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韓国の旅    ソウル


 ソウルは韓国の首都で政治,経済,文化,教育の中心地です。ソウルは600年以上韓国の首都であり続けましたのでたくさんの王宮や博物館などの文化遺跡があります。ソウルが都になったのには国土の中心に位置することと風水的に素晴らしいということがいわれています。
 「背山臨水」という言葉は韓国の人が好む言葉です。四方を山で囲まれ、大河・漢江が流れるソウルはこの条件を満たしています。青瓦台の裏山にあたる北岳山をソウルの主山として玄武とし、ソウルのシンボルタワー・ソウルタワーの立つ南山は朱雀に、仁王山は右白虎、駱山は左青龍にみなしているのです。
 これらの4つの山を結ぶようにつくられた城壁の街がソウルです。この城壁内で育った人を「ソウルトバギ」と呼んで誇りにしています。
 城壁の間にはこれも風水に基づいて建てられた東西南北の4つの大門とその中間に小門が置かれていたそうです。現在は南大門、東大門の他わずかに残っている城壁の一部しか目にすることは出来ません。 
 1392年、高麗(コリョ)王朝の名武将の李成桂(イ・ソンゲ)が朝鮮王朝を興しました。そして都を開城からソウルに移しました。ソウルは漢陽(ハニャン)と呼ばれ、遷都で漢城(ハンソン)と改名されました。ソウルという漢字はなく韓国の固有語で首都や都を意味する言葉だということです。
韓国風焼肉のプルコギです。



徳寿宮
トクスグン
 1470年、第9代国王・成宗が兄の月山大君の私邸として建てられたのが徳寿宮のはじまりです。月山大君の末裔が代々住んでいましたが、豊臣秀吉の朝鮮出兵の時に景福宮や昌徳宮が焼失してしまったので、貞陵洞行宮という仮の王宮がここに設けられました。
 第15代王・光海君(クァンヘグン)が慶運宮(キョンウングン)と命名しここで生活したそうです。1615年に光海君が昌徳宮(チャンドックン)へ居場所を移しました。1897年第26代王高宗はここで政務を執りましたが、日本によって退位させられ余生をここで過ごしました。



ソウル市庁
ソウル・シチョン
 ソウルの心臓部、太平路と乙支路の交差点北側に建っています。庁舎は日本統治時代の京城府庁舎だったものです。旧日本政府が建てた建物は取り壊されているので、この市庁舎も長くはないかもしれません。



南大門
ナムデムン
 南大門は、14世紀末に建国した李朝の王宮(景福宮)の周囲を固める四大門のひとつとして1399年に造られ、正門として使用されました。現存する朝鮮王朝最古の木造建造物で、国宝1号に指定されています。豊臣秀吉による朝鮮出兵の際には、加藤清正もこの門から中に攻め入ったという話もあります。

 南大門付近に南大門市場があります。ソウル随一の繁華街(明洞)に近く、広さが10エーカー以上あります。現在では東大門と並んでソウルを代表する市場として有名で、ありとあらゆる商品が所狭しと並べられています。

 市場の北側の果ての南大門路の地下にも広い地下商店街が形成されています。多くの南大門市場の商店が建物の中に密集していますが、やはり南大門市場を代表するのは建物の廊下や通りに並んでいる露店商店です。



李王朝の正宮
景福宮
キョンボックン
 景福宮は朝鮮時代(1392ー1910)の正宮で、朝鮮王朝を立てた太祖李成桂が彼の統治4年目である1395年に朝鮮王朝の中心の宮にするために建てました。その後、多くの宮殿が建てられたが, 景福宮ほど壮大な規模を誇っているものは他にはありません。完成時には12万6千坪という敷地内に200棟を越す殿閣が立ち並んでいたといわれます。1592年の文禄の役によりほとんどが焼失してしまいました。

光化門
クァンファムン
 純韓国様式の楼門で景福宮の正門になります。3つの入口の中央が王と王妃、東が文官、西が武官の通り道と決められていそうです。1926年、旧朝鮮総督府が完成し、取り壊されることになりましたが林宗悦らのおかげで難を免れ東門の北側に移されました。その後、朝鮮戦争で焼失。1969年、元の場所にコンクリート造りで復原されました。

勤政殿
クンジョンジョン
 勤政殿は国宝第22号に指定されている景福宮の正殿で、「民を勤勉に治める」という意味を含んでいます。王の即位式や外交官の接待などが開かれたところで、景福宮にある建物の中で最も雄大な建物です。

思政殿
サジョンジョン
 思政殿は王が日常的な業務を処理していた執務室です。 勤政殿から眺めると思政門(サジョンムン)と思政殿は、言葉では表現できないくらい端正な姿で、王を象徴する龍の描かれた壁画も必見です。

康寧殿
カンニョンジョン
 王と王妃の生活の場であり、寝室でもあった康寧殿と交泰殿は宮殿の建物の中で一番中心部に位置しています。部屋は井桁型に9つに分かれており、中央の部屋で王が寝ていたようです。康寧殿は前面が11間(約20m)もあり、朝鮮時代では珍しい造りです。
時代劇の撮影をしていました。

交泰殿
キョテジョン
 王と王妃が生活していたため、外部からの侵入を防ごうと、康寧殿と交泰殿は周囲を9つの壁で囲まれていました。この二つの建物は、とても美しい格子で作られています。

慶会楼
キョンフェルー
 慶会楼は韓国で最も大きな楼閣で国宝224号に指定されています。1万ウォン札にも使われています。出会いを楽しむ場という意で、蓮池の中に48本の石柱があり水に浮かぶ慶会楼は貴賓のための宴会場に使われたり、科挙の試験会場にもなったそうです。

明成皇后殉国崇慕碑
(ミョンソンファンフスングッスンモビ)
 景福宮内には1895年10月8日、日本公使の三浦梧楼らによって当時の王妃閔妃が殺害された(閔妃殺害事件)場所です。レリーフが飾られています。



国立民俗博物館
 建物の前面中央は造形性に優れた仏国寺(プルグクサ)の青雲橋・白雲橋の形態を真似て造られています。前面真中の五重塔はポプチュ寺の捌相殿を、東側の三重塔はクムサン寺の弥勒殿を、左側の二重の建物はファオム寺のカクファン殿を表わしています。
 景福宮の中の「国立民族博物館」は、生活をテーマに民族生活、衣食住、冠婚葬祭についての展示がされています。
 かっての国立中央博物館のあとに移転、拡張されてオープンしました。屋内の展示面積2224坪に4300余りの遺物が展示されています。



東大門
トンデムン
 正式名を興仁之門(フンインジムン)といいます。1398年に建てられたソウルの東門です。1869年に再建されたものです。門の外側に半円の強固な外壁が築かれている甕城という造り方です。
 南大門市場と同様に東大門市場という名前も東大門からきたものです。'90年代以降、新しい衣類ショッピングビルが次々とオープンし、近代的市場へとすっかり様変わりしました。
 東大門運動場の向こう側のサムイル高架道路の向かいには10代や大学生などヤング向けのショッピング天国であるドゥサンタワーとミリオレが立ち並んでいます。最新流行の服、履き物、カバン、色とりどりのグッズ、ジュアリー、ファッションアクセサリーなど所狭しと並んでいます。



東洋のパルテノン
宗廟
チョンミョ
 朝鮮王朝の歴代の国王と王妃を祀った廟です。景福宮と同じ時に造られ、1395年に完成したそうです。1592年の文禄の役でほとんどが焼失しましたが1680年代に再建されました。
 本殿に祀られているのは、李朝500年の歴史の中で特に功績のあった国王と王妃です。18ヘクタールという広大な敷地内は豊かな緑で覆われ都会の真ん中とは思えないほど静けさに満ちています。
 現在も儀礼が執り行われている韓国儒教の伝統を最もよく表した儀礼遺産です。その建築的価値などが評価され1995年12月に世界文化遺産に登録されました。



昌慶宮
チャンギョングン
 昌徳宮の東隣りにあります。第4代国王世宗が引退した父・太宗のために1419年に建てた離宮です。建造当初は寿康宮という名だったそうです。
 1483年に第9代国王・成宗が三人の大妃(元王妃)のために再建して整備し直しました。名前も昌慶宮に変わりました。広大な敷地にはたくさんの樹木があり6月にはつつじがきれいだそうです。
涵仁亭
 昌慶宮は、日本統治時代の1909年に動物園や植物園、李王家博物館などになって一般に公開されました。王宮としての権威をなくなり、1911年には昌慶苑(チャンギョンウォン)に格下げされました。その後長い間、宮殿というより公園として市民に親しまれてきました。
 1983年12月から3年間、復元工事が行なわれ、動物園などを撤去移設して、創建当時の昌慶宮の宮殿としての姿を取り戻しました。
 正門の弘化門は文禄慶長の役で唯一焼失を免れた建築物で李朝初期の建築様式を伝えています。
弘化門



昌徳宮
チャンドックン
 李氏朝鮮第3代国王・太宗により1405年に離宮として建造されました。景福宮と同様に1592年の文禄の役で焼失しましたが1615年に再建されました。正門の敦化門は優美な木造の門です。昌徳宮の中では文禄の役の際焼失を免れた唯一の建物です。
敦化門
 敦化門 は宝物第383号に指定されています。昌徳宮の正門になります。昌慶宮の弘化門とともに代表的な朝鮮宮殿の正門です。
敦化門
 昌徳宮は李王朝五大故宮の中で昔の面影を一番残しているところです。敦化門の前で昔の宮廷の行事が再現されていました。
 進善門を通り過ぎ、少し進んで左に方向を変えると仁政門(インジョンムン)が見えます。仁政門は宝物第813号に指定されています。
進善門

仁政殿
 昌徳宮の正殿が仁政殿です。仁政殿に入る正門が仁政門です。この門の前には国民が苦情を訴える時に打つ太鼓があったそうです。太宗の代にはこれを申聞鼓(シンムンゴ)、宣祖の代には登聞鼓(トゥンムンゴ)といったそうです。
 仁政殿は国宝第225号に指定されています。王の即位式がこの正殿で行われました。仁政殿は重層入母屋造りの荘厳な建物で、内部には絢爛豪華な装飾が施されています。

大造殿
 国王と王妃の御寝殿であり、王とその家族が生活した中宮殿でもあります。1405年の創建です。現在の建物は、1920年、日本の統治時代に、煕政堂と共に景福宮の交泰殿として建てられたものを移築改築したものです。内部は現代的な内装が施され、西洋式の家具などが置かれています。
 東側には大造殿と廊下でつながっている小さい建物の興福軒があります。朝鮮王朝の最後の御前会議が開かれた場所なのです。1910年8月22日、日本警察の警備の中で韓日合邦がなされた所なのです。

楽善斎
ナクソンジェ
 楽善斎は、憲宗13年(1847年)、後宮の処所として建てられました。1989年まで徳恵翁主と李方子女史が生活したところです。朝鮮末期の典型的な邸宅で、今は、昌徳宮に所属していますが、創建当時は、昌慶宮の一部でした。
 ここ楽善斎は昌徳宮のなかで目立たない建物です。丹青などが塗られていないため王宮のわりには質素に見えます。ここは王が亡くなったあと、王の側室や女官などが過ごしたところでした。
 ここは対馬の宗氏と結婚させられた徳恵公主(トッケコンジュ)、梨本宮家から嫁いだ李方子(イーバンジャ)たちが晩年を送ったところでもあるのです。
 西側から楽善斎、錫福軒、壽康斎が配置され、全面と側面に回廊か渡され一郭をなしています。これらを総じて楽善斎と呼んでいます。後庭には聚雲亭、上凉亭、別堂である關テ堂が地勢によって配置されています。



明洞聖堂
ミョンドンソンダン
 明洞の高台にそびえるカトリック教会の総本山です。1897年にフランス人神父コストによって建造されました。韓国では一番古い教会で、空に突き出た尖塔は45mもあるそうです。韓国人の20パーセントはキリスト教徒です。



明洞
ミョンドン
 ソウル中区にある明洞はソウル一の繁華街で韓国流行の発祥地です。大規模なデパートが密集しているだけでなく、国内、海外の一流ブランドのブティック、シューズショップ、アクセサリーショップ、化粧品店まで、ファッションに関わるあらゆる店が集まっています。
 銀行や証券会社も数多く集まっていてビジネスマンの姿も多く見られます。低価格を売り物にする南大門や東大門とは異なり、韓国の人気ブランドの他、世界的にも有名なショップが立ち並んでいます。レストランには日本語のメニューが出ていたり、街には街頭芸人がアピールしていたりで活気のあるところでした。



仁川国際空港
 仁川は1950年朝鮮戦争で北朝鮮に深く侵攻されていたとき、国連軍がここの海岸に上陸し、不利な戦況を一気に逆転させたところです。
 仁川国際空港に代わって数日しかたっていないときに訪れたのでかなり混乱していました。



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