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奈良の旅と歴史
滋賀の旅    大津市

三井寺
みいでら
滋賀県大津市園城寺町246
Tel 077-522-2238


 天台寺門宗の総本山である三井寺は正式名称を長等山園城寺(ながらさんおんじょうじ)といいます。再三の兵火や破却にあいましたが再興され、現在も国宝・重要文化財・名園など貴重な寺宝を数多く伝えています。
 平安時代、第5代天台座主・智証大師円珍和尚の卓越した個性によって天台別院として中興され、 東大寺・興福寺・延暦寺と共に「本朝四箇大寺(しかたいじ)」の一つに数えられ、千百余年の歴史があります。
 天智・弘文・天武天皇の勅願により、弘文天皇の皇子・大友多王が田園城邑を投じて建立され、天武天皇より「園城(おんじょう)」の勅額を賜わり、「長等山園城寺」と称したのにはじまります。
 「三井寺」と呼ばれるのは、天智・天武・持統天皇の産湯に用いられた霊泉があり、「御井(みい)の寺」の厳儀・三部潅頂の法水に用いられたことに由来しているからです。
 円珍の死後、円珍門流と慈覚大師円仁門流の対立が激化し、正暦4年(993)、円珍門下は比叡山を下り一斉に三井寺に入ります。この時から延暦寺を山門、三井寺を寺門と称し天台宗は二分されたのです。
 その後、両派の対立や源平の争乱、南北朝の争乱等による焼き討ちなど幾多の法難に遭遇しました。文禄4年(1595)、三井寺は豊臣秀吉の怒りに触れ、闕所(けっしょ、寺域の没収、事実上の廃寺)を命じられました。当時の三井寺金堂は比叡山に移され、延暦寺転法輪堂(釈迦堂)として現存しています。
 慶長3年(1598)、秀吉は自らの死の直前になって三井寺の再興を許可しています。死期を悟った秀吉が、霊験あらたかな三井寺の祟りを恐れたためといわれています。秀吉の再興許可を受け、当時の三井寺長吏・道澄が中心となって寺の再興が進められました。現在の三井寺の寺観は、ほぼこの頃に整えられたものです。
 三井寺の境内は北院(ほくいん)、中院(なかいん)、南院(なんいん)の3院からなりたっています。北院は樹木が茂る山林の中に弘文天皇御陵、法明院があります。中院は僧侶の修行の中心で、大門、金堂、唐院、鐘楼、釈迦堂、金堂、三井の晩鐘、閼伽井屋などがあります。南院は庶民信仰の場所で観音堂などのお堂があります。


三井寺大門(仁王門)
 境内入口にある大門(仁王門)は三間一戸の楼門で、入母屋造り、檜皮(ひわだ)葺きの建物です。三井寺中院の表門で、東面して建ち、両脇に仁王像が守護しています。宝徳4年(1452)に滋賀県甲賀郡石部町の常楽寺の門として建てられました。のちに豊臣秀吉によって伏見城に移され、慶長6年(1601)に徳川家康の寄進によりここに移されたそうです。
三井寺大門
 随所に見られる彫刻や組物などは、建築当初の特色がよく残されており、園城寺大門(仁王門)として明治33年(1900)に国の重要文化財に指定されました。門前は延暦寺との長い争いを象徴するように、穴太(あのう)積みの石垣と掘割で固められています。
三井寺大門

光浄院
 光浄院は金堂の北にあります。三井寺山内で最も格式の高い子院で、その外郭には、城郭を思わせる豪快な石垣が見られます。現在、寺の長吏(住職)の住房となっています。光浄院は室町時代の寛正元年(1460)に瀬田城の城主であった山岡資広(すけひろ)によって創建されたといわれています。
光浄院
 資広の子孫、暹慶(せんけい)は光浄院の住職をしていましたが、足利15代将軍義昭の命により還俗し山岡景友(かげとも)と名乗り、山城半国の守護に任じられました。景友はのちに織田信長、豊臣秀吉に仕え、再び剃髪して道阿弥と号しました。
光浄院
 文禄4年(1595)、豊臣秀吉に闕所(けっしょ、寺域の没収)を命じられ光浄院は三井寺諸堂とともに破却されました。道阿弥は照高院道澄とともに秀吉の恩赦をえるため懸命に努力しました。そして慶長6年(1601)、光浄院は再建されました。
光浄院

光浄院客殿(国宝)
 光浄院の客殿は間口7間、奥行6間、単層、入母屋造り、妻入、正面軒唐破風付、総柿(こけら)葺きで、勧学院客殿よりもやや小さめです。中門は間口1間、奥行1間、単層、切妻造りで、中門や広縁は勧学院とほぼ同じで、中世の主殿造の様式です。
光浄院客殿
 光浄院の客殿は日本の住宅建築の源泉となった書院造りの代表的遺構として、昭和27年(1952)に国宝に指定されました。室町時代後期の庭園も、勧学院光浄院庭園として昭和9年(1934)、国の名勝・史跡に指定されています。
光浄院客殿
 客殿の内部は南北2列に別れていて、南側の上座の間には、正面に床と違棚、北面には帳台構を設けています。南側の広縁に突出して2畳の上段の間があり、ここには更に床と書院が付けられています。そして 狩野山楽(さんらく)による見事な障壁画(重要文化財)が描かれています。
光浄院客殿

食堂(釈迦堂)(国重文)
 大門(仁王門)を入ってすぐ右手に食堂(釈迦堂)が南面して建てられています。清涼寺式釈迦如来像を本尊として安置しているので釈迦堂ともいわれます。彫刻や工法などから室町時代初期に建てられたと推定される建物で、元和7年(1621)に京都御所の清涼殿を下賜され、移築したものと伝えられています。
三井寺食堂(釈迦堂)
 食堂は間口7間、奥行4間、単層、入母屋造り、檜皮(ひわだ)葺きで、正面1間が吹き放しで1間の唐破風向拝が付いています。比較的に簡素な造りですが、風格があります。園城寺食堂(釈迦堂)として明治45年(1912)に国の重要文化財に指定されています。この付近はかって中院と呼ばれた場所だったようです。
三井寺食堂(釈迦堂)

金堂(国宝)
 三井寺の金堂は寺の本堂にあたり、食堂の上方に位置しています。貞和年間(1345-1350)に再建された金堂は文禄4年(1595)の破却の際、比叡山の西塔に移されてしまいました。現在の金堂は慶長4年(1599)に豊臣秀吉の正室である北政所によって再建されたもので、三井寺境内でもひときわ大きく威容を誇っています。
三井寺金堂(本堂)
 絶対の秘仏である本尊の弥勒菩薩は、1300年前の三井寺創建時に、天武天皇から賜わったと伝えられています。この弥勒菩薩は三国伝来の霊仏で、中国天台宗の高祖慧思禅師が修行されている時に降臨された弥勒菩薩が自らの分身として残された3寸2分の像であるということです。
三井寺金堂(本堂)
 金堂は間口7間、奥行7間、単層、入母屋造り、3間の向背が付いた大きな建物です。素木造りと檜皮(ひわだ)葺きの屋根が風格をみせています。内部は延暦寺根本中堂と同じく、内陣が外陣より一段低い土間になっています。これは天台密教の本堂にある独特な構造です。金堂は園城寺金堂として明治39年(1906)に国宝に指定されています。
三井寺金堂(本堂)

三井寺鐘楼(国重文)
 三井寺の鐘楼は金堂のすぐ南東にあります。近江八景のひとつ「三井の晩鐘」で有名な巨大な梵鐘を吊る鐘楼です。建築様式や梵鐘の銘文に慶長7年(1602)とあることから桃山時代に建立されたと推定されています。
三井寺鐘楼
 鐘楼は間口2間、奥行1間、単層、切妻造り、檜皮(ひわだ)葺きで、周囲には、下に腰板を廻らし、上は連子をはめています。園城寺鐘楼として昭和42年(1967)に国の重要文化財に指定されています。
三井寺鐘楼

三井の晩鐘
 600貫(2250kg)の梵鐘は近江八景の1つ「三井の晩鐘」として有名です。音の三井寺として日本3銘鐘の一つに数えられています。摂津住吉の鋳物師・杉本家次が弁慶の引摺り鐘の後継鐘として、慶長7年(1602)に鋳造したそうです。
三井の晩鐘
 この鐘には除夜の鐘の108煩悩に因んで、鐘の上部には108箇の突起があります。その音色は京都の宇治平等院、神護寺の鐘とともに天下3鐘とされています。滋賀県の文化財に指定され、平成8年(1996)には「日本の音風景百選」に選定されています。
三井の晩鐘

天狗杉
 市街地の近くにある大きな杉は「天狗杉」「園城寺天狗杉」といわれています。寺伝によると樹齢千年を経ているといわれています。根まわり7.5m、目通り周囲4mあり、地上まもないところで二股に分かれています。主幹の先に近いところは度重なる落雷によって枯れた状態になっていますが、他の場所は健全で良く枝葉が茂っています。昭和51年(1976)に大津市の指定文化財、天然記念物になりました。
天狗杉

一切経蔵(国重文)
 三井寺の一切経蔵は鐘楼のすぐ西にあります。仏教のすべての教典、つまり一切経(大蔵経)を納めるところです。この経蔵には版木の一切経が納められています。
三井寺一切経蔵
 経蔵は間口1間、奥行1間、単層、宝形造り、檜皮(ひわだ)葺きの禅宗形式の建物です。裳階をつけているため柱間が3間3間、屋根が二重に見えます。中には一切経を納めた回転式の巨大な八角形の輪蔵(回転書架)があります。天井からは円空仏7体が発見されています。
三井寺一切経蔵
 この経蔵は山口市の国清寺の経蔵であったものです。慶長7年(1602)毛利輝元によって移されたといわれています。園城寺一切経蔵として明治39年(1906)に国の重要文化財に指定されています。
三井寺一切経蔵

閼伽井屋(国重文)
 三井寺の閼伽井屋(あかいや)は金堂の正面から左側に回りこんだところに、金堂と接して建っています。閼伽井(あかい)とは仏前に供養する水を汲む井のことです。閼伽井屋はその覆屋として建てられたもので、この内部には井泉が湧いています。
三井寺閼伽井屋
 閼伽井屋は間口3間、奥行2間、単層、向唐破風造り、檜皮(ひわだ)葺きの建物です。慶長5年(1600)に金堂に引き続いて再建されています。正面の唐破風に左甚五郎の龍の彫刻があります。夜になると琵琶湖に出て暴れるため、それを止めるため甚五郎が目玉に大きな釘を打ち付けたと伝えられています。。
三井寺閼伽井屋
 閼伽井屋の内部には石組の間からこんこんと水が湧き出ています。天智天皇、天武天皇、持統天皇の3帝の誕生の時に御産湯に用いられました。三井寺の名前もここからきています。園城寺閼伽井屋として明治39年(1906)に国の重要文化財に指定されました。
三井寺閼伽井屋

閼伽井石庭
 閼伽井屋の建物の北側に閼伽井石庭があります。小さな庭園ですが日本最古の庭園といわれています。蓬莱山といい、東海中にあって仙人が住み不老不死の地と考えられている霊山を形取った石組です。中央より人、神佛、鶴、亀と配されています。
三井寺閼伽井石庭

熊野権現社
 金堂の裏に熊野権現社があります。密教の奥儀を究め、大峯・熊野三山の入峯練行を行った智證大師が平治元年(1159)ここに熊野権現を歓請し、三井修験道の鎮神としました。 寛治4年(1090)の白河上皇の熊野詣で園城寺の増誉が先達となり、その功で熊野三山検校となった事で熊野修験との関係が深まっていました。現在の建物は天保8年(1837)に再建されたものです。
三井寺熊野権現社

教待堂
 三井寺の教待堂は金堂の裏側にあります。慶長4年(1599)に再建された建物で、教待和尚の像を安置しています。智證大師が入寺以前にこの聖地を護持していた不思議な老僧で貞観元年大師の入山とともにこの草庵に入り姿が見えなくなったといわれています。
三井寺教待堂

弁慶の引摺り鐘
 金堂の西方に霊鐘堂があります。ここには弁慶の引摺り鐘が納められています。またここには武蔵坊弁慶をはじめ多くの僧兵が汁をつくって飲んだといわれる「千僧の鍋」といわれる汁鍋も残されています。
霊鐘堂

弁慶の引摺り鐘
 弁慶の引摺り鐘と呼ばれる梵鐘は三井寺の初代の梵鐘で、奈良時代の作とされています。昔、俵藤太秀郷が百足退治のお礼に龍神よりもらい受け三井寺に寄進したと伝えられる有名な鐘です。
弁慶の引摺り鐘
 その後、比叡山にいた武蔵坊弁慶が奪って比叡山へ引摺り上げて撞いてみると 「イノー・イノー」(関西弁で帰りたい)と響いたので、弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか!」と怒って鐘を谷底へ投げ捨ててしまったといわれています。
弁慶の引摺り鐘
 この鐘には弁慶が引摺ったという疵痕や破目などが残っています。この鐘は寺に変事があるときには、その前兆として不可思議な現象が生じ、鳴らなくなったりしたそうです。
弁慶の引摺り鐘
 建武の争乱時には、略奪を恐れ鐘を地中にうめたところ、自ら鳴り響き、これによって足利尊氏軍が勝利を得たといわれるなど、まさに霊鐘というにふさわしい様々な不思議な事件をいまに伝えています。
弁慶の引摺り鐘

孔雀園
 三井寺にはたくさんの孔雀が飼われています。修験道の祖、役の行者「神変大菩薩」は孔雀明王の咒文を唱えて苦修練行し、遂に五色の雲を呼び、孔雀に乗って霊山に飛び去られたといわれています。
三井寺孔雀園

三重塔(国重文)
  三井寺の三重塔は経蔵の南、唐院の北よりに建っています。園城寺塔婆といわれ、大和地方における中世の塔の風格を持っています。中世の園城寺には、中院に、五重塔、三重塔、別所水観寺三重塔、北院に、新羅社三重塔、別所常在寺三重塔、南院に、別所徴妙寺三重塔、別所尾蔵寺三重塔、別所近松寺三重塔、別院如意寺三重塔、別院世喜寺三重塔など10基の堂塔があったそうです。
三井寺三重塔
 文禄4年(1595)、三井寺は豊臣秀吉の怒りに触れ、寺領の没収、事実上の廃寺を命じられました。現在の三重塔は秀吉によって慶長2年(1597)伏見城に移築された大和国(奈良県)の比蘇寺(現在の世尊寺)の東塔だったものです。南北朝時代の頃に建立された塔とみられています。
三井寺三重塔
 慶長6年(1601)、徳川家康がこの塔を三井寺に寄進し建立しました。塔は方3間、塔婆の形式で造られ、高さ24.7mの本瓦葺きです。一層目の須弥壇には、木造釈迦三尊像が安置されています。三重塔は鎌倉時代の和様の様式で、軒が深く、三重の屋根が見事な線を描いています。相輪の水煙などに中世仏塔の風格が漂っています。園城寺塔婆(三重塔)として明治39年(1906)に国の重要文化財に指定されています。
三井寺三重塔

唐院
 唐院は中院の中にあり、三井寺を開いた智証大師(円珍)が中国伝来のお経をおいた所です。また唐院には智証大師像が安置されています。唐門、大師堂、長日護摩堂、灌頂堂などがあります。天安2年(856)に持ち帰った経巻、法具などを貞観10年(868)に納め、伝法潅頂の場としました。伝法潅頂をうけると僧の学位が得られました。
唐院
 唐院は最も神聖な場所とされ、一段高い石垣と塀に囲まれています。四脚門、灌頂堂、唐門、大師堂と一直線に続いています。国重文の唐門と大師堂は特別公開の時に見学できます。唐門は慶長3年(1598)建築で1間1戸向唐門、檜皮葺き。大師堂は同じ慶長3年(1598)の建築で、間口3間、奥行2間、単層、宝形造り、檜皮葺きです。
唐院四脚門

唐院四脚門(国重文)
  唐院の四脚門は唐院の表門です。切妻造り、檜皮(ひわだ)葺きの四脚門で、寛永元年(1624)に建立されています。この門は棟門(むねもん)形式で建てられましたが、建立後まもなく四脚門に変更されています。園城寺唐院四脚門として昭和42年(1967)に国の重要文化財に指定されています。
唐院四脚門

灌頂堂(国重文)
 唐院の灌頂堂(かんじょうどう)は大師堂と四脚門の間に位置し、大師堂の拝殿としての役割を備えています。間口5間、奥行5間、単層、入母屋造り、檜皮(ひわだ)葺きの建物で、園城寺唐院灌頂堂として昭和42年(1967)に国の重要文化財に指定されています。
唐院灌頂堂
 灌頂堂は密教の儀式である灌頂(かんじょう)の道場です。伝法潅頂をうけると僧の学位が得られたのです。内部は前室と後室に分けられ、伝法潅頂を行うプランを備えています。仁寿殿下賜の伝えそのままに、縁を廻らせ、蔀戸などをしつらえています。装飾が少ない落ち着いたお堂です。
唐院灌頂堂

長日護摩堂
 三井寺の長日護摩堂は間口3間、奥行3間、単層、宝形造り、本瓦葺きの小堂で、灌頂堂と渡廊下によってつながっています。簡素な建物で、後水尾天皇(1611-1629)の祈願により建てられたといわれています。昭和35年(1960)に滋賀県の有形文化財に指定されています。
長日護摩堂

勧学院
 勧学院(かんがくいん)は唐院の南、村雲橋を渡った右手にあります。三井寺子院の中でも格式の高い子院の一つで、かつては三井寺の学寮でした。勧学院とは、学を勧めるところ、つまり講学の場(学問所)です。南都・北嶺の諸大寺には必ず設けられ、その歴史は、古く平安時代9世紀にまで遡るそうです。
勧学院
 三井寺の勧学院は「三井続灯記」に正和元年(1312)に創立と記されています。文禄4年(1595)、豊臣秀吉に闕所(けっしょ、寺域の没収)を命じられ破却されました。その後、秀吉は、死の直前に闕所を解除しました。以後、北政所や秀頼によって再建が進められ、慶長5年(1600)毛利輝元の手により再建されました。
勧学院

勧学院客殿(国宝)
 勧学院の客殿は桃山時代の書院造建築の代表作とされ、昭和27年(1952)に国宝に指定され、池泉式庭園は、園城寺勧学院庭園として国の名勝に指定されています。客殿内部の各部屋は襖で仕切られ、それを払えば大広間となり、学問所であったことがうかがえます。
勧学院客殿
 間口7間、奥行7間、入母屋造り、妻入、正面軒唐破風付、単層、総柿(こけら)葺きで、光浄院客殿よりもやや規模が大きめです。中門は間口1間、奥行1間、単層、切妻造りで、中門や広縁は光浄院とほぼ同じで、中世の主殿造の様式です。
勧学院客殿
 勧学院客殿は東を正面とし、軒唐破風の下に車寄、その北を蔀戸・吹放しの広縁としています。内部は南北を大きく三列に分け、南列の一之間と 広い二之間には、狩野光信(かのうみつのぶ)による華麗な障壁画が部屋を飾っています。
勧学院客殿
 狩野光信は狩野永徳の長男で、永徳のあとを継いで織田、豊臣、徳川の3氏に仕えました。勧学院客殿の他、安土城、肥前名護屋城、二条城、伏見城などの城郭や寺院、禁裏の障壁画なをを制作しました。その筆法は父永徳の豪放とは対照的で、繊細、優美な画風で、宗秀、山楽らとともに永徳没後の桃山画壇を支えました。
勧学院客殿

文化財収蔵庫
 文化財収蔵庫が微妙寺の近くに平成26年(2014)10月に開館しました。勧学院客殿障壁画のオリジナルを公開収蔵し、仏像、仏画、仏具など多くの重要文化財が展示、収蔵されています。
文化財収蔵庫

微妙寺
 村雲橋の方から南院に入ると、微妙寺(びみょうじ)があります。三井寺5大別所寺院の1つで、三井寺の周辺に広く衆生を救うために設けられた別院です。比叡山延暦寺が山外に置いた5別所に対抗して建てられたようです。ほかに水観寺、近松寺、尾蔵寺、常在寺が三井寺5別所ですが、尾蔵寺と常在寺は廃絶、微妙寺と水観寺は三井寺の山内に移されました。
微妙寺
 微妙寺の本堂は安永5年(1776)に再建された建物で、本尊は国の重要文化財でもある十一面観音菩薩です。この本尊は、廃絶した尾蔵寺の本尊だったといわれ、除病、除難、滅罪で霊験あらたかで知られていました。往時には参詣者が押し寄せ、かぶっている笠がすれあい脱げるほどであったことから「はずれ笠の観音」「笠ぬげ観音」と呼ばれたそうです。
微妙寺

三井寺毘沙門堂
 南院の観音堂近くの北西方向に三井寺の毘沙門堂があります。この毘沙門堂は、もともと三井寺5別所の一つ尾蔵寺の南勝坊境内に建てられていました。明治以降に三尾社の下に移築され、戦後、現在地に移った堂宇です。
三井寺毘沙門堂
 毘沙門堂は間口1間、奥行2間、単層、宝形造り、檜皮(ひわだ)葺きの小堂で、元和2年(1616)の建てられています。内部には文様などが彩色で描かれており、組物、軒廻り内部天井などに桃山時代の特徴が出ています。園城寺毘沙門堂として昭和27年(1952)に国の重要文化財に指定されています。
三井寺毘沙門堂

南院鐘楼
 南院の鐘楼は文化11年(1814)に上棟されています。間口3間、奥行3間、袴腰付き、入母屋造り、檜皮(ひわだ)葺きの総欅の鐘楼です。組物は尾垂木(おたるき)を使わない三手先(みてさき)で、中備えは蟇股または蓑束(みのずか)で飾っています。園城寺南院札所伽藍鐘楼として昭和61年(1986)に滋賀県の有形文化財に指定されています。
三井寺南院鐘楼

三井寺観音堂
 三井寺の境域の南端近くの長等神社上の山腹に観音堂があります。西国33箇所観音霊場の第14番礼所で、本尊は平安時代に造られ、国の重要文化財に指定されている如意輪観音を祀っています。貞享3年(1686)、火災で焼失し、元禄2年(1689)に再建された大きなお堂です。
三井寺観音堂
 観音堂は仏像を安置する正堂(しょうどう)と礼堂(らいどう)・合の間の複合建築です。礼堂は間口9間、奥行5間、重層、入母屋造り、本瓦葺きです。内部には多くの絵馬が奉納されています。観音堂は園城寺南院札所伽藍観音堂として昭和61年(1986)に滋賀県の有形文化財に指定されています。
三井寺観音堂

観月舞台
 南院の観音堂を中心とする札所伽藍の一角に観月舞台があります。琵琶湖を眼前に見通すことのできる位置にあり、観月の名所として知られています。謡曲「三井寺」はここが舞台となっています。中秋の名月の三井寺で、母親と行方知れずになった我が子が感動の再会を果たした名曲として知られています
観月舞台
 観月舞台は嘉永3年(1849)に再建された建物です。間口1間、奥行1間、単層、入母屋造り、檜皮(ひわだ)葺きの建物で、外壁は吹き放しで周囲には高欄が廻っています。園城寺南院札所伽藍観月舞台として昭和61年(1986)に滋賀県の有形文化財に指定されています。
観月舞台

百体堂
 百体堂は札所伽藍の観月舞台の隣にあります。堂内の正面中央に三井寺観音堂(正法寺)本尊と同じ如意輪観音像を奉安し、その左右に西国礼所の三十三観音像を二段に祀っています。右には坂東三十三箇所、左には秩父三十四箇所の本尊を安置し、合わせて百体の観音像を安置することから百体堂と呼ばれています。
百体堂
 百体堂は宝暦3年(1753)に建てられています。間口3間、奥行2間、宝形造り、本瓦葺きです。園城寺南院札所伽藍百体堂として昭和61年(1986)に滋賀県の有形文化財に指定されています。
百体堂


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