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山口の旅と歴史
山口の旅    下関市

功山寺
こうざんじ
山口県下関市長府川端1ー2ー3


 金山功山寺は元応2年(1320)に創建された曹洞宗のお寺です。国宝に指定されている仏殿は嘉暦2年(1320)に建てられた鎌倉期のもので、わが国最古の唐様禅宗式建築です。
 礎石と柱の間には木製の基盤が入り上下部分が細くなるちまき形の柱です。花頭窓と呼ばれる特殊な窓もあります。
 功山寺は当初は臨済宗で金山長福寺というお寺でした。足利氏、厚東氏などによって保護され、大内氏が周防、長門を統一するとますます篤く保護されました。
 弘治3年(1557)主君であった大内義隆を攻め滅ぼした陶晴賢は、大友義鎮(宗麟)の弟晴英を大内義長と改名させ大内家の当主にさせました。厳島で晴賢を破った毛利元就は、義長を攻めました。
 敗れた義長は、わずかな近従と長福寺に入り、自刃したのでした。6歳になる陶晴賢の末子鶴寿丸も義長とともに果てたのでした。
 慶長7年(1602)長府5万石の藩祖として入封した毛利秀元(元就の孫になります)が荒廃した堂宇を修営しました。その時に曹洞宗に転宗したそうです。
 二代藩主光広が、秀元の霊位をこの寺に安置し、長府毛利家の菩提寺となりました。慶安33年(1650)秀元の法号の智門寺殿功山玄誉大居士にちなんで功山寺と改められました。
 文久3年(1863)の政変で都を追われた討幕派の三条実美はじめ5人の公卿が功山寺にひそんでいました。奇兵隊の結成させたことで有名な高杉晋作は藩論回復のため、遊撃隊士などわずか80人ばかりの同志をひきいてこの功山寺で決起したのです。
 晋作は私兵でない証とするため、匿われていた5人の公卿にあいさつしたのち挙兵しました。次々と同士が集まり、ついには討幕の藩論を確定させたのでした。


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