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奈良の旅と歴史
滋賀の旅    長浜市木之本町

賤ヶ岳
しずがたけ
滋賀県長浜市木之本町大音1366


 賤ヶ岳は標高422mとそれほど高くはありませんが「新雪ー賤ヶ岳の大観」として琵琶湖八景の一つに数えられます。
 北に余呉湖、南に琵琶湖を見下ろし、伊吹山や比良山の山並みも一望できます。かつて、この山中において「賤ヶ岳の合戦」が繰り広げられ、歴史にその名をとどめています。 
 山崎の戦いで明智光秀を討った羽柴秀吉は、織田家中で大きな発言権を持つようになりました。
 織田信長の後継者を決定する会議が清洲城で開かれ(清洲会議)、信長の三男・織田信孝を推す柴田勝家と織田信忠の子である三法師(のちの織田秀信)を推す羽柴秀吉との間で激しく対立しました。
 同席した丹羽長秀・池田恒興らが三法師擁立に賛成したためにこの後継者問題はひとまず決定しましたが、勝家や信孝らは秀吉のその後の行動に対し激しく警戒し、反抗しました。
 勝家は天正11年(1583)4月、北近江に出陣しました。岐阜城にいた織田信孝が兵を挙げたため、秀吉本隊は岐阜に向け進撃しました。これを好機と見た勝家は部将・佐久間盛政の進言で、4月19日、盛政に直ちに大岩山砦を攻撃させました。
 中川清秀が大岩山砦を守っていましたが、耐え切れず陥落、討死しました。さらに岩崎山に陣取っていた高山右近も支えきれずに退却し、木ノ本の羽柴秀長の陣所に逃れました。
 賤ヶ岳砦の守将、桑山重晴も撤退しはじめました。丁度船によって琵琶湖を渡っていた丹羽長秀軍2千が桑山軍と合流し、賤ヶ岳周辺の盛政の軍勢を撃破し、間一髪の所で賤ヶ岳砦の確保に成功しました。
 大岩山にとどまっていた佐久間盛政の部隊が退却を開始したのを知り、秀吉の子飼いの武将七人衆が、どっと斬りこみ一番槍の功をたてたのです。
 これは「賤ヶ岳の七本槍」とよばれ後世に名を残しました。福島正則を隊長として、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、片桐且元、平野長泰、糟野武則の若武者達でした。盛政は敗れ、勝家軍も総くずれとなって北ノ庄城へ逃げました。その三日後、勝家が自刃し戦いは終結しました。


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