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トルコの旅    ベルガマ
ペルガモン
Bergama

 遺跡の規模としてはエフェソスより小さい「ベルガマ」は紀元前2世紀頃に「ペルガモン王国」の首都としてヘレニズム文化の華を咲かせた都市です。イズミールとトロイの中間ぐらいに位置しています。
 神話によるとペルガモンの名はトロイ戦争当時にさかのぼるといいます。トロイ滅亡炎上の後、ヘクトールの妻アンドロマケはアカィア軍に捕らわれ、アキレウスの息子ネプトレムスと結婚します。3人の子供の一人がペルガモスでした。その子が建設したペルガモンスがペルガモン、ベルガマになったそうです。

 紀元前560年、この一帯はリディア王国のクロイソスの支配下にありました。次ぎにペルシャのキュロス大王がここを支配しリディア州総督府のミシアに組み込まれました。ペルシャにはイオニア、ヘレスポント、キリキアの4つの州がありました。

 紀元前334年、マケドニアのアレキサンダー大王がペルシャのダリウス3世を打ち破り過酷な重税・兵役から解放されました。大王はロードス島出身のペルシャ軍司令官メムノンの未亡人バルシネにここの行政を任せました。前310年にここを支配したヘラクレスはバルシネと大王の子であったともいわれています。

 前323年に大王が他界すると、重臣達によって5つに分けられました。ここ西、南アナトリアはリシマコフ、メソポタミヤ・シリア・東アナトリアはセレウコスに、ギリシャ・マケドニアはカサアンドロスに、エジプト・リビア・北アラビアはプトレマイオスに分割されました。
 リシマコスは領土を拡大するため妻と離縁しプトレマイオスの娘アルシノエと結婚します。この妻が前妻の長男アガトクレスを殺害したことから反乱になりました。フィレタイロスはリシマコスの信頼篤くアレクサンダーの遺産であった金貨9000タラントの保管を任されていました。
アクロポリスには王宮跡に造営されたトラヤヌス神殿の白い大理石の石柱があります。ローマ皇帝ハドリアヌスが、先の皇帝トラヤヌスに捧げたものでコリント様式の15本の石柱を残しています。

 アルシノエに冷遇され身の危険を感じたフィレタイロスはセレウコスに遺産の金貨と交換で味方につけました。前281年コロペディオンでリシマコスは戦死します。フィレタイロスは王になりペルガモン王国を開きました。領土もマルマラ海まで拡張します。セレウコスかは約束の金貨を求められましたが拒否しました。
大劇場はアクロポリスの南西急斜面を利用して造られました。15000人程収容できたそうです

 新しく貨幣を鋳造するときフィレタイロスはリシマコスの肖像を刻ませています。ライバルだったアンティゴノスの部下だったにもかかわらずペルガモの司令官に抜擢し金貨の保管も任され、結果的に裏切ることになったので敬意を表したのでしょう。 王国は甥のエウメネス1世の時代に繁栄の時を迎えます。シリア王アンティオコスは以前拒絶されたままの金貨を要求してきましたがローマとともに戦い、前261年サルディスで打ち破りました。小アジアにおける交易の権益を得て、その富をバックにアクロポリスの建設が行われました。
祭壇に再生のシンボル「蛇のレリーフ」があります

 次に王になったのはアタロス1世です。彼はオリンピックで戦車の馬で優勝しペルガモンの碑にも刻まれた勇者でした。ガラティアにも勝利しゼウスの祭壇の建設もしました。次ぎに跡を継いだエウメネス2世の時プルガモンの黄金時代でした。アスクレピオンも拡大され地中海世界の各地から患者が集まりました。当時最も有名な医療施設でした。

 前2世紀エウメネス2世が建てた図書館は蔵書が20万冊を誇り、アレキサンドリアを抜いて世界一位となりました。エジプトはライバルのペルガモンをねたんで、パピルス紙の輸出を禁止しました。これに対しペルガモンは羊皮紙を考案したそうです。この貴重な蔵書を、アントニウスはクレオパトラを喜ばせようと、エジプトに送ってしまったといわれています。

 王の死後、弟のアタロス2世が王位を継ぎました。「アタロス・フェラデルフォス」(兄思いのアタロス)と呼ばれたそうです。ビティニア王国のプルシアスに攻め込まれアスクレピオンの医神アスクレピウスの像まで持ち去られてしまいました。報復のため大攻勢に出ましたがローマの仲裁で領地は以前のままでした。アタロス2世はエフェソス港の大改修をしたり、アタレイア(現アンタルヤ)の街も造りました。
ベルガマのアスクレピオンは前4世紀から前2世紀にかけて造られたローマ時代の医療施設跡です

 アタロス2世が亡くなると甥のアタロス3世が即位しました。跡継ぎもない彼は死を前にペルガモン王国をローマに委譲しようとしました。異母弟アリストニコスはこれに反対して反乱を起こしました。ローマ相手に善戦しましたが結局ローマに連行され殺害されてしまいます。

 アタロス3世の意志とは違い、ローマは前129年ペルガモンに対し新しい行政を施行し国家の財宝も取り上げ、最初のローマ帝国アジア州を誕生させました。ペルガモン王国の反抗が静まったのは皇帝アウグストゥスの時だったそうです。アウグストゥスは前31年、20年にここを訪問しています。ネオコロスという皇帝神殿を建立する名誉ある勅許を受けています。
133年からローマ帝国の属州となりエジプトのアレキサンドリアと並ぶ文化都市となり、人口も20万を越えました

 AD14年にアウグストゥスが亡くなり義理の息子ティベリウスが皇帝になりました。17年、西アナトリア大地震の際、ティベリウスはペルガモンに税を免除しています。トラヤヌス皇帝の時は再び皇帝神殿を建立しました。117年から138年のハドリアヌス皇帝の時はエジプトの神に捧げる神殿を建立するなどかっての賑わいを取り戻しています。アスクレピオンも近代化され世界一の医療センターになり人気を集めていたそうです。トラキア遠征の帰途、重傷を負ったカラカラ皇帝はここで治療を受け回復しています。
 8世紀にはアラブ人、14世紀にはオスマン朝によって打撃を受け衰退したそうです。

 イスタンブールとイズミールの鉄道建設に当っていたドイツ人カール・フーマンが工事現場から出たフリーズ(建物の小壁)の断片を目にしたとき古代都市ペルガモンの発見の第一歩でした。ベルリンの考古学者アレクサンダー・コンツの協力を得て、1877年オスマントルコ当局の許可のもとゼウスの祭壇周辺の発掘が開始されたのでした。



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