場として、社会救済事業を行なったようです。
 伽藍配置は「四天王寺式伽藍配置」 といわれ、南から北へ向かって中門、五重塔、金堂、講堂を一直線に並べ、それを回廊が囲む形式です。日本では最も古い建築様式の一つです。
 四天王寺の西門が西方極楽浄土の東門(入口)であるという信仰から、浄土信仰の寺としての性格も加えていったそうです。
 太陽の沈む「西」は死者のおもむく先、すなわち極楽浄土のある方角と信じられ、四天王寺の西門は西方の海に沈む夕陽を拝する聖地として、貴賎道俗の参拝客で賑わったそうです。
 天正4年(1576)織田信長の兵火にあい、諸堂宇を焼失しましたが、豊臣秀吉が母大政所の3回忌追善のため再建しました。
 慶長6年(1606)には秀頼が寺領千石を寄進、元和年間には徳川秀忠が寺領1177石の朱印状を与えています。
 享和元年(1801)の落雷で焼失し、文化9年(1812)に再建されました。この時の伽藍が近代まで残っていましたが、昭和9年(1934)の室戸台風で五重塔と中門が倒壊、金堂も大被害を受けました。
 五重塔は昭和14年(1939)に再建されましたが、昭和20年(1945)の大阪大空襲で他の伽藍とともに焼失してしまいました。現存の中心伽藍は戦後の昭和32年(1957)から再建にかかり昭和38年(1963)に鉄筋コンクリート造りで完成したものです。
 国の重要文化財には元和9年(1623)に建てられた六時堂、「日本三舞台」の一つとされる石舞台、元和3年(1617)徳川秀忠が再建した五智光院と本坊方丈、江戸時代初期に建てられた元三大師堂、永仁2年(1294)の石鳥居、本坊西通用門など多数あります。


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