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世界の旅
世界の旅 モロッコ メクネス、ボルビリス、ラバト

オリーブと水、ブドウ畑の古都
メクネス

静かな古都はモロッコの都市を結ぶ中継地

フェズの西約60キロメートルに位置しています。周辺はモロッコでも最も肥沃な農業地帯で、果樹園やオリーブ畑が広がっています。10世紀に街の基礎が作られ、最盛期は17世紀。名君ムーライ・イスマルにより整備され「イスマルの都」とも呼ばれました。青と緑のモザイクが美しいマンスール門、ムーレイ・イスマル廟、アグダルの貯水池などが有名です。メディナの中心はハディーム広場で、スークは庶民的です。スークの中央部にはメクネス最大のモスク、グラン・モスクがあります。中には入れませんが、タイル張りの美しい屋根は遠くからも見ることができます。街はローマ遺跡ヴォルビリスや聖地ムーレイ・イドリス観光への拠点にもなっています。


 メクネスは人口約50万人の静かな落ち着いた町です。ここは「メクネッサ・ザイトーン」とも呼ばれているそうです。意味は「オリーブのメクネッサ」ということです。9世紀にベルベル人のメクネッサ族がこの地に定住し、周辺にオリーブなどの農業地帯を作ったことからこの名が付いたそうです。

 メクネスの最盛期は17世紀、ムーレイ・イスマイルとともにやってきました。1672年にアラウイー朝の後継者となったこのスルタンはメクネスに都をおき、次々と巨大な城壁、壮大な門、モスク、穀物倉庫、カスバなどを建てました。噂によると500人の妻、12,000頭の馬、30,000人の奴隷を持っていたといいます。  彼は同時代に君臨したフランスのルイ14世に憧れヴェルサイユ宮殿が好きでした。そしてメクネスを第2のベルサイユにしようと都市の建設を進めたのでした。そしてフランス国王ルイ 14世の娘との結婚を望みましたがルイ14世は拒否したということです。その代わりにルイ14世はムーレイ・イスマイルに4つの置き時計を送ったということです。現在それらはムーレイ・イスマイル廟の中に置かれているということです。

 ムーレイ・イスマイル55年間メクネスを栄光で満たし、1727年に亡くなりました。その後、メクネスは衰退し、歴史の舞台はマラケシュやフェズへと移っていきました。

 1912年フランスとの保護領条約締結後、メクネスはフランスの軍事基地の中心になり、肥沃な土地に目をつけたフランス人農家が連れ立ってメクネスにやってくるようになりました。メクネスは現在ではフランス人が導入したワインの大生産地になり、おいしい水とともに有名になりました。

< マンスール門 >
北アフリカで最も美しい門だといわれています。ムーレイ・イスマイルが手がけた最後の建築物で息子が完成させました。イスラム教に改宗した「マンスール」が設計したのでマンスール・エルアルージュ門と呼ばれます。改宗者の勝利の門という意味だそうです。
マンスール門 グラン・モスク


静かなムスリムの聖地
ムーレイ・イドリス

  最後の王朝都市メクネスを後にして30分程道を走ると真白い家々が密集して山頂まで広がって景色が目に入ります。
  ここが8世紀にモロッコ初のイスラム王朝となったイスラムの聖地ム−レイ・イドリスです。「聖者の町」とも呼ばれています。
  789年に、モロッコ最初のイスラム王朝イドリス朝が開かれたところです。
創始者ムーレイ・イドリス1世は預言者モハメッドの子孫で、アッバース朝に追われてここに来たそうです。モロッコで最も崇拝されている聖者の一人です。かっては町全体が聖域として非イスラム教徒に閉ざされていたそうです。急な坂と階段の狭い通路ばかりです。町の中には歩いていくしかないそうです。

ローマの遺跡
ヴォルビリス

モロッコ最大のローマ遺跡ヴォルビリス。メクネスから車で40分ほどです。
また、聖者の町、ムーレイ・イドリスからは5分ほどです。。

ローマ帝国以前、紀元前2世紀頃から人が住み始め、モーリタニア王国のユバ2世がここに都市を建設、「月桂樹」という意味の「ワリリ」と名付けたそうです。紀元前40年以後、ローマ帝国の属領となり繁栄しました。2万人もの人が住み、凱旋門や神殿など数々の美しい建物が建てられました。
 3世紀末にはベルベル人の圧迫により町は衰退し、ローマは撤退しました。8世紀にはムーレイ・イドリスの支配下に入り、イスラムの町となりました。フェズの繁栄に反して町は徐々に衰退していき、1755年のリスボンの大地震で町のすべてが埋没ました。1874年フランス人に発見されるまで、町はこの世から姿を消したそうです。

また町全体が遺跡として残っているので当時の生活の情景がありありと見えるようです。

 家の建物は床とか少しの壁とかしか残っていませんが、床にはきれいなギリシア神話のモザイクが残りオルフェス、バッカス、ヘラクレス、ヴィーナスなどが描かれています。 町の入口にはパリの凱旋門の原形をとどめるカラカラ帝の凱旋門、その右手には神殿などがあります。
 1887年から発掘が開始されました。全長2400mの城壁に囲まれた40ヘクタールもの敷地をもつこの遺跡は、現在も発掘作業が続けられています。


モロッコの首都
緑豊かな庭園都市
ラ バ ト
RABAT

ムディナを守るために造られた街

かつてはムディナとひとつの街で、静かにカトリックの信者が暮らしていました。アラブ時代にムディナを守るために街の周囲に溝を掘ったことで、ラバトの街が誕生しました。街にはローマ時代の遺跡などが点在しています。


ラバトはカサブランカよりもずっと小さい都市ですが静かで落ち着いた雰囲気を持つ庭園都市です。この町の歴史は古く数多くの変遷を経てきました。10世紀にベルベル人のゼナータ族がここに要塞(リバーター)を作りました。その後フェニキア人、ローマ人の衛星都市として発展しました。特にローマ人の定住地はサラ・コロニアルと呼ばれ、ローマ帝国滅亡後も発展し続けました。7世紀後半、東方からアラブ人が新宗教イスラム教を持ち込み、ローマ人はこれを信奉するようになりました。
788年モロッコ初のイスラム王朝、イドリス朝がフェズにて成立しました。1056年にはマラケシュのムラビト朝が成立しました。それにより、町は衰退していきました。
 12世紀、アルモハッド朝の頃、戦いに区切りをつけスペインからのリコンキスタ勢力に対抗するため、リバートを城塞にしました。そしてムハヒッド朝の王、ヤコブ・エルマンスールはスペインに勝利し5キロにおよぶ城壁を作り、ラバトは王朝の首都となりました。この王は西方イスラム圏で最大のモスクの建設を望み、1196年モスクの建設を命令すました。しかし、わずか3年後の彼の死によって工事は中止され、同時に王朝も衰退していきました。現在残っているのは、ハッサン塔と呼ばれるミナレットだけだといいます。
 17世紀、レコンキスタで南スペインを追われた多くの難民がこの地に逃げ込んできました。
 その後、ラバトは商業貿易の中心地として発展し、1921年にはモロッコの首都となり今日に至っています。

11世紀なかばアルモハッド朝の権力者、ヤコブ・エル・マンスールはマラケシュを中心にスペインまでその領土を広げました。セビリヤ、マラケシュ、ラバトに彼の権力を誇示するため塔の建設を開始しました。しかしラバトのハッサン塔は彼の死により未完に終わりました。そのモスクは18世紀のリスボンの大地震で壊れました。歴史のはかなさを、残された360本の柱が物語っています。

< ムハンマド5世廟 >
フランスからモロッコの独立を勝ち取った前国王ムハンマド5世の霊廟です。1961年に没後、1973年に完成しました。モロッコの伝統的な建築技術と彫刻が美しく調和しています。
金の天井、イタリアのカララ大理石の柱、ポルトガルの黒大の床、巨大なブロンズの門、真鍮細工のランプ、そしてその模様はすべて手彫りで施されています。

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