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和歌山の旅と歴史
和歌山の旅    伊都郡高野町高野山

高野山・壇上伽藍
こうやさん・だんじょうがらん
和歌山県伊都郡高野町高野山152


 高野山には西院谷、南谷、谷上、本中院谷、小田原谷、千手院谷、五の室谷、蓮花谷と8つの部落があります。そして、各々の地区に多くの寺院があります。
 西端には高野山の正門にあたる大門があり、国の重要文化財に指定されています。また東端には奥の院への入口である一の橋があります。
 信仰の中心は、総本山金剛峯寺の西、「壇上伽藍」と呼ばれる場所です。ここには金堂、根本大塔、東塔、西塔、御影堂、准胝堂(じゅんていどう)、三昧堂、大会堂、愛染堂、明神社、山王院、六角経蔵、鐘楼、孔雀堂、国宝に指定されている不動堂などの堂塔が並んでいます。
 壇上伽藍は奥の院とともに高野山の二大聖地です。ここは真言密教の根本道場のため弘法大師が創建した伽藍なのです。壇上伽藍には僧が修行する静寂の園という意味があるそうです。
 昔は講堂と称していた金堂は高野山全体の総本堂で高野山での主な宗教行事が執り行なわれます。弘仁10年(819)に創建されましたが、承和5年(838) 嵯峨天皇御願の御堂として新たになり、本尊である薬師如来像と脇侍の諸尊像が奉安されたそうです。
金堂
 正暦5年(994)、久安5年(1149)、永正18年(1521)、寛永7年(1630)、天保14年(1843)、昭和元年(1926)に焼失し、現在の金堂は昭和7年(1932)に再建された入母屋造りの鉄筋コンクリート造りの建物です。
 高村光雲作の本尊、薬師如来が奉安され、壁面には木村武山画伯の壁画があります。
金堂
 根本大塔(こんぽんだいとう)は昭和12年(1937)に再建されたものです。弘法大師が創建する際、高さ16丈(約48.48m)もの巨大な建物にしたため、在世中には完成できず、第二世の真然大徳の時に落慶したと伝えられています。
根本大塔
 この根本大塔も度々火災にあい、記録に残っているだけで5回も焼失し、その度に再建されてきました。現在の建物は、京都帝国大学教授天沼俊一博士、国会議事堂の設計にも関与した武田五一博士、古社寺修理監督の大浦徳太郎建築技師などにより設計監修され完成しました。鉄骨・鉄筋コンクリート造りで、外装のみ木材朱塗りの建物となりました。高さは創建当時と同じ高さがあるそうです。
根本大塔
 御影堂(みえどう)は五間四面の宝形造りのお堂です。もとは弘法大師の持仏堂でしたが、真如親王の筆による大師御影を祀ってから御影堂と呼ばれるようになったそうです。
御影堂
 天保14年(1843)、宝蔵の軒下から出火した火災で類焼しました。弘化4年(1847)、紀州藩徳川家が一千両を寄進して再建したそうです。御影堂と奥之院と共に挙行される大師正御影供(しょうみえく)は、山内で最も厳重に修められる法会です。
御影堂
 准胝堂と西塔の間に位置する孔雀堂は、正治2年(1200)後鳥羽上皇の発願で創建されました。本尊・孔雀明王像は仏師快慶により造立されたもので、国の重要文化財に指定されています。
孔雀堂
 正治元年(1199)干ばつになりました。朝廷の命令で、僧が雨乞いをする「請雨経法」を東寺の、延杲(えんごう)僧正が頼まれました。京都の神泉苑という所で孔雀経法が催した後、大雨になりました。後鳥羽上皇は大いに喜び褒美が贈られました。それが高野山に孔雀堂を建立することだったのです。
孔雀堂
 准胝堂(じゅんていどう)は光孝天皇の願いによって天禄4年(973)頃、真然僧正が建立したといわれています。准胝堂は御影堂の西隣に位置し、本尊・准胝観音(じゅんていかんのん)を祀っています。この観音は准胝仏母(じゅんていぶつも)とも呼ばれ、高野山ではお坊さんになるための儀式である「出家得度」の本尊として祀られています。
准胝堂
 正暦5年(994)、久安5年(1149)、永正18年(1521)、寛永7年(1630)、天保14年(1843)と5回も焼失し、その度に再建されてきました。現在の建物は明治16年(1883)に再建されたものです。
准胝堂
 西塔は壇上伽藍の北西隅にあります。高野山第2世真然大徳の代に空海の図記をもとに仁和2年(887)に創建したと伝えられています。創建時は、現在のような多宝塔ではなく、五層五丈であったともいわれています。
西塔
 その後、5度も火災にあい、現在のものは天保5年(1834)覚道という僧が中心になり、正智院住職3代にわたって自力で再建したそうです。5間4面、高さ約27mの多宝塔で三昧堂右隣の東塔と一対をなしています。本尊は根本大塔の本尊に対する金剛界大日如来と胎蔵界4仏で、中尊の木造大日如来座像は国の重要文化財に指定されています。
西塔
 明神社は壇上伽藍の西端にあり、三社が並列しています。御社(みやしろ)とも呼ばれ、右から丹生明神(一の宮)、高野明神(二の宮)、十二王子百二十伴神をまつる総社(三の宮)に分かれています。弘法大師は、仏教と日本在来の神との融和を図り、高野山の地主神として丹生明神と高野明神を勧請したのです。
明神社
 丹生、高野明神社の構造形式は、一間社春日造で、総社は三間社流見世棚造と呼ばれ、どちらも屋根は檜皮葺きです。これら3社は金剛峯寺山王院本殿として国の重要文化財に指定されています。
明神社
 山王院は明神社前の通路を1つへだてた所に建つ拝殿です。地主山王を拝する場所の意で、藤原時代の創建になります。現在の建物は文禄3年(1594)の再建で国の重要文化財に指定されています。
山王院
 山王院は両側面向拝付入母屋造りの建物で、桁行21.3m、梁間7.8mあります。山王院は、毎年旧暦の5月3日修行学道の試験とも云うべき、「論議」の行われる場所になっています。竪精論議は高野山特有の学修行事であり、夜を徹してするそうです。
山王院
 六角経蔵(ろっかくきょうぞう)は六角錐(六面)のお経を収める蔵です。平治元年(1159)鳥羽天皇の皇后であった美福門院が、天皇の菩提のため浄写した一切経を納めるために創建しました。この時、荒川荘を供養料として寄進したことから荒川経蔵ともいわれます。
六角経蔵
 この時に奉納された一切経は、紺紙に銀罫を引き、金字で書写したもので、国の重要文化財に指定され霊宝館に収蔵されています。
 現在の六角経蔵は昭和8年(1933)に再建された建物で鉄筋コンクリート造り、六角形2層の塔です。
六角経蔵
 大会堂(だいえどう)は根本大塔の東にある7間(12.6m)4面のお堂です。安元元年(1175)鳥羽法王の皇女である五辻斎院(ごつじさいいん)内親王が、法王の追福のため建立されました。
大会堂
 大会堂は、もと東別所にあって蓮華乗院(れんげじょういん)と称していました。治承3年(1179)西行がこの地に移築したいわれています。江戸時代から壇上で法要などあった時、ここで法衣を着替え、威儀を整える場所として使用されています。現在は法会の集会堂にもなっています。
大会堂
 三昧堂(ざんまいどう)は大会堂の右横にあるお堂で金剛界大如来を本尊としています。6世座主の済高(さいこう)が延長7年(929)頃に建立し、ここで「理趣三昧」という儀式を執り行なっていたため、三昧堂と呼ばれるようになりました。
三昧堂
 現在の建物は嘉永元年(1848)の再建で壇上伽藍の中で最も小さな建物です。3間(5.4m)、4面のお堂で、堂前には西行桜があります。西行法師手植えの桜として有名です。このお堂を修造した記念に植えられたそうです。
三昧堂
 不動堂は高野山に残る最古の建物で国宝です。建久8年(1197)、鳥羽上皇の皇女である八條女院(はちじょうにょいん)内親王が発願し、行勝(ぎょうしょう)上人によって建立されました。もともと一心院谷に建てられていましたが、明治41年に(1898)解体修理が施され、明治43年(1900)この地に移築されました。
不動堂
 本尊の不動明王座像は国の重要文化財で、不動明王に仕える8人の童子像の、八大童子立像は6体が国宝です。運慶作の制多迦童子像、快慶作の恵光童子像などが有名です。
不動堂
 愛染堂(あいぜんどう)は建武元年(1334)、後醍醐天皇の勅命によって四海静平(しかいせいへい)、玉体安穏(ぎょくたいあんのん)を祈るために建立されました。このお堂も何度か罹災し、現在の建物は嘉永元年(1848)に再建されたものです。
愛染堂
 本尊は後醍醐天皇御等身の愛染明王です。愛情・情欲をつかさどり、愛欲貪染をそのまま浄菩提心(悟りの心)にかえる力をもち、煩悩即菩提を象徴した明王です。
愛染堂
 東塔(とうとう)は大治2年(1127)、白河院の発願によって醍醐三宝院勝覚権僧正(だいごさんぼういんしょうかくごんのそうじょう)によって創建されました。5度も罹災し再建されてきました。
東塔
 5度目の天保14年(1843)の焼失からしばらくの間再建されませんでした。140年たった昭和59年(1984)にようやく再建されました。当初は上皇等身の尊勝仏頂尊(そんしょうぶっちょうそん)が本尊として奉安されました。不動明王、降三世(ごうさんぜ)明王の二体も脇侍(きょうじ)として祀られています。
東塔


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