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世界の旅
モロッコ アトラス山脈越え、アイット・ベン・ハドゥ

「サバハヒール!(おはよう!)、シュクラン(ありがとう)、アッサラーム(さようなら)。」
・何かあったらインシャッラー(神が望むのならば)をつければ完璧です。
北西アフリカの3国、モロッコ、アルジェリア、チュニジアを総称してマグレブと呼びます。
マグレブとはアラビア語で“陽の沈むところ”。
その西の端にあるのがモロッコです。日本とは反対の国なのです。

 マグレブの地には太古よりベルベル人が住んでいました。
 古くはカルタゴ、ローマ、バンダル、ビザンチンの支配を受けました。モロッコは北アフリカの交通の要所にあり、古くからフェニキア人やローマ人が進出していました。
 7世紀以降、イスラム教布教のためにやってきたアラブ人によってアラブ化されていきました。
 その後、ベルベル人、アラブ人による各イスラム王朝が興亡を繰り返すことになります。マグレブが今の3国に分かれたのは13世紀の初めです。
 モロッコがほかのマグレブ国と違うのは、15から16世紀にイスラム世界の覇者となったオスマントルコ帝国の支配を受けなかったことです。
 大西洋や地中海沿岸の港町はスペイン、ポルトガルの支配を受けることもありました。
そして近代。19世紀にヨーロッパ諸国がアフリカに進出するための足がかりとして大量に流入し、1912年フランスとスペインが分割統治してしまいました。
 これに対して民族自決運動が高まり、1956年3月2日やっとフランス領の部分の独立を回復しました。そして翌年8月14日にモハメド5世が即位してモロッコ王国となりました。
 そして翌年にはスペイン領の部分も無事再併合をかちとり、現在に至っています。
 さまざまな歴史の波にもまれながらも、人々は決して民族の誇りを失うことなく「モロッコ人」であり続けてきました。
 初めてこの地を訪れて驚くことは、ヨーロッパにこれほど近いにもかかわらず、独自の民族文化を守ってきていることです。


アフリカは寒かった
アトラス山脈越え
 マラケシュからカスバ街道のあるアイト・ベン・ハッドゥへ
 アトラス山脈越えです
4000m級の山々の間をぬって狭い雪道をバスは行きます
 上り坂の時、反対車線から乗用車が突っ込んできました。タイヤはパンクし、横面はペコペコになってしまいました。相手のフランス人からたった3万円とっただけでタイヤを交換していました。 その間、われわれは外で待っていました。前の日は対向車がはねた小石が横のガラスにあたり割れました。バスは路肩に寄せ、残りのガラスをきれいに落として。そのまま2時間走り続けました。




カスバ街道2


古くから南北アフリカをつないだ重要路

 アトラス山脈の南側、ワルザザードからティネリール(トドラ峡谷)を経てエルラシディアを結ぶ道です。カスバとは外敵から守る城壁に囲まれた要塞の事です。街道沿いにはカスバやオアシス、峡谷が点在しています。ワルザザードの西約20キロメートルには世界遺産に登録されたアイト・ベン・ハドゥのカスバがあります。ここやティフォルトスのカスバは映画『アラビアのロレンス』に登場しました。



アラビアのロレンスの舞台
アイト・ベン・ハッドゥ
世界遺産

世界遺産に指定されたこのカスバは、映画アラビアのローレンスの舞台になったことでも有名です。昔、アトラス山中から産出した岩塩の交易路としてこの地が拠点となりました。通行税をとる代わりに、盗賊からキャラバンを守ってやりマラケシュへの山岳ルートの 通行を助ける役目をしたのです。

 アイト・ベン・ハドゥは巨大な要塞都市です。斜面を利用して造られていて、世界遺産にも登録された迫力ある景観を作り出しています。対岸からカスバを一望することができます。その全貌の迫力に圧倒されます。固く閉ざされた入り口の門、高い城壁、高い塔、迷路のような通路…難攻不落の要塞の威容を誇ります。日干しレンガで造られた村は茶褐色一色です。ここは風が強く、砂でフェンダーが閉まらなくなりました。


雨が降った次の日だったので川を渡らなければなりませんでした。小さなロバに180cmの大柄な私と90kgの男性、そしてロバ使いの少年が乗りました。あまりの重さにロバは動こうとはしません。少年は鞭で行くようにはたきます。川の中で何回とまってしまったでしょうか。頭に浮かぶのは2台のカメラでした。落ちて水に濡れたらどうしよう。ただそれだけでした。私の人生でこれほど真剣に恐怖と向き合った時はありませんでした。それにしても気の毒だったのはあのロバ君でした。シュクラン!!

エルフード近郊

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