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奈良の旅と歴史
滋賀の旅    大津市

聖衆来迎寺
しょうじゅらいごうじ
滋賀県大津市比叡辻2ー4ー17
Tel 077-578-0222


 紫雲山聖衆来迎寺は天台宗のお寺です。延暦9年(790)、伝教大師最澄が地蔵菩薩を安置して地蔵教院を建立したのが始まりです。長保3年(1001)、比叡山横川の恵心(えしん)僧都(そうづ)源信(げんしん)が入山しました。
 源信は、ここで聖衆来迎を感得したことから堂宇を興し、来迎のありさまを彩画し、自ら阿弥陀来迎像を造りました。聖衆来迎とは臨終に際して西方極楽浄土から阿弥陀如来と諸々の菩薩が現れ迎えに来るということです。寺号も聖衆来迎寺と改められ、念仏道場となりました、
 聖衆来迎寺はその後衰えましたが、大永7年(1527)、真玄により中興されました。真玄は近江守護の六角高頼の5男の六角高信で、永正16年(1519)に出家して延暦寺の僧となった人物です。
 真玄は京都にあった天台宗の元応寺第37世の真雄を戒師とした関係で、応仁の乱によって焼失していた元応寺の本尊を聖衆来迎寺に移し合併しました。元応寺は後醍醐天皇の勅願寺で、中世には法勝寺と並ぶ円戒(天台宗の戒律)の道場でした。
 元亀元年(1570)9月、織田信長と浅井長政、朝倉義景の連合軍との戦である坂本の合戦で、近江宇佐山の志賀城が攻められ、信長側の宇佐山城主・森三左衛門可成(よしなり)が討死しました。森蘭丸の父親でもある可成の墓はこの聖衆来迎寺にあります。
 この時、聖衆来迎寺と親密な関係だった比叡山延暦寺は、浅井・朝倉連合軍に協力していました。しかし時の住持の真雄は、可成の遺骸をこの寺にねんごろに葬りました。後に信長による比叡山の焼き討ちの際、山麓の数多くの寺が焼き尽くされましたが、聖衆来迎寺だけは、目標から外されました。


聖衆来迎寺表門
 聖衆来迎寺の参道の松並木の奥に建つ表門は明智光秀の居城・坂本城の城門を移築したものです。太く、装飾のないこの門は安土・桃山時代に建立されています。1間1戸の薬医門で、切妻造り、本瓦葺きです。平成24年(2012)に改修されています。
聖衆来迎寺表門

聖衆来迎寺本堂
 聖衆来迎寺の本堂は間口5間、奥行7間、寄棟造り、正背面桟瓦葺き、両側面銅板葺き瓦棒付きの単層の建物です。西教寺や木之本にある浄信寺の本堂とよく似た造りです。阪神淡路大震災で柱部に若干の被害を受けました。
聖衆来迎寺本堂

聖衆来迎寺客殿(国重文)
 聖衆来迎寺の客殿は寛永19年(1642)の建立で大正11年(1922)に国の重要文化財に指定されています。間口12間、奥行7間の単層の大きな建物で、南面は入母屋造り、北面は切妻造りの柿(こけら)葺きです。加納探幽・尚信らの筆になる障壁画を用いた書院造りになっています。
聖衆来迎寺客殿

聖衆来迎寺開山堂
 聖衆来迎寺の開山堂は寛永15年(1638)に建立され、恵心僧都源信が祀られています。間口3間、奥行3間、桟瓦葺き、向拝1間ついた入母屋造りの単層の建物です。昭和48年(1973)に滋賀県の有形文化財に指定されています。
聖衆来迎寺開山堂

聖衆来迎寺鐘楼
 聖衆来迎寺の鐘楼は元禄6年(1693)に建てられたとみられています。間口1間、奥行1間、切妻造りで、本瓦葺きです。基壇の上に堂々と建っています。
聖衆来迎寺鐘楼

聖衆来迎寺森可成墓
 聖衆来迎寺には森可成の墓が建てられています。森蘭丸の父でもある森可成は、織田信長から信頼され、元亀元年(1570)近江神宮の裏手に宇佐山城を築きました。信長に敵対する浅井・朝倉連合軍と戦いましたが聖衆来迎寺付近の比叡辻で戦死しました。比叡山との関係が深い聖衆来迎寺でしたが、住職の真雄はねんごろに弔って墓を建てたそうです。
聖衆来迎寺森可成墓

聖衆来迎寺庭園
 聖衆来迎寺の庭園は京都干菜寺(ほしなでら)の宗心が作庭したといわれています。天正元年(1573)、後醍醐天皇の勅願寺・天台宗の元応寺(元応国清寺)の本尊が聖衆来迎寺に移され、天正17年(1589)に元応寺が正式に聖衆来迎寺に合併されました。その時に、庭も移されたそうです。枯山水庭園で滋賀県の名勝に指定されています。
聖衆来迎寺庭園


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