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奈良の旅と歴史
滋賀の旅    大津市

比叡山延暦寺
ひえいざんえんりゃくじ
滋賀県大津市坂本本町4220
Tel 077-578-0001


 延暦寺は、日光輪王寺、東叡山寛永寺とともに天台宗門の3大本山の1つです。杉木立にかこまれ、荘厳なたたずまいをみせる延暦寺からは、かずかずの名僧がを輩出されました。
 比叡山には延暦寺という名の建物はありません。比叡山そのものが延暦寺を表わしているのです。その寺域は広大で、標高848mの比叡山の山中に数百の建物があり、東塔(とうどう)・西塔(さいとう)・横川(よかわ)の三地域に分かれています。
 延暦7年(788)、比叡山の山頂に、唐から帰国した伝教大師最澄が、一乗止観院という草庵を建て、最澄自ら彫り込んだ薬師如来像を安置したのが始まりです。延暦12年(794)、桓武天皇が京都に遷都しました。比叡山は京都から鬼門となる北東になるため、翌年、鬼門鎮護の霊場となりました。
 延暦25年(806)には大乗戒壇が設立されて天台宗が開宗、最澄没後の弘仁14年(823)嵯峨天皇より延暦寺の寺号を賜りました。円澄が西塔、円仁が横川を開き、東塔(根本中堂)と合わせて三塔が出来上がりました。比叡山の山内は3塔16谷に3千坊を擁する大寺と発展します。
 叡山中興の祖・良源、融通念仏宗の開祖・源信、浄土宗の開祖・法然、浄土真宗の開祖・親鸞、臨済宗の開祖・栄西、曹洞宗の開祖・道元、日蓮宗の開祖・日蓮など輩出しています。円仁と円珍もすぐれた僧でしたが同時期に輩出したため対立し、円珍は三井寺(園城寺)に入り抗争が続きました。
 僧兵など約4千人をかかえていた延暦寺は、強大な力を恐れた織田信長によって、元亀2年(1571)全山が焼き討ちにされました。この時、延暦寺は根本中堂をはじめ大半の建物を失いました。僧侶や僧兵、信者などが斬殺され境内は荒廃しました。
 その後、豊臣秀吉の時代になると再興が許され、多くの堂宇が再建されました。徳川家康もこの政策を引き継ぎ、再建に尽力しました。3代将軍家光は根本中堂を再建し、天海僧正は再興に力を貸したほか、江戸の鬼門鎮護の目的で上野に東叡山寛永寺を創建しました。それからは宗務の実権は江戸に移っていきました。
 延暦寺は国の史跡に指定されています。中心寺院の根本中堂は国宝です。根本中堂回廊、戒壇院、大講堂、大書院、釈迦堂、にない堂(法華堂と常行堂)、転法輪堂、瑠璃堂、相輪とうなどが国の重要文化財に指定されています。
 根本中堂には「不滅の法灯」が1200年の間、輝きつづけています。平成6年(1994)12月に「古都京都の文化財」の一つとして世界文化遺産登録されました。


延暦寺東塔地区
 東塔は延暦寺発祥の地です。伝教大師最澄が延暦寺を開いた場所です。総本堂である根本中堂をはじめ、各宗各派の宗祖を祀っている大講堂、先祖回向のお堂である阿弥陀堂など重要な堂宇が集まっています。戒壇院、文殊楼、大書院、大黒堂、法華総持院(阿弥陀堂、灌頂堂、東塔)、国宝殿などがあります。

大講堂(国重文)
 大講堂(だいこうどう)は、比叡山では根本中堂と共に最も重要な建物です。単に講堂とも呼ばれますが、横川の四季講堂などと区別するため「大講堂」といわれています。第一世天台座主の義真和尚によって建立されています。僧侶が法華経の講義を受けたり、お互いの問答をして勉強に励む学問修業の道場です。
大講堂
 ことに古来比叡山の行事で慈恵大師以来5年目ごとに行なわれる「法華大会(ほっけだいえ)広学竪義(こうがくりゅうぎ)」は僧侶になる登竜門として現在に引き続いています。法華大会は「法華十講」ともいわれ、法華経8巻に無量義経1巻・観普賢経1巻をあわせた、(いわゆる「法華三部経」)10巻を講説する法会です。
大講堂
 法華十講は古来、伝教大師最澄の忌月である6月に行なわれる「六月会(みなづきえ)」と、天台大師の忌月に行なわれる「霜月会(しもづきえ)」が実施されてきました。
大講堂
 大講堂の本尊は大日如来です。脇には聖徳太子、桓武天皇が祀られています。比叡山で学んで一宗の開祖となった法然、親鸞、栄西、道元、日蓮など各宗祖の木像も安置されています。
大講堂
 大講堂の創建は天長元年(824)と伝えられています。創建以来9度の火災に遭っています。前の大講堂は壮大な建物として知られ国の重要文化財に指定されていました。しかし、昭和31年(1956)に焼失しまったのです。
大講堂
 昭和38年(1963)に山麓にあった坂本の東照宮の本地堂を移築したのが現存の大講堂です。寛永11年(1634)に建てられた建物です。
大講堂
 大講堂は間口7間、奥行6間、単層の銅板葺き、入母屋造りの仏堂で正面に3間の向拝をもっています。外観は落ち着いた穏やかな姿を見せ、内部の仏壇のまわりは華やかな彫刻で飾られています。
大講堂
 大講堂は和様を基調とした端正な意匠でまとめられ、寛永の建築として価値あるものと認められ、昭和62年(1987)に「延暦寺大講堂(旧東照宮本地堂)」として国の重要文化財に指定されています。
大講堂

開運平和の鐘
 大講堂の前庭に鐘楼があります。この鐘は伝教大師の高弟光定が天長4年(827)に鋳造したものです。その後、徳川時代の初期に再鋳されています。一山の大事や、僧侶の問答の際に時金として用いられているそうです。
開運平和の鐘
 この鐘は大晦日の除夜の鐘として有名で、「開運平和の鐘」と呼ばれています。昭和62年(1987)8月に開かれた「比叡山サミット」で世界中から集まった8大宗教の代表の方々の前で鳴らされ世界平和を皆で祈りました。
開運平和の鐘

己講坂
 大講堂前に石段の坂があります。己講坂(いこうざか)と呼ばれています。5年に一度大講堂で行われる法華大会の講師をつとめる役は己講(いこう)という天台職位最高の「探題」に次ぐ「探題次」がなります。
己講坂
 己講のみがこの坂を殿上輿(てんじょうこし)に乗って、問答往復の想をねりながら登り、ここの菩提樹の元で意を決して入堂するそうです。近くには菩提樹があり、釈迦が菩提樹の下で悟りを開いたという故事に習っているそうです。
己講坂

戒壇院(国重文)
 戒壇院は東塔の拝観口から奥に入って右手の高台の上に建っています。ここは僧侶になるための受戒の儀式が行われる場所です。天長5年(828)、第1世義真座主が大乗戒(規律)を受ける施設として建立したと伝えられています。
戒壇院
 戒壇院は延宝年間(1673-1680)に再建された建物です。間口3間、奥行3間、栩(とち)葺き、宝形造り、正面に軒唐破風があり、2階建てのように見えますが一重もこしがある単層の建物です。
戒壇院
 和様と唐様が混在した形式を持ち、床は石畳で石造の戒壇が設けられています。内陣には得戒和尚釈迦牟尼仏と文殊菩薩像、弥勒菩薩像が安置されています。延暦寺戒壇院として明治34年(1901)に国の重要文化財に指定されています。
戒壇院

根本中堂(国宝)
 根本中堂は最澄が建立した一乗止観院の跡に建っています。延暦寺一山の総本堂です。一乗止観院は薬師堂、文殊堂、経蔵の3棟を総称したものです。中心的な建物である薬師堂が3棟の中央にあったため、後に根本中堂と呼ばれるようになったそうです。
根本中堂
 現在の根本中堂の建物は寛永17年(1640)に徳川3代将軍家光によって再建されたものです。間口11間、奥行6間、単層、入母屋作り、銅瓦棒葺きの壮麗な建築物で、三方を廻廊(かいろう)でめぐらしています。 滋賀県内では最大の仏堂です。
根本中堂
 廻廊は間口折曲り41間、奥行2間、栩(とち)葺き、両下造り、正面前後軒唐破風が付き、両側面車寄各唐破風造りです。根本中堂と同じ寛永17年(1640)に造られています。延暦寺根本中堂廻廊として明治32年(1899)に国の重要文化財に指定されています。
根本中堂
 根本中堂の内部は外陣、中陣、内陣に分かれています。外陣より内陣が低い位置に設けられています。外陣は礼堂として板敷にしていて、内陣は土間になっています。これは天台宗の本堂建築の特徴です。中陣には格天井があります。鮮やかに極彩色で描かれていて、華やかな中に格式が感じられます。
根本中堂
 内陣須彌壇の上、中央の厨子内に最澄上人が自ら彫り込んだと伝わる秘仏の本尊薬師如来が安置されているといわれています。まわりには日光菩薩像、月光菩薩像、十二神将像などが安置されています。延暦寺根本中堂は昭和28年(1953)に国宝に指定されています。
根本中堂
 中陣に立ち並ぶ円柱の間に手すりがあり、内陣と空間的に分離されています。仕切格子から暗い内陣をのぞき込むと明かりが灯っています。これが延暦寺創始以来1200年間消えたことがないという「不滅の法灯」です。
根本中堂
 「不滅の法灯」は織田信長により根本中堂が焼き払われた時がありました。この時は山形の立石寺(山寺)に根本中堂から分灯されていた「法灯」を持ってきて「不滅の法灯」を継続させたそうです。
根本中堂

文殊楼
 根本中堂正面の急な石段を上がったところに「文殊楼」が建てられています。貞観8年(868)、慈覚大師が常座三昧の修行を行なう道場として建立されたのが始まりです。
文殊楼
 比叡山の総門としての重要な役割を果たす重層和唐の混合様式の楼門です。寛永19年(1642)徳川家光により再建されました。寛文8年(1668)に焼失しすぐ再建されました。創建は根本中堂と同じくらい古いのですが再焼失したあとのものは一回り小さくなっているそうです。
文殊楼
 急勾配の階段を上がった楼上には学者の神様である「知恵の文殊菩薩」が祀られています。学業成就のご利益があるそうです。階段は2カ所ありますが直立に近い階段ですので行き違いもできないくらい狭いです。
文殊楼
 桁行3間、梁間2間、二重、入母屋造り、銅板葺きの構造です。全体的には唐様が取り入れられていますが、古い和様も入れてあり折衷様式になっています。昭和48年(1973)に大津市指定文化財に指定されています。
文殊楼

大黒堂
 東塔の総合案内所の向かい大黒堂があります。伝教大師が根本中堂を建てられる折、守護神として大黒天を祀り一山の平安と一般庶民の財福を祈ったのが始まりだそうです。かっては政所、食堂ともいわれていたそうです。本尊の大黒天は、「三面出世大黒天」といわれ、大黒天と毘沙門と弁財天が一体になった姿をしているといわれています。
大黒堂
 豊臣秀吉も開運と福徳を祈願したといい伝えられています。一名「出世大黒天」といわれ、商売繁盛、五穀豊穣などのご利益があるとされ、人々に深く信仰されているようです。
大黒堂

延暦寺大書院
 大書院は根本中堂の東にあります。大書院はもとは東京赤坂にあった村井氏の山王荘の一部で、昭和3年(1928)比叡山開創1150年を記念して設けられた延暦寺の大本坊です。京都大学名誉教授であった武田五一博士が設計しています。棟梁は小林富蔵でした。唐破風の車寄を持つ玄関棟、旭光の間と呼ぶ大客室棟、観月台を持つ2階建の居間棟から構成されています。
大書院
 大書院は木造2階建て、瓦一部銅板葺き、建築面積839平方mの洗練された書院造りで、技術的にも優れた質の高い和風建築です。 昭和51年(1976)に天皇、皇后両陛下の行幸の際、休息所に当てられています。内外の要人の多くをここで迎えているそうです。大正8年(1919)頃に新築されている建物で、延暦寺大書院として国の登録有形文化財に指定されています。
大書院

星峯稲荷社
 星峯稲荷社は文殊楼の北側に建てられています。本尊の茶枳尼(だきに)天は辰孤王菩薩です。形相に6臂あり、これは6道(地獄、飢餓、畜生、修羅、人、天上)の衆生を利益教化するしるしでした。大黒堂の甲子会の法要が終わった後に、星峯稲荷社で護摩焚供養が行われるそうです。
星峯稲荷社

法華総持院
  戒壇院から上手に進んだ場所に法華総持院があります。東塔、灌頂堂、阿弥陀堂があり、これらを総称して法華総持院と呼んでいます。ここでは宗派を問わず先祖の回向が受けられます。
法華等持院

法華総持院東塔
 法華総持院東塔は鮮やかな朱色に塗られています。貞観4年(862)、慈覚大師円仁によって創建されました。中国の長安青龍寺の鎮国道場の形態を模して建てられ、胎蔵界の五仏を本尊として安置し、天台密教の根本道場としました。元亀2年(1571)の織田信長の比叡山焼討ちにより焼失し、その後、再建されていませんでしたが、昭和55年(1980)に400年ぶりに再建されました。
法華総持院東塔

法華総持院阿弥陀堂
 法華総持院の阿弥陀堂は昭和12年(1937)に行われた、比叡山開創1150年を記念して建立されました。阿弥陀堂は、滅罪回向の道場として全国信徒各家の御霊を祀り、日々不退に念仏回向する道場です。間口5間、奥行5間の方五間の正方形の建物で、鎌倉初期の手法を凝らした純和様式です。
法華総持院阿弥陀堂

浄土院
 浄土院は伝教大師最澄の御廟で、全山で最も神聖な場所とされています。今でも「十二年籠山行」を行う「待真」という僧が、最澄大師が今も生きておられるがごとく、お給仕を続け、定められた勤行や修法を実践しています。徹底的に掃除する厳しさは「掃除地獄」とも言われ、励んでいる厳しさが伝わってきます。午前2時からの勤行に始まって、夕方の勤行まで厳しい修行が続きます。
浄土院
 弘仁13年(822)6月4日、最澄は中道院で亡くなりました。遺体は浄土院に運ばれ荼毘に付したそうです。それ以後、浄土院は最澄の廟所としての地位を有しています。浄土院は信長の叡山焼打ちによって灰燼に帰し、江戸時代に再建されました。御廟所は、間口3間、奥行3間、宝形造りの銅板葺きです。外観は礎盤・台輪・火頭窓が備わった禅宗様建築です。
浄土院

国宝殿
 延暦寺には建造物も入れて10件の国宝、64件の重要文化財があります。建造物を除く彫刻、絵画、書跡などは、大講堂の北側に建てられている「国宝殿」で随時公開されています。最澄の唐での通行許可書にあたる「伝教大師入唐牒」などが含まれています。
国宝殿


延暦寺西塔地区
 西塔は東塔から北へ1kmほどのところにあり、椿堂からが西塔になります。静かな修行の地で、本堂にあたる釈迦堂(転法輪堂)が中心になっています。椿堂、にない堂(常行堂と法華堂)、恵亮堂、相輪とうなどが静寂な空気に包まれた美しい杉木立の中に点在しています。

椿堂
 椿堂(つばきどう)は南谷の参道の下にあるお堂で、聖徳太子が開基したといわれています。本尊は千手観音菩薩です。昔、椿堂は安養堂といわれていました。聖徳太子が比叡山に登ったときに、使った椿の木の杖をここにさして置きました。すると、その椿が芽を出し大きく育ったところから、椿堂といわれるようになったそうです。
椿堂
 元亀2年(1571)、織田信長の比叡山焼討ちで椿堂は全焼しましたが、大泉坊乗慶は本尊を守って山を降り、三井寺に隠しました。天正年間(1573-1596)に同じ場所に再興され、豊臣秀吉の命で闕所(けっしょ、寺域の没収)となった三井寺の廃材で再建されたそうです。その後老朽化したため、元禄17年(1704)に新たに再建されています。
椿堂
 この椿堂は四種三昧(ししゅざんまい)の一つ、常坐三昧を実施するための堂となっています。四種三昧には常坐三昧・常行三昧・半行半坐三昧・非行非坐三昧があります。常坐修行は90日間を一期として一日も休むことなく坐禅して坐り続ける修行です。お堂のかたわらには椿堂にふさわしい、椿の大木があります。
椿堂

にない堂(国重文)
 椿堂の上の参道の北側に「にない堂」があります。常行堂と法華堂という2つの全く同じ形のお堂が並んで建てられており、お堂の間を渡り廊下がつないでいるので「にない堂」と称されています。廊下は間口4間、奥行1間、唐破風造り、栩(とち)葺きの高廊下です。
にない堂
 向かって左の堂が「常行堂」です。本尊は阿弥陀如来で、阿弥陀経を読経して、常行三昧を修行する道場です。現在の建物は元亀2年(1571)の織田信長の比叡山焼き討ち後の文禄4年(1595)に建立されたものです。間口5間、奥行5間、単層、宝形造り、栩(とち)葺きで、1間の向拝があります。
常行堂
 向かって右の堂が「法華堂」です。本尊は普賢菩薩で、法華経を読経して、法華三昧を修行する道場です。現在の建物は元亀2年(1571)の織田信長の比叡山焼き討ち後の文禄4年(1595)に建立されたものです。間口5間、奥行5間、単層、宝形造り、栩(とち)葺きで、1間の向拝があります。
法華堂
 念仏と法華が一体であるという比叡山の教えを表して同じ形の堂が渡り廊下で結ばれているのです。「法華堂」、「常行堂」ともに昭和30年(1955)に延暦寺常行堂及び法華堂として国の重要文化財に指定されています。
にない堂
 「にない堂」では四種三昧行という修行が行われています。常坐、常行、半行半坐、非行非坐からなるといわれ、常坐は90日間、食事とトイレを除き一日も休むことなく坐禅し続ける行です。常行は90日間、本尊阿弥陀如来の周りを歩き続ける行です。法華三昧は、半行半坐のうち、法華経に基づいて行われるものです。
にない堂
 常行三昧というのは、円仁が中国五台山から伝えた行法で、集団より一人の方がよく、一静室や空閑地で、世の中の喧騒から離れます。一つの縄床に座って体を動かさず、結跏正坐して、頭や背中は直立させ、動くことも、揺れることもしないようにするという厳しい修行です。
にない堂

恵亮堂
 恵亮堂(えりょうどう)は恵亮和尚(800-895)を本尊として祀っています。大楽大師といわれ当時比叡山では修力霊験に最も優れた和尚といわれます。
恵亮堂
 間口3間、奥行3間、瓦棒葺き、宝形造りで1間向拝を付けています。装飾が少なく素地造りで、正面の両側の開口部が花頭窓になっています。恵亮和尚は京都の妙法院を創建した人としても知られています。
恵亮堂

釈迦堂 (転法輪堂)(国重文)
 にない堂の渡り廊下をくぐって石段を下りた谷底に、西塔の中心である釈迦堂(転法輪堂)が建てられています。伝教大師最澄が自ら彫ったとされる秘仏の木像釈迦如来立像(国指定重要文化財)が本尊です。参拝客が目にするのは、新しくつくられた御前立(おまえだち)の仏像です。
釈迦堂 (転法輪堂)
  「釈迦堂」は天台様式の典型な堂々とした風格のある建物で、延暦寺に現存する建物の中で最古の建物です。元亀2年(1571)の織田信長の比叡山焼き討ちで、釈迦堂も焼失しました。豊臣秀吉の命で復興に際し、三井寺(園城寺)の弥勒堂を、文禄4年(1596)、ここに移築した建物なのです。
釈迦堂 (転法輪堂)
 三井寺(園城寺)の弥勒堂は、貞和3年(1347)に建てられたものだったので、延暦寺で一番古い建物になったのです。文禄4年(1595)、三井寺は秀吉の怒りに触れ、寺領の没収、事実上の廃寺を命じられ、破却の際、弥勒堂だけが比叡山の西塔に移されたのです。
釈迦堂 (転法輪堂)
 釈迦堂は間口7間、奥行7間、単層、入母屋造り、栩(とち)葺き形銅板葺きの堂々とした風格を持った建物です。正面柱間はすべて戸口になっていて、側面は、前2間が戸口、他は連子窓が板壁、縁が正面と側面の一部に付いています。東塔の根本中堂と同じく仏殿は外陣、中陣、内陣に分かれています。
釈迦堂 (転法輪堂)
 外陣は床張り、内陣に一段低い土間があり、土間の中央に宮殿があり本尊の釈迦如来が安置されています。江戸時代に内外陣境両端間を桟唐戸に改めているそうです。妻飾りは禅宗様ですが、全体的には和様を取り入れた落ち着いた仏堂です。
釈迦堂 (転法輪堂)
 昭和34年(1959)に解体修理されて、復元されましたが、平成10年(1998)9月、台風により釈迦堂裏側の杉の大木が堂の上に倒れ、屋根2ヶ所が大きく損傷しました。その後、屋根の修復工事が行われ、完全に復旧されています。釈迦堂は明治33年(1900)に国指定重要文化財に指定されています。
釈迦堂 (転法輪堂)

仏足石
 仏足石は釈迦が入滅の時に残された足形を石面に刻んだものです。経文に「仏身は金剛にして諸漏あることなく若し行く時、足は地を離るること4寸、千輻輪相の文跡地に現じ足下の諸の虫蟻は7日安穏なり」とあります。
仏足石
 仏さんの足跡に千輻輪相があり歩行の時、地にその相が印されたことから、多くの人々に信仰され仏教が広がったということです。仏足石には輪宝、卍花、双竜などの瑞祥が7種類あるとされています。
仏足石

相輪とう(国重文)
 相輪とうは仏塔の一種です。三重塔や五重塔にある相輪に柱をつけて地上に立てたような形をしています。上部を相輪、下部を柱、つまり「とう」とし、中に写経を納めています。
相輪とう
 現在のものは明治25年(1179)に政鋳が計画されて明治28年(1895)頃に完成した青銅製のものです。この相輪は日本の仏塔では印度の原型に最も近いもので「延暦寺相輪とう」として大正6年(1917)国の重要文化財に指定されています。
相輪とう

鐘楼
 釈迦堂の近くの小高い石段の上に鐘楼が建てられています。切妻造り、銅板葺きで、4隅の柱には左右の支え柱が備えられています。ひっそりとした静寂な空間の中にあり、訪れる人はいない感じです。
鐘楼
 東塔の鐘楼では人が集まっていて、鐘を突いていた人もいましたが、西塔の鐘楼には近寄りがたい雰囲気があります。鐘楼の南側には、恵心僧都源信が、はじめて念仏三昧行を行った日本浄土信仰発祥の地である横川の「恵心院」に行かれます。
鐘楼


横川地区
 横川(よかわ)は西塔の北約4kmのところにあります。本堂にあたる横川中堂が中心となっています。伝教大師最澄の弟子・第3世天台座主慈覚大師円仁によって開かれました。閑寂な修行地で横川中堂のほか、元三大師堂(四季講堂)、恵心院、根本如法塔、行院などがあります。

龍が池弁天
 龍が池弁天と龍神さまの祠があります。その昔、人々を襲う大蛇がいたそうです。元三大師(がんざんたいし)・慈恵大師良源が、これを聞き大蛇に「霊験あらたかな比叡山で人を困らせてはいけない。もし法力をもっていたら見せてほしい」と言ったそうです。
龍が池弁天
 大蛇は自分にできないことはないと答えたそうです。「ならば大きい姿になってみよ」と言うと大蛇は、大きくなり横川中堂をひとまきにしました。
龍が池弁天
 「たいへん見事だ。では私の掌の中に入ることができるか」と言うと大蛇はすぐに一寸足らずの蛇となりました。慈恵大師は「悪事を働くのはよくない」と観音の念力で近くの池へ封じ込めてしまったそうです。これが、蛇が池の由来だそうです。
龍が池弁天

横川中堂
 横川中堂は、首楞厳院(しゅりゅうごんいん)と呼ばれ、横川の中心となる本堂です。嘉祥元年(848)、横川をひらいた伝教大師最澄の弟子・第3世天台座主慈覚大師円仁が創建しました。
横川中堂
 横川中堂に安置されている本尊「木造聖観世音菩薩立像」は平安時代の作と伝えられています。度重なる火災の難を免れ国の重要文化財に指定されています。毘沙門天像も傍らに祀られています。
横川中堂
 元亀2年(1571)の織田信長の比叡山焼き討ちにより、横川中堂も他の多くの堂宇とともに全焼しました。その後、豊臣秀頼、淀君によって再建されていましたが、昭和17年(1942)の夏、雷火で全焼してしまいました。
横川中堂
 昭和46年(1971)、伝教大師入滅1150年遠忌記念として横川中堂は見事復元されました。鉄筋鉄骨コンクリート建て、銅板葺きで、舞台造りです。屋根は遣唐船に似せて船形となっています。当時の面影を残し、昭和の殿堂として、その威容を山中に現しています。
横川中堂
 横川中堂は新西国観音霊場第18番の霊場でもあります。付近は横川全域に西国33所観音石仏めぐりもできる霊域です。 大勢の善男善女の信仰のメッカになっています。
横川中堂

護法石
 護法石は横川中堂の前にある石です。鹿島明神と赤山明神の分霊が宿っていると伝えられています。鹿島明神は比叡山延暦寺の守護神です。赤山明神は比叡山の東麓に鎮座する日吉大社に対して西麓の守護神とされます。
護法石

赤山宮
 赤山宮で祀られている新羅明神は中国の赤山に鎮座していた仏教の守護神でした。第3世天台座主慈覚大師円仁は勅許を得て唐に留学し、中国の赤山にて新羅明神を学びました。
赤山宮
 10年間の厳しい修行を無事終了できたのはこれらの守護神のおかげであるとして、赤山新羅明神を天台仏法守護神として祀り続けています。
赤山宮

根本如法塔
 慈覚大師円仁が根本杉のほこらの中で法華経書写をはじめました。その写経などを納める堂として造られたのが根本如法堂です。のちに、この根本如法堂跡に多宝塔の如法塔が建てられました。現在の美しい塔は、大正4年(1925)に再建されたものです。
根本如法塔



虚子の塔
 高浜虚子は在京の時、比叡山に登り「叡山詣」を書きました。横川中堂の政所一念寺に泊って「風流せん法」を書き比叡山をこよなく愛した俳聖でした。

  清浄な月を見にけり 峰の寺
虚子の塔



鐘楼
 横川中堂の前の参道を真っすぐ進むと横川の鐘楼があります。誰かが鐘を撞いていました。ここから右手に行くと恵心堂、左手には元三大師堂などがあります。
鐘楼


恵心院
 「元三大師堂」の前から南の方向へ数分歩いたところに「恵心院」があります。ここは恵心僧都源信の旧跡で藤原兼家が元三慈恵大師のために建立した寺です。
恵心院
 恵心院の門前に「極重悪人 無他方便唯称弥陀 得生極楽」とあるように、念仏三昧の道場です。恵心僧都源信はここに籠もり仏堂修行と著述に専念しました。 
恵心院
 「往生要集」「二十五昧式」「六道十界ノ図」「弥陀来迎ノ図」などが残されています。恵心僧都源信は、後の浄土宗や浄土真宗などの源となる日本浄土教の基礎を築きました。
恵心院
 毎年6月10日の命日には「二十五三昧式」の講式が唱えられ僧都の報恩法要が営まれています。霧に中に浮ぶ恵心院は落ち着いて修行ができる雰囲気に囲まれています。
恵心院

元三大師堂(四季講堂)
 元三大師堂(四季講堂)は慈恵大師良源の住居跡と伝えられています。「元三大師」とは、正月三日に入滅した良源の大衆的尊称です。慈恵大師は延暦寺中興の祖としてしられ、学識、寺院経営、後継者育成の方面に優れた高僧でした。第18代天台座主として19年間在職しました。
元三大師堂
 四季講堂とも呼ばれるのは、康保4年(967)から村上天皇の勅命で春夏秋冬それぞれの季節に法華経の論議が行われたため称されるようになったといわれています。
元三大師堂
 始めは弥勒菩薩を本尊としていましたが、今は元三大師の画像を本尊として祀って大師信仰の根本道場となっています。人々からは「横川の大師さん」などとも呼ばれています。
元三大師堂
 元三大師堂は間口5間、奥行4間、単層、入母屋造り、瓦棒銅板葺きの建物です。現在の建物は承応元年(1652)、後水尾天皇の勅願により再建されたものです。江戸時代初期に建てられた寺院建築の遺構として滋賀県指定文化財に指定されています。
元三大師堂
 正面中央は双折唐戸(ふたつおりからど)で、その左右に蔀戸と舞良戸をはめています。側面はほとんどが板壁で囲まれた素木造りで、低い縁高欄が周囲を廻っています。
元三大師堂
 現代のおみくじの形は、慈恵大師が考え出したといわれていて、この元三大師堂がおみくじ発祥の地といわれます。今でも、先ず僧侶の前で自分の悩み事を話し、おみくじを授受します。そしておみくじに書いてある内容について10分ほど僧侶から教えを受けるのだそうです。
元三大師堂
 元三大師堂の本堂に向かって左側に建っている建物は旧恵雲院です。右側に建てられている鷄足院は、向かい合っているため2つの堂宇は「向い堂」と呼ばれています。
元三大師堂

比叡山行院
 天台宗の僧尼の養成道場である比叡山行院が元三大師堂の東側にあります。誦経が森の中に響き、厳かな雰囲気です。
比叡山行院

道元禅師得度霊跡
 横川中堂からさらに1kmほどの山の中に道元禅師得度霊跡の記念碑が建てられています。ここは慈恵大師の本坊であった寂静坊の跡地です。道元禅師が得度された場所でもあると得度霊跡由来に記されているのです。延暦寺は天台宗の総本山ですが、曹洞宗を伝えた道元禅師の得度の地でもあります。大正時代に霊跡として整備され記念碑が設置されました。
道元禅師得度霊跡

承陽大師道元之塔
 承陽大師(じょうようだいし)道元之塔が道元禅師得度霊跡の記念碑の近くにあります。道元禅師は13歳で比叡山に入り、横川の千光坊で仏道を学びました。翌年、解脱谷の寂場坊において天台座主公円僧正について得度されました。明治25年に高さ1m程の自然石「承陽大師之塔」が建立されました。
承陽大師道元之塔

箸塚弁財天
 慈恵大師良源(元三大師)が、最澄にならい千僧供養を行いました。その際使用した箸を埋めて弁財天を祀りました。これが箸塚弁財天(はしつかべんざいてん)の始まりです。元亀2年(1571)、織田信長の比叡山焼き討ちで社殿が焼失し荒廃しました。天正14年(1586)に再興された時も千僧供養が営まれました。東塔の無動寺弁財天、西塔の箕淵弁財天と共に比叡山三弁財天の一つに数えられています。
箸塚弁財天


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