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スリランカの旅    コロンボ・ニゴンボ

スリランカ民主社会主義共和国
Democratic Socialist Republic of Sri Lanka

 宝石で有名なスリランカ。インドのそばの小さな国は活気あふれるところでした。目が合えばバスの中にいようが買ってくれと必死で呼びかけてきます。町中に日本の車があふれています。しかも漢字で書かれた商業車は塗り変えられず逆にステイタスとなって自慢げに乗られているのです。テロ事件が頻発しているので警戒は厳重です。特に有名な寺などは狙われやすいので大勢の警官が警護しています。幹線道路は時々ドラム缶が道路に置かれジグザグに走行したり検問を受けたりしました。敬虔な仏教徒が大半で朝と夕方町中にスピーカーからお祈りが聞こえると部屋の隅にろうそくをつけて祈っていました。

 スリランカとは「スリ」が光輝く、「ランカ」が島、つまり光輝く島という意味だそうです。植民地時代のポルトガルでは「セイラオ」、オランダでは「ゼイラン」、イギリス時代は「セイロン」と呼ばれていました。シンハラ王朝と関係ある名前のようです。

 スリランカの記録上の歴史は、紀元前6世紀頃、主に北インドからの移住者の到来と共に始まりました。彼らは、移住の一つの流れ以上に、北西部、北部、北東部、東部の乾燥地帯に定住した。何世紀と経つにつれ、移住者達は徐々に島の原住民達と同化していきました。

 インド外部へ仏教を普及させたことで有名なインドのアショーカ王の息子、マヒンダにより、紀元前243年に仏教がスリランカへ伝えられました。人口の七割を占めるのが、インド北部のアーリア系を先祖とするシンハラ人です。シンハラ人は仏教徒です。

 残りの二割はインド南部から来たヒンズー教徒のタミル人と、7%のムーア人と呼ばれるイスラム教徒です。
 北部平地の乾燥地帯に人々が移住定住し灌漑の大きな設備が発達しました。食物の自給に大いに役立ちました。

 度重なる湿地地帯への首都の移転と共に、乾燥地帯で農業を支えていた灌漑設備は、徐々に整備されなくなりました。経済を独占していた農業は、ヨーロッパや中東におけるスパイス、宝石など、貿易中心の経済へとシフトを変えていきました。

 この島に最初に訪れたヨーロッパ人はポルトガル人でした。16世紀、東部以外の湾岸平地の大部分を支配下に置きました。そしてキリスト教も伝道したのです。

 1658年にポルトガルは、オランダに追い出されました。当時造られたオランダ建築は、スリランカ建築に多きな影響を及ぼしました。ゴールのオランダ砦などは世界遺産に指定されています。オランダ家具なども同様で根強い人気があります。

 キャンディが最後の王国の首都であったとき、イギリスが島全体を支配しました。イギリスは丘陵部に、コーヒーのプランテーションを始めましたが、次第に紅茶を主力にシフトを変えていきました。

 1930年代に成人選挙権が国に導入された時、強力な民主主義の基盤が固められました。1948年にイギリスから独立をし、1955年には国連に参加し、1961年に初めて非同盟のメンバーとなりました。そして1972年、共和国になりイギリス連邦に残ることを決めました。

 独立後スリランカは、福祉の発展を遂げてきました。識字率の標準(91.8%)、教育、健康(平均寿命女性74.2歳、男性69.5歳)、発展途上国では最良です。UNDP(国連開発計画)やUNICEF(国連児童基金)評価では、スリランカはHDI (人類開発指標)の基本で発展途上国の中では一番とされています。

 スリランカは北海道の八割くらいの大きさです。美しいインド洋に面し何キロも続く海岸線があったり、ジャングルがあったり、海抜2524mのピドゥルタラガーラ山という高い山があったりします。熱帯モンスーン気候に属しているのに紅茶の産地ヌワラエリヤなどは最高でも20度程度です。本当に日本に負けないくらい多様な顔を持っています。ただし平地での暑さだけは耐え難いものでした。冷房の効きの悪い部屋に泊ったときは一睡も出来ませんでした。



コロンボ
Colombo
 コロンボのフォート近くの海岸にはたくさんの凧が上がっていました。家族連れなど大勢の人々が遊びに来ていました。

 突然、日本語で話しかけられ恵まれない人のために募金活動をしていますと近寄ってきた男性がいました。事前にこのような人がいて生活しているという事を聞いていました。
スリランカの凧

 日本語で署名したノートを見せられたり、どこのものともはっきりしない証明書を見せられたりしました。お金をもらえないとわかるとにこやかな表情は消え険しい形相になっていました。

 オート・リクシャーの運転手には柄の悪い人がいます。最初は愛嬌よく話しているのですがふっかけてきますし、写真を撮るだけでも高額なチップを平気で要求します。
オート・リクシャー


 こちらの人はカメラを向けると嫌がるどころか喜んで寄ってきます。あらかじめ自分の住所と名前を印刷したメモなど持っている人などもいて写真を送って欲しいと懇願します。
ムルガン寺院
 コロンボはポルトガルの到来と共ににぎやかな都市となり、その後オランダやイギリスが続きました。ウォルヴェンダアル・オランダ教会は1749年に建てられ、今はオランダ美術館となっています。植民地時代の建物です。要塞地域には、イギリス統治時代のカーギリス、ミラーズ、大統領邸宅を含む多くの建物があります。
ムルガン寺院


 コロンボは1815年にイギリスによってスリランカの首都とされました。コロンボ港は何世紀にも渡り、船乗りが豊富なスパイス、宝石、象でさえも購入しにスリランカへやって来たと知られていました。
シーマ・マラカヤ寺院


 首都であったコロンボは郊外のスリー・ジャヤワルダナプラ・コーッテに首都が移転しました。15年以上もたっていてもこの国の代表都市であり、企業や政府事務所、大使館、国際的な代理店が未だに立地しています。
シーマ・マラカヤ寺院


 コロンボ郊外のスリー・ジャヤワルダナプラ(通称・コーッテ)は、国会議事堂の建物などが野原のまん中に建っているだけのところです。町の名は、スリー=光り輝く、ジャヤワルダナプラ=元大統領名に因む。また「コーッテ」は15世紀のコーッテ王国の名からきています。
ガンガーラマ寺院

 コロンボはスリランカの事実上の首都で政治・経済の中心としての役割を担っています。特に他のアジアの国でもよく見られる朝・夕のラッシュには驚かされます。公共交通機関はバス・列車・タクシーで庶民の足はトクトクと三輪自動車がけたたましく走り回っています。
ガンガーラマ寺院

 色々な場所に、仏教寺院、ヒンドゥー教寺院、イスラム教モスク、教会が並んでいます。
ガンガーラマ寺院
 ペター地区もフォート地区もイギリスの植民地時代の建物がたくさん残されています。スーパーマーケットも街角に違和感なく営業しており、道路は広いし、清潔感が漂っています。
ガンガーラマ寺院

 コロンボは同じイギリスの植民地であったマレーシアによく似ています。この地帯の街としては清潔感もあります。植民地時代の建物が多く残っています。
ガンガーラマ寺院
大統領官邸の近くの道路はバリケードで閉鎖されていて、道端には土嚢が積まれています。ライフルを構えた兵士が大勢鋭い目を光らせていました。
ガンガーラマ寺院

ガンガーラマ寺院



コロンボ国立博物館
Colombo National Museum
 コロンボ国立博物館は,コロンボ7にあるスリランカの歴史と民俗を凝縮させたスリランカ最初で最大の博物館です。1877年にイギリスのセイロン総督ウィリアム・グレゴリー卿により造られました。白い瀟洒な建物は当時のイギリスの建築様式をよく今に伝えています。
 発掘された仏像や壁画、仮面,民族資料,鉱物などが多数展示されています。アヌラーダプラ期、ポロンナルワ期の仏像、キャンディ王の玉座など見るべきものが多く並んでいました。また館内には50万冊を越える蔵書を持つ図書館もあります。



バンダーラナーヤカ記念国際会議場
B.M.I.C.H
 中国から寄贈された国際会議場です。ここで数多くの重要な国際会議が行われました。この中にはバンダーラナーヤカ首相の業績を展示した博物館があります。

 バンダーラナーヤカは1956年、親英派勢力を破って首相になった人物です。1959年には、それまでのイギリス連邦内自治国な立場から完全な独立を勝ち取りました。保守派や、タミル人たちから反感を買って暗殺されてしまいました。任期は短かったのですが独立の父として評価されています。
BMICH前の仏像




ニゴンボ
Negombo
 ニゴンボはコロンボの北35kmの海岸の町です。スリランカ最大の漁港があり、国際空港も近いのでリゾート地にもなっています。

 ポルトガル人が伝導に力を注いだのでここの住民のほとんどがキリスト教徒です。町の中に教会がたくさんあります。


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