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鳥取の旅と歴史
鳥取の旅    鳥取市

鳥取城址(久松公園)
とっとりじょうし(きゅうしょうこうえん)
鳥取県鳥取市東町2
Tel 0857-26-0756


 鳥取城は、市街の北方にそびえる標高263mの久松山(きゅうしょうざん)の山頂を中心とした山城部の山上の丸と、山麓の天球丸、二の丸、三の丸、右膳の丸、丸の内などからなる平山城部からなる性格の異なる二種類の遺跡で構成された梯郭式の城郭です。
 天文14年(1545)天神山城を本拠としていた因幡の守護、山名誠通が出城として、久松山に築城したのが鳥取城の始まりです。山名氏は11ヵ国の守護職に任じられた大勢力の名族でしたが、戦国時代末期になると、わずかに因幡、但馬のみになっていました。 
 天正元年(1573)山名豊国が鳥取城を因幡山名氏の本城として整備しました。その後、中国の大勢力にのし上がってきた毛利氏一族の吉川経家の傘下となりました。
 天正4年(1576)足利氏最後の将軍足利義昭が織田信長に追われて毛利氏のもとに落ち延びてきました。信長は羽柴秀吉を総大将に任じて中国攻めを命じました。天正8年(1580)の鳥取城攻めで山名豊国は秀吉の軍門に下りましたが、家臣が豊国を追放し、毛利氏の吉川経家が鳥取城主となりました。 
 天正9年(1581)秀吉は2万の大軍で鳥取城を取り囲み、兵糧攻めにしました。このため鳥取城内では飢餓地獄になり、籠城4ヶ月で吉川経家はついに開城して自刃しました。
 天正10年(1582)浅井氏の旧臣で、秀吉の与力となっていた宮部継潤が但馬豊岡(豊岡市京町)から入封します。慶長5年(1600)の関ケ原の合戦後、西軍についた継潤は改易され、池田長吉が6万石で鳥取城主となりました。
 長吉は城の中心を久松山山麓に移し、4年がかりで城の大改築を行ない、ほぼ現在の形の鳥取城が完成しました。その後、元和3年(1617)姫路から池田光政が32万5千石で鳥取城主となり、城下町の整備を行ないました。
 寛永9年(1632)岡山城主の池田光仲が池田光政と入れ替わって鳥取城主となり、以後光仲系の池田氏12代で明治維新を迎えました。明治12年(1879)鳥取県は島根県に編入されたことで、県庁所在地(松江市)以外に城は必要なしと判断され破却されてしまいました。


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