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広島の旅と歴史
広島の旅    福山市

福山城
ふくやまじょう
広島県福山市丸之内1-8


 元和5年(1619)徳川家康の従兄弟・水野勝成(かつなり)が福山十万石の領主となって築城しました。父の水野忠重が徳川家康の母伝通院の弟であるので家康とは母方の従兄弟にあたる関係です。
 天守閣は昭和41年(1966)の再建されたものです。現在内部は博物館になっています。歴代藩主の遺品や福山を中心とした備後地方の歴史と文化に関する貴重な資料が公開されています。
 京都の伏見城から移築されたという伏見櫓と筋鉄御門(すじがねごもん)は昔の姿を残す遺構となっていて国の重要文化財に指定されています。
 元和5年(1619)安芸、備後を治めていた福島正則が改易となりました。そのため安芸に浅野長晟、備後に水野勝成が入封しました。
 水野勝成は当初、神辺城に入城しました。神辺は山間地で城下町の発展が見込めなかったためこの場所に城郭を築こうとしたのでした。
 元和6年(1620)に大水害が襲い築城工事は困難を極め、人柱伝説もうまれたそうです。城を完成させるため神辺城の築材を使い、幕府からも伏見城の遺材も下賜されました。この時、移築されたのが伏見櫓なのです。
 山陽道の要衝を守る地として幕府は重要視しており、建築資金として幕府公金から金12600両・銀380貫が貸与されたそうです。苦難の末、4年がかりで、元和8年(1622)ようやく5層6階の天守閣が完成しました。そしてこの地も福山と名付けられたのです。
 福山城は、敵追山(てきおい)(鉄覆山)朱雀院久松城、またの名を葦陽(いよう)城ともいわれています。当時は、福山城の外堀と海は入江で結ばれ、すぐ近くまで船が来れたようです。
 元禄10年(1697)水野家は勝成のあと、勝俊、勝貞、勝種、勝岑と続きましたが5代にして断絶してしまいました。
 そのあとに松平忠雅が入りましたが水野遺領15万石のうち 再検地が行われ約5万石は天領となったそうです。下野宇都宮より阿部正邦が入封しました。これ以後は阿部家が支配しました。徳川幕府の幕閣の参政者を出し幕府を支えました。
 三代正右、四代正倫、五代正精、七代正弘は徳川幕府の老中となっています。なかでも阿部正弘は切れ者として有名で幕末の困難な政局を背負い、日米和親条約を結びました。


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