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鳥取の旅と歴史
鳥取の旅    米子市

米子城址
よなごじょうし
鳥取県米子市久米町


 米子城は、応仁元年(1467)から始まる応仁の乱の頃、西軍の山名宗之(やまなむねゆき)が東軍の尼子氏に対抗するために砦を飯山(いいのやま)に築いたのが始まりと伝えられています。
 米子城は、天正年間に毛利元就の子である吉川元春がここを城郭として築きなおしました。天正19年(1591)元春の子である月山富田城主吉川広家は飯山の峰続きの湊山に現在の米子城を築き始めました。完成間近の慶長5年(1600)関ヶ原の合戦で毛利輝元(毛利元就の孫)が西軍の総大将となったため、参戦しなかったものの減封され、広家は周防岩国に転封されてしまいました。
 代わって駿府城主中村一忠(かずただ)が伯耆一国175000石を領して入城します。一忠はまだ11歳でしたが豊臣秀吉の三中老であった父の中村一氏が東軍に味方した功績を買われたようです。一忠は吉川広家が築いた天守の横に新たに五重の天守を築くなど城の大改築を行ないました。慶長8年(1603)一忠は執政家老の横田村詮を殺害し、村詮の子の主馬ノ助が父の無念を晴らすため、一族と共に居城飯山に立て籠もった「米子城騒動」を起こしています。
 慶長14年(1609)中村一忠は20歳の若さで急逝、嗣子無く中村氏は断絶しました。米子城へは加藤貞泰が6万石で美濃黒野から入封しましたが、元和3年(1617)、大坂の陣の戦功により加増され伊予大洲へ国替えとなりました。
 その後、米子藩は廃藩となり、伯耆・因幡はすべて鳥取藩池田光政の所領となりました。米子城は家老の池田由成が城代となりました。この由成の娘、松樹院は忠臣蔵」で有名な赤穂藩家老の大石(良雄)内蔵助の母になります。
 寛永9年(1632)池田光政が備前岡山城主に転封になり、備前岡山から池田光仲が鳥取城主となりました。米子城は鳥取城の支城として鳥取藩筆頭家老の荒尾成利が城代になりました。以後、荒尾氏11代の居城として明治維新を迎えました。 
 明治5年(1872)米子城は地元士族に無償に近い額で払い下げられ、翌年には城郭のすべては売却、取り壊しになってしまいました。山陰一の名城といわれた米子城は主城の鳥取城よりも大きかったそうです。高さ約20mの4重5階の大天守、高さ約15mの4重櫓の小天守をもう見ることはできません。


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