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和歌山の旅と歴史
和歌山の旅    和歌山市

和歌山城
わかやまじょう
和歌山県和歌山市一番丁3
Tel 073-435-1044


 和歌山城は、戦国時代末期の天正13年(1585)3月、紀州を攻めて平定した羽柴(豊臣)秀吉が、弟の羽柴秀長に築城を命じ、藤堂高虎が縄張りをしたと伝えられています。
 その後、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で勝利を得た徳川家康は、浅野幸長を和歌山城主として甲斐から入城させました。幸長は、石垣の積み替えや城郭の拡張を始め、天守や城門、櫓の建設を行い、今に残る和歌山城の基を作り上げました。
 元和5年(1619)、幸長に変わって徳川家康の十子頼宣が55万5千石の地領で和歌山城へ入城。以来幕末の第14代藩主茂承までのおよそ250年にわたって紀州藩主として御三家として執政し、和歌山城がその藩政の中心となりました。
 築城当初は、山頂部分に本丸、二の丸があり、浅野時代になって麓に「御蔵の丸」「御屋敷」「御数寄屋」などが造られました。「梯郭式」と呼ばれる構造でしたが、徳川時代には「二の丸」を北麓の平地に移し、その跡に「本丸御殿」を建てました。
 さらに南麓に「南の丸」、御数寄屋の地に「西の丸」を置き、大手門から北の京橋口に、重臣屋敷を集めた「三の丸」を置きました。
 現在の和歌山城は、内堀で囲まれた内部の天守曲輪、本丸跡の虎伏山、その麓の二の丸、砂の丸、南の丸などの石垣が残されていま。それは、当時の4分の1の規模でしかないそうです。
 天守は大天守と小天守が連結式に建てられています。更に天守群と2棟の櫓群が渡櫓によって連ねられた連立式となっています。姫路城、松山城と並んで日本三大連立式平山城の一つに数えられています。


和歌山城岡口門(国重文)
 岡口門は和歌山城の南東部に位置します。浅野幸長が入城後、大手門として創建されましたが、浅野時代の後期に大手門から搦手門として修復されました。江戸時代前期の元和7年(1621)に城を拡張した際、現在の門に整備したと考えられています。
和歌山城岡口門
 岡口門は渡櫓門(わたりやぐらもん)で、切妻造り、本瓦葺きです。城の内郭へ入る門で二階建ての楼門形式の門は、岡口門と吹上大門だけでした。太平洋戦争の空襲でも焼けずに残った旧藩時代の数少ない遺構です。北側の土塀とともに昭和32年(1957)に国の重要文化財に指定されています。
和歌山城岡口門

和歌山城西之丸庭園(紅葉溪庭園)(国名勝)
 和歌山城の北西隅にある西之丸庭園は紅葉溪庭園(もみじだにていえん)と呼ばれています。江戸時代初期に紀州藩初代藩主・徳川頼宣が西之丸に隠居所の御殿とともに造られました。池泉回遊式庭園で、紅葉が多く植えられています。 作庭は上田宗箇(うえだそうこ)といわれています。
西之丸庭園
 虎伏山麓の斜面という立地を生かして湧水を利用した2段の池と瀧を設け、さらに内堀の一部をもう一つの池として庭園に取り込んでいます。内堀の畔には池亭「鳶魚閣」が造られています。昭和60年(1985)に国名勝に指定されています。
西之丸庭園

和歌山城(国史跡)
 和歌山城は昭和6年(1931)に国の史跡に指定されています。戦前には天守が現存し、多くの建物が 旧国宝に指定されていました。戦災で岡口門を除きほとんどが焼失しました。現天守は昭和33年(1958)に鉄筋コンクリート造りで復元されたものです。
和歌山城

和歌山城大手門
 和歌山城の大手門は浅野幸長が城主の時に岡口門からこちらへ移りました。ここ三の丸付近に家老屋敷や上級武士屋敷ができたためです。明治43年(1909)に大手門は倒壊しています。昭和57年(1982)に再建され、手前の一の橋もその翌年に架け替えられました。
和歌山城大手門

和歌山城追廻門
 和歌山城の追廻門はの大手門の反対側から砂の丸に入る門です。冠木門(かぶきもん)で、2本の門柱の上に本瓦葺の屋根をのせています。門の外側に馬術を練習する追廻(おいまわし)があったことから追廻門といわれています。
和歌山城追廻門


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