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奈良の旅と歴史
滋賀の旅    大津市

西教寺
さいきょうじ
滋賀県大津市坂本5−13−1
TEL 077-578-0013


 戒光山兼法勝(けんほっしょう)西教寺(さいきょうじ)は聖徳太子の創建と伝えられ、全国に450以上の末寺を持つ天台真盛宗(てんだいしんせいしゅう)の総本山です。西教寺は坂本駅の北西約1.5kmの比叡山3塔の一つである横川(よかわ)への登り口に位置しています。
 寺伝では、聖徳太子が創建し、のちに天智天皇から西教寺の勅願(ちょくがん)を賜わり、平安時代に延暦寺中興の祖、慈恵大師(元三大師)こと良源(りょうげん)(913-985)が庵を造ったことを始まりとしています。
 その弟子の恵心僧都こと源信(げんしん)(942-1017)が伽藍を整え、修行道場としたと伝えられています。その後、長らく荒廃していましたが、室町時代末期、中興の祖であり天台真盛宗の宗祖である真盛(1443-93)が入寺してから栄え再興しました。
 真盛(しんせい)は19歳の時に延暦寺に入り、20年間修行を積み、権大僧都(ごんだいそうず)にもなった人です。真盛は「戒称二門」「円戒念仏」という阿弥陀仏の名を一心に称えることと称名念仏の励行を唱えました。以来、西教寺は戒律、念仏の道場となっています。
 元亀2年(1571)、織田信長による比叡山焼き討ちの際に西教寺も焼失してしまいました。本堂は3年後に復興し、焼失した旧本尊の代わりに、浄福寺という寺から阿弥陀如来像を迎えて本尊としました。これが現存している丈六の阿弥陀如来像です。国の重要文化財に指定されています。
 比叡山焼き討ちの後、近江国滋賀郡は明智光秀に与えられ、光秀はここに坂本城を築きました。坂本城と西教寺は地理的にも近く関係が深まり、総門・大本坊などを寄進し、復興に助力したようです。境内には、光秀の供養塔や明智一族の墓なども建てられています。
 天正18年(1590)、後陽成天皇は綸旨を発し、応仁の乱後、荒廃して廃寺となっていた京都の法勝寺をその末寺である西教寺に合併させることにしました。法勝寺の寺籍は西教寺に引き継がれ、仏像、仏具も西教寺に移されました。「兼法勝西教寺」というのはここに由来しています。
 江戸時代には徳川氏の庇護を受け、元和3年(1617)に90石の朱印状を与えられました。貞亨年間(1684-1688)にはさらに90余石を加増されています。元文年間(1736-1741)には堂塔が修営され、現存する本堂、祖堂、鐘楼、総門など再建されています。
 総門をくぐると、参道の左右に6つの塔頭が並んでいます。参道の正面突き当たりには勅使門があり、その左に宗祖大師殿、奥の小高くなった場所に中心伽藍があります。本堂、客殿、書院などは回廊で結ばれています。中心伽藍を見下ろす高台に真盛上人廟が建てられています。


西教寺総門
 西教寺の総門は、天正年間(1573-1592)に坂本城主明智光秀が坂本城の城門を移築したと伝えられる坂本城の遺構です。高さ6.4m、幅5.6mの堂々とした門です。老朽化が進んだため、昭和59年(1984)に形はそのままの姿で修理が加えられ復元されています。
西教寺総門

西教寺水屋
 西教寺の水屋は本堂南にあります。長方形平面で、中央に細長い水盤を置いています。入母屋造り、本瓦葺きで、二軒繁垂木で深い軒をつくっています。国の登録有形文化財に指定されています。
西教寺水屋

西教寺本堂(国重文)
 西教寺の本堂は元亀2年(1571)に織田信長の比叡山焼き討ちで焼失し、天正2年(1574)に本堂再興棟上が行われました。享保3年(1717)、20世の真際上人が浄財を集め、元文4年(1739)に落成されたのが現在の建物です。寛延2年(1749)に瓦葺きされ、安永4年(1775)に天井張りなどの修復工事が行われています。
西教寺本堂
 西教寺の本堂は、間口7間、奥行6間、単層、入母屋造り、本瓦葺きで、正面に3間の向拝が付き、背面に間口1間、奥行1間、裳階(もこし)付きの裏堂があります。正面の欄間や須弥壇はすべて欅(けやき)の素木(しらき)造りで、江戸時代の特色をよく表しています。
西教寺本堂
 組物は絵様を彫った出組で装飾彫刻が多く、本堂全体でも各部分に豪華な装飾彫刻を多分に用いています。荘厳な風格を誇り、国の重要文化財の2.8mの本尊・阿弥陀如来坐像を安置しています。西教寺の本堂は昭和61年(1986)に国の重要文化財に指定されています。
西教寺本堂

西教寺勅使門
 西教寺の勅使門は参道を突き当たりにあります。天皇の使者を迎えた門で、どっしりとした風格のある門です。
西教寺勅使門

宗祖大師殿唐門
 西教寺の宗祖大師殿(しゅうそだいしでん)唐門(からもん)は、大師殿の正面にあり、東向きに建てられています。間口4.2m、入母屋造り、前後軒唐破風付、檜皮葺きの木造1間1戸の四脚門です。組物は三斗組と簡素ですが、虹梁上に配された龍や獅子などの彫刻は豪華です。左右袖塀は全長3m、築地塀の全長は38mです。国の登録文化財に指定されています。
宗祖大師殿唐門

宗祖大師殿通用門
 西教寺の宗祖大師殿通用門は大師殿の西側に建てられています。基壇上に建つ1間1戸の平唐門で、屋根は檜皮(ひわだ)葺き、軒は大疎垂木です。間口3m、左右袖塀全長3mで、両側に全長43mの築地塀がつながっています。通用門のため簡素な造りですが棟通りの大柄な蟇股がポイントになっています。国の登録文化財です。
宗祖大師殿通用門

宗祖大師殿
 西教寺の宗祖大師殿(しゅうそだいしでん)は本堂南の一段低いところに建てられています。木造平屋建て、入母屋造り、桟瓦葺き一部銅板葺きで、建築面積は312平方mです。正面に軒唐破風が付いており、丸柱・舟肘木の軸部、疎垂木・木舞打の軒廻り、擬宝珠高欄付の縁などに格式の高さが伺えます。国の登録文化財です。
宗祖大師殿

宗祖大師殿水屋
 宗祖大師殿水屋(みずや)は通用門と対面した位置に建てられています。唐門とともに大正時代の伽藍整備で建設された建物です。木造、桟瓦葺きで、建築面積4.4平方mです。六角形平面で円形花型の水盤を覆っています。屋根の上には宝珠を乗せています。長押しで固めた6本柱で、六角に組んだ桁を支えています。国の登録文化財に指定されています。
宗祖大師殿水屋

西教寺納骨堂
 西教寺の納骨堂は本堂の東南の位置にあります。木造平屋建て、入母屋造り、桟瓦葺きで、建築面積は20平方mです。軒は本屋・庇とも一軒疎垂木・木舞打です。内部は外陣と内陣があり、内陣の奥に通し仏壇を設けています。納骨堂は国の登録文化財に指定されています。
西教寺納骨堂

西教寺梵鐘(国重文)
 西教寺の鐘楼は総檜造りで、本堂の東に西を向いて建てられています。棟札により天保2年(1831)に再建された建物であることが判明しています。間口3間、奥行2間、袴腰付き、入母屋造り、本瓦葺きです。大きく張出した軒、三手先の出組、四面に彫られた猿の彫刻など、優秀な意匠が施された鐘楼です。最近まで吊るされていた梵鐘は平安時代のもので、国の重要文化財で、鐘楼は国の登録文化財に指定されています。
西教寺鐘楼

西教寺大本坊
 西教寺の大本坊は坂本城主・明智光秀から坂本城の陣屋の寄進を受け再建されました。本坊とは庫裏のことで、現在の建物は昭和33年(1958)に完成したものです。東西33.42m、南北25.429m、面積257.5坪あり、昭和の木造建築では滋賀県内最大の建造物です。
西教寺大本坊

西教寺客殿通用門
 客殿通用門は客殿の南面を区切る板塀の間に設けられた平唐門です。間口2.1m、木造で、屋根は檜皮(ひわだ)葺き、妻に彫物懸魚をつけています。面取角柱の親柱に腕木をつけて軒桁を受け、棟木は舟肘木で受けています。 客殿通用門は国の登録文化財に指定されています。
西教寺客殿通用門

西教寺客殿(国重文)
 西教寺の客殿は本堂の西側にあり、本堂から廊下で繋がっています。客殿は「桃山御殿」とも呼ばれ、慶長3年(1598)豊臣秀吉の死後、その菩提を弔うため、敦賀城主大谷刑部少輔吉隆の母と、秀吉の家臣山中山城守橘長俊の令室が大檀那となり再建しました。その際、伏見城の御殿を移したそうです。
西教寺客殿
 伏見城の御殿は天正17年(1589)に造られた建物だったので、西教寺客殿もその時の建物ということになります。客殿は間口12間(27.1m)、奥行8間(15.3m)、単層、屋根の南面は入母屋造り、北面は切妻造りで、柿(こけら)葺きの書院造りの大きな建物です。
西教寺客殿
 客殿は南北に長く、東面と南面には広縁や落縁があります。東面は狩野派(かのうは)によって描かれたる襖絵(ふすまえ)の絵柄により、控の間、鶴の間、猿喉(えんこう)の間、賢人の間、花鳥の間と分かれています。西面は最も南に上座の間があります。。明治35年(1902)に国の重要文化財に指定されています。
西教寺客殿

放生池
 西教寺本殿に向かって左手上に宗祖真盛上人の御廟があります。長い階段の下には放生池があり立派な太鼓橋が架かっています。
放生池

真盛上人御廟
 真盛上人御廟は伽藍の南西、本堂の西の高台に天保13年(1842)に建てられています。間口2間、奥行2間で1間の向拝を付けた宝形造りで、四半敷の基壇に建てられています。精巧な彫刻が施され、和様に唐様を混ぜた折衷形になっています。御廟は国の登録文化財に指定されています。
真盛上人御廟

宝珠丸(真盛上人)像
 宝珠丸の像が境内にあります。宗祖である真盛(しんせい)上人は紀貫之の末裔で,嘉吉3年(1443)正月28日に生まれました地蔵菩薩から宝珠を授かった夢をみて身ごもったので、宝珠丸と名付けられたそうです。7歳のとき伊勢の川口郷の光明寺の盛源律師の弟子となり、14歳で剃髪出家して名を真盛と改めたそうです。
宝珠丸真盛上人像

染殿(五輪塔)
 石段を登る途中に無名の五輪塔があります。染殿と呼ばれ、鎌倉時代の石塔です。西教寺で最も年代の古い石造物で花崗岩でできています。基礎(方)、塔身(円)、笠(三角)、請花(半円)、宝部(団形)の5部すべてを揃えています。
染殿(五輪塔)

芭蕉句碑
 明智一族の墓近くに芭蕉の句碑があります。芭蕉は「奥の細道」の旅の途中、越前の丸岡に足をとめた際、明智光秀の妻・煕子が黒髪を売って光秀を助けたという話を耳にして、のちに伊勢の門弟・山岡又玄(ゆうげん)の妻に贈ったといわれています。
  「月さびよ 明智が妻の 咄せむ」
芭蕉句碑

明智光秀の墓
 西教寺の境内には、明智光秀と一族の墓があります。光秀の墓には「秀岳宗光大禅定門」との法名が彫られています。光秀は西教寺の復興に尽力しました。大本坊を造築し、仮本堂を完成させ、現在の本尊(国の重要文化財の丈六の阿弥陀如来)を迎えています。山崎の合戦で非業の死をとげた後、光秀一族とともに西教寺に葬られたといわれています。
明智光秀の墓

 明智光秀の妻の墓
 明智光秀の墓の横には、早逝した明智光秀の妻・煕子(ひろこ)の墓があります。煕子は細川ガラシャの母になります。光秀が斎藤義龍との戦に破れ本拠を失って困窮していた時、汁事(順番に家を訪れ食事をしながら話をする会)を催すお金がなく、煕子は自分の黒髪を売って席を設け、光秀を助けたという逸話が残っています。
明智光秀の妻の墓

十三重石塔
 明智光秀の墓の左端に十三重石塔が建てられています。江戸時代前期の寛文2年(1662)のものです。勅使門の近くには、平成に建立された十三重石塔も建てられています。
十三重石塔

妻木氏供養塔
 妻木氏の供養塔が明智光秀の墓の近くにあります。妻木氏は光秀の妻・煕子の親で、光秀家臣団の主力を構成する一族衆でした。妻木城12代城主であった妻木藤右衛門広忠は天正10年(1682)坂本城落城後、明智一族に殉死した人々を西教寺に埋葬し、煕子の墓前で自刃したと伝えられています。
妻木氏供養塔


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