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和歌山の旅と歴史
和歌山の旅    伊都郡高野町高野山

高野山・奥の院
こうやさん・おくのいん
和歌山県伊都郡高野町高野山550
Tel 0736-56-2002


 奥の院は壇上伽藍とともに高野山の信仰の中心です。一番奥に弘法大師が62歳で入定した御廟があります。廟の手前には燈篭堂があります。寺院群の東端にある一の橋から二の橋を経て御廟橋まで約2kmあります。
 その間に20万基を超える諸大名の墓石や、祈念碑、慰霊碑の数々が切れ目なく続いています。一帯には県の天然記念物に指定されている老杉古杉が生い茂っていて、樹齢千年を超えるものもあるようです。

 加藤嘉明、蒲生忠知のあと松山城に入った松平氏の墓です。松平といっても本姓は久松で、初代松平定行の父が家康の異父兄弟になります。家康の母・於大の方は、松平家に嫁いで家康を生み、離縁になった後、久松家に嫁いで、定行の父親を生んだのです。
伊予松山松平(久松)家墓所
 黒田官兵衛孝高の嫡男・長政の治めた筑前、52万石の黒田家の墓です。官兵衛は竹中半兵衛亡きあとの秀吉の軍師です。荒木村重の謀反の際、説得に出向いたものの有岡城に幽閉され、信長から疑心を抱かれ危うく処刑されそうになりました。長政は関ヶ原では東軍に属し活躍しました。
筑前黒田家墓
 前田利長は加賀藩祖・前田利家の嫡男です。夫人は織田信長の四女・永姫です。豊臣秀吉の側室淀君、2代将軍徳川秀忠夫人崇源院とは従姉妹になります。利長逝去後は玉泉院と称して高岡より金沢城に移り元和9年(1632)に没しました。享年50歳。金沢城の西の丸館跡は玉泉院丸と称されました。
加賀前田利長夫人墓所
 浄土宗の開祖である法然上人圓光大師の墓所です。法然は比叡山で天台宗を学んだ後、貴賎、男女を問わず、またどんな罪深いものでも阿弥陀仏を信じ「南無阿弥陀仏」と唱えるものは極楽に往生できるという浄土宗を開きました。
法然上人圓光大師墓所
 福島正則改易のあと紀州藩より浅野長晟が安芸1国・備後8郡の42万6千石の城主になりました。長晟は豊臣政権下の五奉行を務めた浅野長政の次男です。第4代藩主・浅野綱長の時に分家である赤穂藩主・浅野長矩の刃傷事件が起こりました。
安芸 浅野家墓所

 国の重要文化財に指定されている結城(松平)秀康石廟です。秀康は徳川家康の二男です。はじめは秀吉の養子となったものの、結城氏の名跡を継いで、後に越前福井藩67万石の城主になりました。結城秀康は慶長12年(1607)に34歳で父より先に他界しました。
結城秀康(家康次男)石廟
 石造の入母屋造、桁行3間(5.4m)、梁間3間の構造です。正面に軒唐破風が付いています。外壁や柱、扉には彫刻や銘文が施されています。家康はその死を悲しみ、同年この石廟を築いたとされています。
結城秀康石廟
 結城秀康の石廟の左隣には秀康の母の霊屋があります。同じ石造で桁行2間、梁間3間で切妻造です。ここも国の重要文化財に指定されています。
結城秀康と母の石廟

 深溝松平家は、徳川家康と苦楽をともにした松平諸家の一つです。有馬氏、松倉氏、高力氏のあと丹波福知山より松平家が6万5千石で島原藩に入封しました。5代続きますが、下野宇都宮の戸田家と交替しました。戸田家2代のあと、また交替して松平家が戻ってきて、幕末まで治めました。
備前島原 松平家墓所
 豊臣家墓所です。尾張中村の農家に生まれ、織田信長に仕えその優れた才知で頭角をあらわしました。長浜城址主となつて羽柴秀吉と名乗り、信長が本能寺の変で自害すると、各地を平定して天正18年(1590)北条氏を滅ぼして天下統一を成し遂げました。
豊臣家墓所
 織田信長墓所です。尾張の織田信秀の子として生まれ、信秀の死後美濃国、尾張国を傘下に治めて京に進出して室町幕府を倒しました。徳川家康と組み堺を掌中に収め安土城を築きました。延暦寺、石山本願寺も屈服させ、高野山金剛峰寺も焼き討ちしました。天正10年(1582)本能寺で家臣の明智光秀に襲われて自害しました。
織田信長墓所
 浅野内匠頭長矩の墓所です。浅野家は秀吉の妻・ねねの実家です。浅野長政は5奉行の一人でした。関ケ原の合戦では東軍につき、浅野本家は広島に入封、分家は赤穂に封ぜられました。浅野内匠頭は吉良上野介を殿中で切りつけ、将軍徳川綱吉の命により即日切腹させられました。
浅野内匠頭墓所
 庄内藩主の酒井家の墓所です。酒井忠勝は相続間もない元和5年(1619)越後高田藩10万石から信濃松代藩10万石に移封しています。元和8年(1622)出羽庄内藩の最上義俊が改易され、そこに13万8千石加増で入封しました。
出羽 庄内藩主 酒井家墓所
 加賀前田利長墓所です。加賀藩祖である前田利家の嫡男として生まれ、豊臣秀吉旗下の将校として転戦しました。秀吉没後から徳川幕府成立に至る難局を、苦渋の政治判断により乗り越え、加賀藩の礎を築きました。
加賀前田家二代利長墓所
 伊勢亀山藩の石川家墓所です。石川家は初代康通(石川家成嗣子)は家康に仕え、慶長6年(1601)に美濃大垣5万石を与えられました。石川総慶(ふさよし)は、山城淀藩の第3代藩主でした。備中松山藩主を経て延享元年(1744)板倉勝澄と交代して伊勢亀山藩の石川家初代藩主となりました。
伊勢 亀山 石川家墓所

 徳川御三家の一つである紀州徳川家の石廟です。初代藩主頼宣(よりのぶ)は家康の十男です。正室は加藤清正の娘・あま姫です。兄・義直と同じく、頼宣も大大名になっていきます。
紀州徳川家石廟
 慶長8年(1603)急死した五兄・武田信吉の後を受けて、若干2歳にして常陸水戸20万石を拝領しました。慶長14年(1609)には駿河駿府50万石の大守になりました。元和5年(1619)紀伊和歌山55万石5千石の藩主になりました。将軍家に次ぐ高い格式を持ち8代将軍吉宗、14代将軍家茂を出しています。
紀州徳川家石廟
 紀州藩は豊臣時代には浅野家が治めていて後に安芸に移封されました。頼宣は領国の実情と前領主・浅野家の治世を事前に調査し、城下や法令の整備をしました。地士制(地侍の保護)の採用し、儒教を広め「難治の国」と称された紀伊国をよく治めました。
紀州初代藩主 徳川頼宣墓所

 高麗陣敵味方戦死者供養碑です。慶長2年(1597)、豊臣秀吉の朝鮮の役で出征した島津義弘、忠恒の父子が慶長4年(1599)、わが国および高麗・大明国等敵味方の戦死者の霊を慰めるために建立したものです。
高麗陣敵味方戦死者供養碑
 初代鳥取藩主池田光仲は備前国岡山藩主・池田忠雄の長男です。寛永9年(1632)忠雄が亡くなったため、3歳で家督を継ぐこととなりました。 光仲が鳥取に初入国したのは慶安元年(1648)、藩主となって16年を経てからだったそうです。夫人は紀州藩主・徳川頼宣の長女・茶々姫です。
鳥取 池田家墓所
 初代 市川團十郎(だんじゅうろう)は元禄時代の江戸随一の人気者でした。全身を赤く塗った荒事の創始者として歴史に名を残しています。宝永元年(1704)市村座の公演で「移徒十二段」で佐藤継信を演じていた際、舞台上で役者生島半六に刺殺されてしまいました。
市川団十郎墓所
 本多忠勝は通称は平八郎と呼ばれました。「家康に過ぎたるものが二つあり、 唐の頭に本多平八」と称えられた徳川武闘派筆頭の猛将です。酒井忠次、榊原康政、井伊直政とならんで徳川四天王の一人です。慶長6年(1601)上総国(千葉県)大多喜から伊勢国桑名に10万石で移封し本多一族の繁栄の基を作りました。
伊勢桑名城主 本多忠勝墓所
 石田三成の墓もあります。15歳で秀吉に見出され、最年少で奉行に昇進。秀吉なき後、豊臣政権防衛のため西軍で「関ヶ原の戦い」にいどみ、家康に敗れました。家康は三成を処刑し、石田村にある先祖の墓石まで破壊させ、土中に埋めさせたそうです。
石田三成墓所
 明智光秀は織田信長幕下随一の智将でしたが、天正10年(1582)謀反を起こし本能寺に信長を、二条城に信忠を攻め滅ぼします。しかしその報を聞き急遽中国から引き返した秀吉に山崎の合戦で大敗、居城の近江坂本城へ引き返す途中に小栗栖で土民の槍にかかり命を落としました。
明智光秀墓所

 島津家久は戦国大名としての島津氏を成長させた島津貴久の孫になります。慶長11年(1606)、徳川家康から一字をもらい家久と名乗りましたが同じ名の叔父がいるため忠恒という名の方が多く紹介されています。
薩摩島津家 家久 光久 墓所
 慶長7年(1602)関ヶ原の戦いで父の島津義弘が西軍に属したため、講和交渉をしていた伯父の義久に代わり、家久は家康に謝罪のために上洛し、本領を安堵されました。同年、薩摩の内城に入りました。慶長3年(1598)の慶長の役の、泗川の戦いでは父義弘とともに8千の寡兵で明軍数万を破る猛勇を見せています。
薩摩 島津家墓所

 紀州徳川家の初代藩主頼宣(よりのぶ)は家康の十男です。御三家として将軍家に次ぐ高い格式を持ち、8代将軍吉宗、14代将軍家茂(いえもち)と二人の将軍を出しています。
紀州徳川家墓所

 越後の虎とも越後の龍とも呼ばれた上杉謙信の廟です。国の重要文化財に指定されています。謙信は内乱続きであった越後を統一し、越中国・能登国・加賀国へ勢力を拡大しました。
上杉謙信廟
 上杉氏の下で越後国の守護代を務めた長尾氏出身です。関東管領上杉憲政から上杉氏の家督を譲られ、上杉政虎と名を変えて上杉氏が世襲する室町幕府の重職関東管領に任命されました。将軍足利義輝より一字をもらい上杉輝虎とも名乗りました。
上杉謙信廟

 武田信玄は甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主でした。越後の上杉謙信と5回にわたって戦をし川中島の戦いとして後代に語られています。甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河を領し、勢力を拡大させました。
武田信玄 勝頼 墓所
 武田勝頼は信玄が攻め滅ばした諏訪家の血を受け継いでいます。元亀四年、信玄が没し、跡を継いだ勝頼は天正2年(1574)、東美濃に出兵、織田方の支城を落としました。しかし天正3年、長篠城を囲んだ勝頼は織田・徳川連合軍と設楽ヶ原で戦い、大敗してしまいます。天正10年(1582)、織田・徳川の甲斐侵攻が始まり、小山田信茂の岩殿城へ向かったが信茂に裏切られ、天目山で敵の挟み撃ちにあい妻子とともに自刃しました。
武田信玄 勝頼 墓所

 真田氏は、海野棟綱あるいは真田頼昌の子とされる真田幸綱(幸隆)が小県郡真田郷を領して以後、真田姓を名乗ったようです。関ヶ原の戦いが起こると、昌幸と次男信繁(幸村)は西軍に、長男信幸(信之)は東軍に分かれました。信幸の子孫8代沼田藩主は松平定信の次男幸貫で、佐久間象山を登用して殖産興業政策を行ないました。宇和島藩主伊達宗城の子で養子に入った真田幸民は新政府側に属して会津戦争などに従軍し、子爵(のちに伯爵)となりました。
信州 真田旧伯爵家

 毛利氏の本姓は大江氏です。鎌倉幕府の名臣大江広元の四男・大江季光を祖とする一族です。鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけて、越後国佐橋庄南条(現在の新潟県柏崎市)から安芸国高田郡吉田(現在の広島県安芸高田市)へ移った後に国人領主として成長しました。
山口 毛利家墓所
 戦国時代には国人領主から戦国大名への脱皮を遂げ、ついには中国地方最大の勢力となりました。関ヶ原の戦いでは西軍の総大将になったため、周防国・長門国の2ヶ国に減封されてしまいます。江戸時代末期には長州藩から数々の優秀な志士が現れ、明治維新を成就させる原動力となりました。
長州 毛利家墓所

 小出秀政と長男の小出吉政は、関ヶ原の戦いで西軍についてしまいましたが、二男の小出秀家が東軍で活躍し、その功を持って、秀政、吉政も許され、但馬出石の6万石の旧領を安堵されました。
丹波 出石 小出家墓所

 吉川家は藤原南家工藤流の流れを受け継ぐ家柄です。鎌倉時代に承久の乱で功を挙げ、播磨国福井荘(姫路市)、安芸国大朝荘(広島県北広島町)の地頭となりました。南北朝時代から室町時代にかけては土佐国の分郡守護に任命され、1313年に宗家は安芸国に移住し、駿河丸城、続いて小倉山城を拠点に勢力を誇りました。毛利家と吉川家は姻戚関係となり、毛利家は家臣として扱いましたが幕府からは諸侯の扱いを受け、維新後は子爵になっています。
周防岩国 吉川家墓所

 加賀前田家の関連の墓は彼方此方にあり大きいので目立ちます。外様大名でしたが徳川将軍家との姻戚関係が強く、準親藩の地位が与えられ松平姓と葵紋が下賜されました。大名の中で最大の102万5千石を領し御三家に準ずる待遇でした。
加賀 前田家墓所

 伊達政宗は関ヶ原の戦いで東軍、徳川家康に味方し62万石に加増され、仙台城を築きました。伊達宗家の当主は少将に任ぜられ、外様大名の中では別格の扱いを受けました。8代藩主斉村以降は30歳に達せず早死にする藩主が多く、一門からの養子でかろうじて無嗣改易を免れました。
奥州 仙台 伊達家墓所

 建久4年(1193)富士の巻狩りの際に起きた曾我兄弟の仇討ちがありました。この曽我兄弟の墓もあります。曾我十郎祐成と五郎時致が父の敵工藤祐経を討ち取りました。日本三大仇討の一つに数え上げられています。
曽我兄弟墓所
 法明上人墓所です。法明上人は融通念仏宗を復興させた人物として有名です。平安時代に天台僧・良忍によって開かれたこの宗派は鳥羽上皇や崇徳天皇などの帰依によって全国に広まりましたが、その後すたれていました。
法明上人墓所


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