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岡山の旅と歴史
岡山の旅       瀬戸内市

餘慶寺
よけいじ
岡山県瀬戸内市邑久町(おくちょう)北島1187
Tel 086-942-0186 餘慶寺納経所


 上寺山(うえてらさん)餘慶寺は天台宗のお寺です。一山一寺多院制という形を今に残しています。現在は、恵亮院、本乗院、吉祥院、定光院、明王院、圓乗院の6つの支院があります。隣には豊原北島神社があり、平安時代に発展した神仏習合の形態も残しています。
 寺の縁起によると、天平勝宝元年(749)に報恩大師により日待山日輪寺という名で開かれたそうです、備前四十八ヶ寺の一つとして栄えました。その後、衰退しましたが平安時代に円仁(慈覚大師)が再興し本覚寺としたそうです。本尊に千手観世音菩薩を奉祀し、七堂伽藍が整えられました。
 その後、近衛天皇の勅願所となり現在の上寺山餘慶寺と改名したそうです。室町時代には浦上則宗に、戦国時代には赤松氏や宇喜多氏に、江戸時代には岡山藩主池田氏に庇護され繁栄したそうです。
 本堂は国の重要文化財に指定され、三重塔と梵鐘は岡山県の重要文化財に指定されています。薬師堂にある木造薬師如来坐像や木造聖観世音菩薩立像も国の重要文化財に指定されています。

 餘慶寺本堂は再建棟札が残されていることから永禄13年(1570)に赤枝弥三衛門光国が一族を結集して寄進し、再建した建物です。昭和54年(1979)に国の重要文化財に指定されました、
餘慶寺本堂
 間口5間、奥行5間、1重、入母屋造り、本瓦葺きです。江戸時代に付け加えられた唐破風造りの向拝があります。妻飾は二重虹梁大瓶束式。軒は二重繁垂木。円柱上に和様の出三斗を組み、中備(なかぞなえ)に蓑束(みのづか)を置いています。
餘慶寺本堂
 内陣(三間四方)の天井下板壁には観音二十八部衆の彩色像が描かれています。また、内陣内の須弥壇や厨子には桃山期の特徴をもつ優れた装飾が施されています。厨子には、本尊の千手観音が祀られています。室町末期の伝統的密教本堂の形態を残しています。
餘慶寺本堂

 餘慶寺三重塔は旧塔跡に江戸末期に再建された塔です。西幸西村の草井幸右衛門が6年がかりで寄進を募り、文化12年(1815)に完成させました。平成14年(2002)に岡山県の重要文化財に指定されました。
餘慶寺三重塔
 方3間(一辺3.48m)、本瓦葺きで高さは20.6mあります。初重の中央間には桟唐戸、脇間には連子窓、中備は中央に蟇股を置いています。各重とも斗拱は三手先、軒は初重、二重は二軒繁垂木、三重は二軒扇垂木、心柱は一層目の屋根裏から三層目の屋根上まで伸びて相輪を受けています。
餘慶寺三重塔
 棟札には工匠として宿毛村の、田淵市左衛門繁数と田淵宇三郎勝孝の2名の名が記載されていました。邑久大工の系譜や建築様式を知る上でも貴重な資料です。
餘慶寺三重塔

 餘慶寺鐘楼は嘉永3年(1850)、田淵勝永によって建立されています。瀬戸内市の重要文化財に指定されています。
餘慶寺鐘楼

 餘慶寺梵鐘は「上寺山の晩鐘」とも呼ばれ、九州に遠征した宇喜多秀家軍が戦利品として持ち帰り、餘慶寺に寄進したものと伝えられています。元亀2年(1571)に豊後国府中の惣道場(一向宗門徒の集まる施設)に寄進された鐘です。様式的な特徴から豊後高田の高田鋳物師の作であると考えられています。岡山県の重要文化財に指定されています。
餘慶寺梵鐘

 餘慶寺薬師堂は享保19年(1734)に再建された堂宇です。古くから眼病などの病気平癒の信仰をあつめ江戸時代には朝観音、夕薬師といわれるほど信仰されました。お堂の裏側には収蔵庫があり、国指定重要文化財の木造薬師如来坐像や木造聖観世音菩薩立像、岡山県指定重要文化財の木造十一面観世音菩薩立像を収蔵しています。
餘慶寺薬師堂


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