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奈良の旅と歴史
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彦根城
(別名・金亀城)
ひこねじょう
滋賀県彦根市金亀町
Tel 0749-22-2742


 彦根城は彦根駅の西方にある海抜136mの金亀山(彦根山)にあります。この山には金の亀に乗った観音像が安置されており、金亀城とも呼ばれました。山頂付近の本丸を中心に西の丸、太鼓丸、鐘の丸があり、麓には二の丸、三の丸を配しました。琵琶湖の水を引き込んだ3重の堀がある堅固な構えで、連郭式平山城の名城とされました。
 井伊直政は、慶長6年(1601)徳川家康から18万石を与えられ、石田三成の居城であった佐和山城に入りました。新しい城の築城を考えていましたが他界し、跡を継いだのは嫡男の直継でした。若年だったため、家康の意向で、家老を中心に慶長8年(1603)、彦根城の建設に着手しました。
 豊臣秀頼が大阪城にいて、西国には豊臣恩顧の諸大名がいた事から、中間地点に徳川方の城を早急に築く必要がありました。築城には公儀御奉行3名が付けられ、尾張、越前、伊賀、伊勢、美濃、飛騨、若狭の7ヶ国12大名が作事を命じられる天下普請でした。
 短期間で築くため、天守閣は京極高次の大津城の天守閣、太鼓門櫓は佐和山城の城門、天秤櫓は長浜城の大手門、西の丸三重櫓は小谷城の天守閣を移築たといわれています。慶長11年(1606)には天守を完成させ、応急の築城を成し遂げました。
 慶長19年(1614年)の大坂の陣で、家康は直継の異母弟の直孝を井伊軍の大将に指名し、大坂冬の陣の後、直孝に正式に井伊氏の家督を継がせ、直継は上野国安中藩3万石の当主としました。2代彦根藩主になった直孝は御殿などを築き、元和8年(1622)に彦根城を完成させました。
 彦根城は築城から明治の廃藩置県まで、一度の領主替えもなく井伊氏14代が在城し続けました。彦根城の天守は国宝に指定され、佐和口多聞櫓、馬屋、天秤櫓、西の丸3重櫓及び続櫓が国の重要文化財に指定されています。城内は彦根城跡として国の特別史跡で、日本100名城に選定されています。


彦根城天守(国宝)
 彦根城の天守は本瓦葺きの3階建て、3重の建物です。屋根は切妻破風(きりづまはふ)、入母屋破風、唐破風(からはふ)」を多様に配し、1階は突揚戸(つきあげど)、2階と3階には花頭窓(かとうまど)、3階には高欄付きの廻縁(まわりえん)を巡らせています。天守の部材に残る墨書によって慶長11年(1606)に天守は完成したことが明らかになっています。
彦根城天守
 彦根藩主井伊家の歴史を記した「井伊年譜」に、「天守は京極家の大津城の殿守也」と記されています。彦根城の天守は大津城天守を移築したものなのです。昭和30年(1955)の修理の際に柱・梁・桁等に移築した形跡があると認めています。大津城天守は4重5階で1階と2階、4階と5階に通柱を持つ真壁造の天守であったようです。
彦根城天守
 彦根城の天守は独立天守で北西隅に附櫓が付き、これから東へ長い多聞櫓が連なっています。天守と附指定で櫓及び多聞櫓が、昭和27年(1952)に国宝に指定されています。北面の東寄りには玄関があり、石垣内の地下入口に通じています。
彦根城天守
 天守の構造は通し柱を用いないで、各階ごとに積み上げていく方式をとっていて、全体として櫓の上に高欄を付けた望楼を乗せる古い形式を残しています。牛蒡積(ごぼうずみ)と呼ばれる石垣は自然石を使い、重心が内下に向くように作られています。外見は粗雑な感じですが頑丈な積み方です。
彦根城天守

彦根城西の丸三重櫓及び続櫓(国重文)
 西の丸三重櫓は、本丸に隣接する西の丸の西北隅に建っています。そして西に張り出した出曲輪(でぐわ)との間に設けられた深い堀切(ほりぎり)(尾根を切断して造られた空堀)に面して築かれています。浅井長政の小谷城から移築された建物といわれ、昭和26年(1951)に続櫓とともに国の重要文化財に指定されています。
西の丸三重櫓
 西の丸三重櫓は本瓦葺きの3階建て、3重の建物で、東側と北側にそれぞれ1階の続櫓を「く」の字に付設しています。装飾的な破風などはなく、櫓全体を総漆喰塗りとし簡素な気品のある櫓です。隅櫓1階は入側柱と中央に中柱が立ち、2階は中柱のみ、3階は中柱もなく、各1室です。西の搦手(からめて)方面からの敵に備えた守りの要の役割を担いました。。
西の丸三重櫓

彦根城二の丸佐和口多聞櫓(国重文)
  「いろは松」に沿った登城道の正面に佐和口(さわぐち)があります。南の京橋口、西の船町口、北の長橋口とともに濠に面した4つの門の1つで、大手の京橋口とともに彦根城の重要な城門の1つです。二の丸佐和口多聞櫓は佐和口に向かって左翼に伸びており、その端に2階2重の櫓が建ち、多聞櫓に連接しています。
佐和口多聞櫓
 佐和口多聞櫓の内側は、扉以外には窓もなく、漆喰で塗り込められています。外側には窓や狭間を多く設けた攻撃的な造りです。昭和26年(1951)に国の重要文化財に指定されています。彦根城が完成した元和(げんな)8年(1622)に建立されていましたが、明和4年(1767)火災に遭いました。現在の建物は明和8年(1771)に再建された建物で、一部、昭和35年(1960)に復元された部分を含んでいます。
佐和口多聞櫓

彦根城天秤櫓(国重文)
 彦根城の天秤櫓は大手門と表門からの道が合流する要の位置に築かれた櫓です。太鼓門から一段下った位置に東面して建ち、天秤のように左右対称になっています。上から見ると「コ」の字形をしています。両隅に2階建ての櫓があり中央に門があります。秀吉が築いた長浜城から移築したもので、慶長年間(1596-1614)に建てられています。
彦根城天秤櫓
 嘉永7年(1854)に大規模な修理が施され、建物のみならず石垣まで積み替えています。右手の高石垣が、越前の石工たちが築いたと伝える築城当初の牛蒡積(ごぼう)みの石垣です。そして、左手が幕末に積み替えた切石の「落し積み」です。天秤櫓は昭和26年(1951)に国の重要文化財に指定されています。
彦根城天秤櫓

彦根城太鼓門及び続櫓(国重文)
 彦根城の太鼓門及び続櫓は昭和26年(1951)に国の重要文化財に指定されています。太鼓門は単層、切妻造り、本瓦葺き、脇戸付櫓門で、東端が続櫓につながっています。続櫓は単層、入母屋造り、本瓦葺きの櫓です。石田三成が城主であった佐和山城から移築されたといわれ、慶長時代(1596-1614)に造られたと推察されます。
彦根城太鼓門
 太鼓門は本丸への最終関門にあたる重要な櫓門で、城中合図の太鼓を置いたことから太鼓門と呼ばれます。城門は両脇の石垣に渡された冠木(かぶき)中央に両開きの大扉があって、北側の脇間には片開きの潜戸(くぐりど)が設けてあります。太鼓門の垂木が白漆喰塗の角形に対し、続櫓では波形に塗りこまれています。
彦根城太鼓門

彦根城馬屋(国重文)
 彦根城の馬屋は二の丸佐和口門の中に入った所にあります。東西棟は間口25.2m、奥行5.9m、単層、入母屋造り、井戸屋形附属、こけら葺きです。南北棟は間口31.1m、奥行5.9m、単層、南面入母屋造り、こけら葺きで北面が東西棟に接続しています。元禄時代(1688-1703)に建てられていて、昭和38年(1963)に国の重要文化財に指定されています。
彦根城馬屋
 明和4年(1767)に佐和口多聞櫓が焼失した時に、罹災しましたが、多聞櫓の復興とともに修理されています。この時にこけら葺きの上に桟瓦をのせました。昭和42年(1967)の修理の時、このこけら板が当初のものとわかり、元禄頃の建立と判明しました。城郭の附属施設としての馬屋は、唯一の遺構で他に例がないそうです。
彦根城馬屋

彦根城表門橋
 彦根城の表門橋は佐和口二の丸から本丸へ内濠にかかる橋です。平成16年に再建されました。橋の先の冠木門があった場所は、石垣だけが残されています。この上には月見櫓もあったそうです。
彦根城表門橋

彦根城時報鐘
 時報鐘は太鼓門近くの高台にあります。城下にも響くようにと鐘の丸から移されたそうです。江戸時代の絵図には「鐘突所」と記されています。現在の鐘は愛知郡長村(東近江市長町)の鋳大工黄見新左衛門ら5人により制作されたもので、弘化元年(1844)に12代藩主井伊直亮が発注したそうです。今も定時に鐘が撞かれ「日本の音風百景」に選ばれています。
彦根城時報鐘

家老脇家屋敷跡
 表門橋の手前に家老だった脇家屋敷跡があります。海鼠壁の長屋門でかなり荒れ果てている感じです。脇家は、家老の一家として彦根藩に仕えました。 初代の脇豊久は武田家に仕え、武田家滅亡後徳川家康に仕え、井伊直政に預けられました。井伊家では2千石の知行で家老職を任されたそうです。
家老脇家屋敷跡

彦根城鐘の丸
 彦根城太鼓櫓門下にある時報鐘は築城当初は鐘の丸にありました。この付近には大広間御殿と御守殿も建てられていました。大広間御殿は享保17年(1732)に彦根藩江戸屋敷の広間として移築されています。
彦根城鐘の丸

井伊直弼像
 井伊直弼の銅像は彦根城金亀児童公園の中に建てられています。直弼は11代彦根藩主井伊直中の14男として生まれました。安政5年(1858)、幕府の大老となり「日米友好通商条約」に調印して開国を断行しました。しかし反対派によって万延元年(1860)に桜田門外で暗殺されました。46歳の若さでした。この銅像は、最後の官職だった正四位上左近衛中将の正装を映したものです。
井伊直弼像

花の生涯記念碑
 花の生涯記念碑は、昭和39年(1964)に建立されました。作家・舟橋聖一が大老井伊直弼の波乱に富んだ一生を描いた「花の生涯」を発表し評判になりました。NHK大河ドラマ「花の生涯」も放映され大ブームになり、記念碑が生まれました。
花の生涯記念碑

遠城謙道石碑
 井伊直弼像の近くに遠城謙道の石碑があります。謙道は彦根藩士で遠城平右衛門といいました。桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されたことを悼み、清涼寺で仏門に入り、謙道と改め、37年もの間、江戸・井伊家の菩提寺、豪徳寺に移り、終生読経をして霊を慰めたそうです。
遠城謙道石碑


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