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岡山の旅と歴史
岡山の旅       倉敷市

五流尊瀧院
ごりゅう そんりゅういん
岡山県倉敷市林952
Tel 086-485-0027


 五流尊瀧院は天台修験系の一宗派である「修験道」の総本山です。熊野神社と接していて昔は神仏習合の形態でした。明治の神仏分離令により、五流尊瀧院は天台宗のお寺になり、十二社権現は熊野神社になりました。
 修験道の祖といわれる役小角が朝廷により伊豆大島に流され、弟子たちが各地を放浪し、役小角が赦免となった大宝元年(701)、現在の地に紀伊の熊野本宮の分霊を勧請したのが始まりです。
 役小角の弟子とされる義学、義玄、義真、寿玄、芳玄の5人が深く関わったとされ境内には、尊瀧院、大法院、建徳院、報恩院、伝法院が創建されました。山岳信仰の中心となり繁栄し、最盛期には60坊が境内に軒を連ねたと伝えられています。
 承久3年(1221)に承久の乱が勃発し、敗れた後鳥羽上皇は隠岐に流され、上皇の第4皇子である冷泉宮頼仁親王はここ児島に流されました。その後、親王は熊野神社と寺院を再興させています。頼仁親王の弟の桜井宮覚仁親王は尊瀧院の住職となり、公卿山伏といわれたそうです。
 室町時代になり応仁の乱が勃発し、応仁3年(1469)、細川勝元方に組した覚王院円海を中心とした兵火により灰燼に帰しました。その後、江戸時代の正保4年(1647)に岡山藩初代藩主池田光政によって社殿などが再建されました。
 神社の参道脇には五流尊瀧院の三重塔や梵鐘があり神仏習合の名残りがみえます。これらは岡山県の重要文化財に指定されています。また後鳥羽上皇御影塔は国の重要文化財に指定されています。

 五流尊瀧院の石造宝塔は後鳥羽上皇御影塔と呼ばれています。花崗岩でできた大宝塔で、地盤からの高さは約5mあります。鳥羽上皇が隠岐で亡くなった後一周忌供養のため、仁治元年(1240)に冷泉宮頼仁親王と桜井宮覚仁親王が建立したといわれています。五流尊滝院宝塔として昭和31年(1956)に国の重要文化財に指定されています。
五流尊滝院宝塔

 五流尊瀧院の三重塔は文政3年(1820)に再建された塔ですが室町時代の古い様式を伝えています。方三間で本瓦葺き、高さは21.5mで、熊野神社境内南に建っています。隅木の先に銅製の風鐸を吊り、屋上には青銅製の相輪を立てています。
五流尊瀧院三重塔
  美しい軒は、初重と二重を二軒繁垂木に、三重を二軒扇垂木としています。組物は和様二手先で、各重には高欄が巡らされています。柱には欅材の円柱が用いられているそうです。心柱は二重でとめられ、初重内部には四天柱が立ち、内陣、外陣に分けられているそうです。昭和49年(1974)に「尊龍院他4カ院三重塔」として岡山県の重要文化財に指定されています。
五流尊瀧院三重塔

 五流尊瀧院の梵鐘は康正3年(1457)に鋳造されています。総高129.4cm、口径は70cmあります。釈元柔の発願という銘があります。龍頭は背が高く笠形はやや膨らみを持っています。口径に比べて鐘身が高いすらりとした鐘です。昭和49年(1974)に岡山県の重要文化財に指定されています。
五流尊瀧院梵鐘


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